オルフェウス
オルフェウスの神話をモチーフにした作品となります。
「今日は何を弾いてくれるの?」
手元の本から目をそらすことなく、彼女は僕に聞いた。
彼女はいつもそうだった。定位置である、大きい机の真ん中の席に座りながら、僕のピアノをBGMに本を嗜む。
「今日は昨日までの寒さが嘘のようにあったかいから、そんな感じの曲かな。」
僕は目を瞑り、春の息吹を想像しながら、自分の中を陽気で満たす。十分に浸ったあと、僕は静かに鍵盤に手を運び、旋律を奏で始めた。
今、僕らがいるこの場所は、もう使われていない古い図書館の地下であった。新しい図書館が別の場所に作られると同時に、ここはいらなくなった本や物を保管する倉庫のようになっていて、気づくといろんなものが運び込まれていた。その中には、たくさんのカビ臭い本に加えて、どこかから運び込まれたピアノも置かれていた。
彼女は、ここの管理人さんとは面識があり、長い付き合いらしく、いつも自由に出入りさせてもらっていた。僕がここに初めて来た時には、既にそんな感じで、僕も何度か遊びに来るうちに、彼女がいる時は自由に入れてもらえるようになっていた。当然、こんなところにわざわざ来たいと思う人など少なく、僕らを除き、ここに来る人など誰もいなかった。
そんな倉庫のような場所であるわけだけど、僕はピアノを弾きながら、光が差し込む窓を見上げた。
ここは地下ではあるが、部屋には一箇所だけ光を入れるための窓が、ちょうどピアノから見上げた場所にあった。夕方になるとそこから入り込む光が部屋に差し込み、ちょうど彼女が座るあたりを照らす。
少し眩しそうにしながらも、その位置から動こうとせず、本を読み続ける彼女を見ては、僕は再び視線を手元に戻す。
あまりに気を取られると、手元がおろそかになって、彼女に怒られることもあった。旋律が乱れることは、彼女の読書を邪魔することを意味していた。そういうのも含めて、僕はこの場所でピアノを弾いて、彼女といる時間がとても幸せだった。
でも、日が暮れ始めると、僕はいつも彼女より先に帰らなければならなかった。彼女はいつも僕よりも先に来ていたし、僕より早く帰ることも絶対になかった。帰るときは寂しいものの、いつ来ても、彼女があのテーブルに座っているということは僕にとっては何よりも嬉しかった。
今日も、窓から差し込む明かりがほとんど無くなった頃、僕はそろそろピアノをやめようと思った。だが、まさに最後の数小節を弾き切ろうとしていた時、彼女の携帯が大きな音を立てて鳴った。
今まで数えきれないほど、彼女とここで過ごしたが、僕と彼女の二人の空間が遮られたのは初めてだった。初めて響く異音に二人とも一瞬の間、動きを止めたが、一呼吸置いて彼女は何事もなかったようにその電話を取った。
当然、電話の会話は僕には聞こえるはずもなく、彼女が電話の向こうにいる人に相槌をうったり、特には反論しているのをただただ眺めていた。
ようやく彼女が小さな声で「わかった…」とため息をつき、電話を切った。そして、僕の方に向かい言った。
「今日は一緒に帰るわよ。」
「えっ」
最初の頃何度か、一緒に帰るのを彼女に断れられてから、そういうものだと思い込んでいた。もしかしたら彼女はここに住んでいるのかもしれないとすら思っていた。
実際、ここの管理人さんはすぐ隣の家に住んで、ここの管理をしていることも知っていたから、特にそれがおかしなことだとも思っていなかった。
「もしかして、本当にここに住んでいると思っていたりした?」
そんなわけないでしょう、とでも言うかのように彼女は両手をあげて首を振った。
「だって、いつ来てもいるし、帰るのもの見たことないからしょうがないだろ。」
図星をつかれた僕は慌てて言い訳をした。そして恥ずかしさを隠すように続けて言った。
「ほら、じゃあ今日は帰るんだろ。本当に日が落ちきる前に早く行こうよ。」
僕はさっと出口の階段に向かうが、背後に何も動く気配がないのでふと振り返る。そこには焦った様子ではあるものの、相変わらず定位置に座っている彼女がいた。
「どうした?早く…」
僕はその後に続く言葉を飲み込んだ。というのも彼女が恥ずかしそうに僕の方に手を差し出したからであった。
彼女の意図がわからない僕は、彼女が出した手をじっと見つめたけれど、やはりどういうことか分からなかった。
「…足をくじいたの。」
彼女は意図が伝わらないもどかしさに耐えきれなかったらしい。そして、恥ずかしがりながらも、どこか命令口調で言った。
「だから立ち上がるのを手伝って。」
