走馬燈
夜の街は、喧騒に包まれ、その文明の光は自然がもたらす秩序に反抗するかのように、終わりのない輝きを放っていた。
その一帯に『彼』はいた。
自身を呑み込む不可解な現象に戸惑いながら、ただそこに在った。
少年の時間の流れは静止していた。いや、正確にはとても緩慢に、止まっていると錯覚するほどに、少しずつ流れているようだった。目の前で起きている全ての出来事が、ひとつも漏らすことなく、把握できている気がした。
過去に聞いた話のように、めまぐるしいフラッシュバックが起きる訳ではないが、これは所謂、『走馬燈』の様なものなのかも知れない。異様な体感時間の引き延ばし、一秒が一秒ではなくなる。その元凶は少年の目の前にあった。
「ああ、俺は、今日ここで死ぬのかな?」
※ ※ ※
時間を少し戻し、まずは少年の人となりを紹介しよう。
少年の名前は、『四畝波海兎』善良な一般市民を装う特殊性癖の申し子――ではない。
学校の成績は可もなく不可もなく、強いて言えば、国語が得意というくらいで、勉学、スポーツともにそれほど目立った成績は収めていなかった。クラブ活動もやらず、帰宅部。
生徒会のような組織とも縁遠い。
持っている知識のほとんどは趣味のゲームから得た、まとまりのない雑学の様なものだった。
クラスでも浮いているという程ではなく、中の良い数人の友人を除けば、ほとんどコミュニケーションを取ろうともしない、かと言って他人から過剰に干渉される事もない、いわば、中立地帯を築き上げていた。
色恋にも疎く、好きだったり気になる女子もいなければ、当然、向こうから告白されたこともない。そもそも、身内いがいの女性とほとんど話した事がなかった。まあ、性欲は年相応に旺盛ではあるようだが。
身長は同年代の平均値、取り立てて、太っても痩せてもなく、少し肩幅が広いことを除けば、体格も至って普通で、腹も出てはいない。好きなゲームの影響で、真似事を始めた武術の鍛錬のおかげか、平均よりは筋肉質かも知れない。
特別に端正な顔立ちという訳でもないが、つり気味で二重の瞳は大きく、鼻筋も通っており、口は唇の血色も良く、口角が上がっていて普通にしていれば、笑顔の様に受け止められることもある。総合して同年代の少年達と比べれば童顔だった。
頭髪も短めの黒で、左右の髪の長さを見れば、右耳は髪で隠れているが、左耳は露出していた。髪の分け目はやや左寄りの真ん中あたりで、前髪の一部がわずかに右眉にかかっているが清潔感があり、間違えても悪人や不良とは思われない容姿をしている。
ただし、これもゲームの影響か、良く見ないと気付かれない程度に、頭頂部から額のあたりを逆立てている。控えめな主張というやつだ。頭髪にこの処理をするために、いつも見えるか見えないかのラインを狙って、水を付けたり乾かしたりと、意外と面倒な作業をしていた。
服装は上半身が、半袖で青地に白と灰のラインが入ったチェック模様。下半身は模様のないカーキ色のズボンを穿いていた。余談だが、すね毛を隠すために暑い季節でも長いズボンしか穿かない。
靴は、紐で結ぶタイプのスポーツシューズを履いていた。
ほんとうは上半身の服の裏に厚紙と布紐で拵えた、お手製の鎧もどきを装備したいところだったが、それは他人に発覚した場合のリスクがあまりにも高いため、鉄の意志を持って我慢していた。
その変わりと言う程ではないが、左胸のポケットには常に厚めの文庫本を忍ばせており、これがもしもの時に、心臓を狙った一撃を防いでくれるはずと、常日頃から妄想は欠かさなかった。
背負われたリュックサックには少年にとっての宝物が入っていた。
「店に寄ってたら、帰りが遅くなっちまった。今日、帰ってやることやって、明日の朝までにどれくれいプレイできっかな。……急がないと」
少年は自他ともに認める『ゲーマー』だった、『三つ子の魂百まで』というが、少年は幼い頃からのゲーム好きで、高校三年生となった今でもその性向は変わってはいなかった。
彼の人生は、いかなる時も常にゲームに彩られ、喜びも悲しみもゲームとともに乗り越えてきた。ゲームこそは、少年の人生の輝きそのものであると言えた。
一年ほど前に、両親の反対を押し切って、始めたコンビニでのアルバイトもゲーム購入の資金を得るためだった。
そんな少年の性格が災いを招いたのか、バイト帰りに今日発売の新作ゲームを手にした少年は、早く家に帰って遊びたいという耐え難い欲求に抗いきれず、何事においても用心深い普段の態度からは程遠い、軽率な選択をしてしまった。
ほんのわずかな違い、そうすれば、少しだけ早く家にたどり着ける。その程度の違いのために、危険を顧みない愚かな行動に出てしまった。
信号が赤なのにも関わらず、横断歩道のない場所から車道へと飛び出してしまったのだ。もちろん、周囲の状況はよく確認したはずだった、だが浮かれた心は重大な見落としを阻止できなかった。
その結果が『この状況』を生んでいた。
少し離れた位置にあった曲がり角を、左折してきた乗用車が少年の渡ろうとする車線に現れたのは、彼が周囲の確認を終えた直後だった。
あるいは、わずか数秒でも少年の判断が遅れていれば、状況はまったく変わっていたかも知れない。
だが不運にも、少年の判断は軽率にして、迅速だった。自分はきちんと周囲の確認も終えたという、ルールを破る者の根拠のない自身が、彼に身の破滅を招いた。
少年に向かってくる乗用車はそれほど速くはなかった。しかし、それは人を殺傷するには、十分な凶器と化していた。
少年に気付いた運転手がけたたましいクラクションを鳴らし、少年が自分へ向かう一台の乗用車に目を向ける――、その瞬間、少年は常の世界から切り離された、聞こえていたはずの周囲の喧騒、クラクションの音、それらが全て沈黙の中に吸い込まれていく。
そして、少年は時間の静止した世界にいた。
※ ※ ※
何度、同じ行為を繰り返したのだろうか?自問自答してみるが、回数などとうに忘れてしまっていた。
目に入る限りの情報を得ようと努力する。とは言え、視界を動かすことは出来ないために、視覚から得られる情報はそれほど多くはない。
補足しておくと、視界を動かせない訳ではなく、あまりにも体感時間が引き伸ばされているために、身体や首、眼球の向きを変えるという簡単な動作が、とてつもなく億劫に思えるのだ。まあ、これも実行はしていないため、実際に動かせると断言はできず、恐らく、だが。
電気信号が脳から神経を通り、各部位の筋肉を動かすという、日常的に繰り返される単純な動作も、神経を通る電気信号の速度すらも止まって見えるような静止した状態では、とても困難なことになるようだ。
ここで、ふと疑問が浮かぶ。
思考も脳の作用で行われているのなら、何故、『この状況』で静止せずに自由に考えることが出来るのだろうか?疑問の余地は尽きないが、人体の神秘とでも呼ぶべきものなのだろうか?
話が逸れたが、元に戻そう。
――まず、既に何十回と見つめ合っている気がした、乗用車の運転手、しかし、これは外れ。有用な情報とはなり得ない。ライトの光が眩しくて運転席の様子はまともに把握できないからだ。
彼か? 彼女か? 老若男女、外見、何一つ分からないが、もし顔が見えていたなら、想像できる限りの呪詛を唱えて、罵っていただろう。
ルールを破ったのは、自分だという事実は、既に忘れ去っていた。
――ん? 待てよ。もしも「超」がつく美人だったらどうする? ……いやそれでも許さないね。ある条件が付加された場合を除けば、な……。
それについては今ここで、微に入り細に渡り言うつもりはないが、重要な好みに関わる問題だった。
次に、周囲の人々。これも多分外れ。
『この状況』に気付きはじめているのか?驚きの顔で今にも叫びだしそうな女性がいた。携帯の画面を食い入るように見つめており、どう考えても気付きそうにはない男性。その他、思い思いの時間を過ごす人々。今は、繁華街にとってのゴールデンタイムだ。人の数だけは保証されている。
「今から助けを呼ぶのなんて不可能だろうけど、例えできたとしても、ここから俺を救い出すのは、スーパーヒーローでもない限り無理だろうな……」
いくら見渡しても、周囲の人々は助けにはなりそうになかった。先ほどから何度となく同じ結論が繰り返されていた。絶望感や恐怖心も薄れて来たのか。取るに足らない思考の暴走が始まる。
「『この状況』が終息を迎えたら、今、余所見してる連中も、全員こっちを向いて釘づけになる!それに五千兆円賭けるぜ! その時になったら、俺は多分、死んでるけどな」
愚にもつかない妄想だと分かっていた。
ああ、ほんと、もしそうなったら、億万長者でゲームも買い放題、一生遊んで暮らせるってのに。豪邸に住んで、周囲からは石油王って呼ばれたりしてな!
「はあ」
心の中で長いため息をつき、無用な思考を振り払った。
……いくら考えても、『この状況』は自分の力では変えられない。また他人の力にも期待できない。あるとするなら、撥ねられた後に、迅速に救急車を呼んでくれるかどうかだろうか?それも、即死だったら意味はない。
長い沈黙の時間の中、絶望は振り払ったはずだった。しかし、今まで自分のことばかりを考えていたが、ふとした拍子に、ある思考が頭をよぎった。それが、絶望をありありと思い出させてくれる。
「しまった! 自分の買い物だけすまして、姉さんから頼まれてた物を買い忘れてるわ」
一度、考えてしまったら、もう止まらなかった。
……姉さん、父さん、母さん。我ながら、とても出来のいい息子とは言えなかったと思うけど、俺が死んだら、みんな悲しむのかな……?
最後に会ったのは、学校から家に帰った時か。数時間前のことだが、はるか昔の様に感じる。
涙があふれそうになってくる。だが、それをぐっと堪えた。
堪えなくても、『この状況』じゃ流れはしないか……。感情は昂ってはいたが、思いのほか冷静だった。長い静止状態がもたらした諦観が、心の根底に横たわっているのかも知れない。
「それに、今は、泣いている場合じゃない、『この状況』でひとつ引っかかっていたことは、思考の自由さだが、もう一つある」
それは、とても不可解で『この状況』には似つかわしくないものだった。もしかすると、それが状況を打破する鍵となるかも知れない。
それは――。
ずっと耳元にある様に鳴り響いて止まない。
「心音」
それは、とても奇妙な現象だった。無限にも思える時間の引き延ばしの中で、心臓の鼓動だけが、一定の間隔でリズムを持ち、鳴り続けていたのだ。
普通に考えれば、これは一瞬の出来事が引き伸ばされた状態だから、こんなにも鼓動は聞こえないはずだ。平常時の心拍数から考えても、一回、拍動するのに一秒弱か、ここまでほんの数秒の出来事だとしたら、間隔を開けて数回、聞こえるのが正常なはずだ。それに恐らく、心音自体も長く引き伸ばされるはず――、だが、実際には若干速くなってはいるようだが、普段通りに打っている。
少し速く感じるのは緊張のせいかも知れないが、それでは何の説明にもなっていない。
この体感時間で、この速度で打たせようと思ったら、秒間千回とか余裕で超えてしまうのではないのか? そんな異常事態では、車に轢かれるまでもなく絶命しているだろう。
「なにもかもが分からないが、何か特別な事をやれば、謎のパワーが発現して『この状況』を変えられるかもしれないぞ」
無理やりにプラス思考に変えようとしているのは、分かっている。これは最後の悪あがきなのかも知れない。
考えられる限りの、幼い頃に物語で読んだ呪文、ゲームで覚えた呪文、そういった何か神秘的な力の宿っていそうな言葉を次々と心の中で唱え、念じ、叫んだ。それは、死を間近に控えた人間の悲鳴の様なものだったのかも知れない……。
暗い世界に、自分の声だけがこだまする。意識は深く、内面へと落ちていった。深く、深く、一筋の光も届かず、底の窺い知れない大洋の闇の中へ――。
※ ※ ※
どんなきっかけがあったのかは分からないが、内面に沈み込んでいた意識は、深く眠っていた人間が突然、頭から冷水をかけられたかのように、一瞬で現実に引き戻された。
どのくらいの時間が流れたのだろうか。いや、この表現は正確ではないが――、気がついた時には、少し離れた場所にいたはずの乗用車は、目と鼻の先まで迫って来ていた。腕を動かすことが出来れば、少し向こうに伸ばしただけで、激突するだろう。
運転手はブレーキを踏んだのか? 速度は落ちているのか? 『この状況』ではそれを確かめる術もなかった。
「もうこんなに近づいてきている、もうすぐ終わるのか……」
少年の心には、再び様々な感情が去来していた。それは、目まぐるしく移り変わる『走馬燈』の様だった――。