僕は言われるがまま、彼女の元に駆け寄り、その手ごと引っ張り上げた。だがそれで終わりではなかった。と言うのも、彼女はほとんど自分の体を支えることができていなかった。困惑する僕に、彼女はさらにお願いをした。
「立てそうにないから、背中を貸して。」
「それっておんぶ…」
言い終わる前に彼女にうるさい、と一蹴された。そして言われるがまま、彼女の前にしゃがんだ。すると彼女が僕の背中に覆いかぶさったのが分かった。そして彼女の両手が僕の両肩に乗り、僕の目の前で結ばれた。
僕は恐る恐る彼女の体を支え、立ち上がった。彼女の体は驚くほど軽かった。
「さっさと帰るよ。」
先程までの僕の台詞を奪い、彼女は僕に指示をした。
僕は彼女を落とさないように気をつけながら、真っ暗な階段を登り、外に出た。外はもうだいぶ暗く、いつもなら近寄ってくる管理人さんが飼っている犬も、自分の小屋で眠っていた。
「急いで帰ろうか。」
僕は彼女をおぶりながら、急ぎ足になった。でもそんな焦る僕を制するように、彼女は言った。
「…ゆっくりでいいから。あんまり揺らさないで。」
そう言った彼女の体はさっきより重たく感じた。彼女の両手も、よりきつく握られているようだった。
「えっ?」
振り向こうとすると、彼女は両腕で僕の首を締め付けて、それを阻止した。
「何度も聞き返さなくていいから。後、後ろ振り向くの禁止だから。」
「そんな…」
そうして僕は彼女の存在感を背中だけで感じながら、ゆっくりと彼女の支持する方向へ歩いて行った。
道中は緊張もあって、そんなに言葉は発していなかったように思う。
途中、踏切で電車が通るのを待っている時も、猫が物陰から少し警戒しながらこちらを見つめている時も、僕らは一言も会話をしなかった。
顔を見ることすらしなかったけれど、お互いの息遣いで何を考えているかは分かったし、何も問題はなかった。後から思えば、話さなくてもあの時、僕らの心は満たされていたのだと思う。
そして、赤みがかった雲がほとんど全て黒く染まった頃、ようやく僕らは彼女の家にたどり着いた。そして彼女は僕に最後の指示を出した。
「チャイムだけ鳴らしたら、私をここに置いて帰って。」
少し名残惜しいという気持ちもあったが、僕は頷いた。チャイムを鳴らし、彼女を下ろして、家の前の門に掴まってもらった。
「ありがとう。」
彼女は必死に門に掴まりながら言った。
「後は家の人が来てくれるから、大丈夫よ。」
「でも、せめて出て来るまで…」
「お願い。」
彼女がいつになく重たい声で僕を遮った。
「ここで帰って欲しい。そしてその後も、絶対こちらを見ないと約束してくれる?」
僕は頷く事しかできなかった。
さっと向きを変え、僕は元の道をゆっくりと戻る。しばらくの間続く、彼女の家の前のこの真っ直ぐな道をゆっくりとした歩幅で歩いていく。
さらに前に進んでいると、後ろの方で家のドアが開く音とともに、誰か彼女以外の人の声が聞こえた。それに応えるように彼女の声も聞こえて来る。
もしあれが実は彼女の家ではなかったとしたら、彼女の家がたまたま留守で、隣の人が出てきてしまって困っていたとしたら。
僕の足取りがだんだんと重くなっていく。遠くに聞こえる彼女の声は、何か言い争っているようにも聞こえる。
彼女の家のドアの音だと思ったけど、あれが不審者の車のドアの開いた音だったとしたら。もし彼女が今知らない人に連れ去られようとしていて、僕に助けを求めているのだとしたら。
僕の足がついに止まる。
どれも現実的にはあり得ないと分かっていながらも、どうしてこの不安を抱えたまま歩き続けることができようか。次、いつもの場所に行った時、彼女がいなくなっていたとしたら、僕は自分できっと自分を許せない。
でも正直に言えば、ただ彼女をもう一度見たかっただけなのかもしれない。まだ目に見える所にいるはずの彼女を、この目で見て存在を確かめたかっただけだった。
そして、僕は振り向いた。
不思議なことに、こんなに遠く離れたはずだったのに、僕は彼女の顔をはっきりと捉えることができた。
でも、彼女の様子は僕が思っていたものではなかった。顔からゆっくりと下に視線を落とすと、車輪が見えた。そして家族の誰かが、彼女の座っている椅子を押して、まさにゆっくりと家の中に入ろうとしていた。
僕は一生忘れないだろう。あの時、彼女が僕の方を向き、僕が見ている事に気づいた後、さっと顔を戻し、家に戻っていったことを。その時、彼女が深い悲しみの表情をしていたことを。
そしてその後、彼女があの図書館に現れることは二度となかった。
それはきっと僕のせいだった。
見るなと言われていたにも関わらず、見たのだから。彼女が必死に隠そうとしていたことを身勝手に裏切ったのだから。
そこから僕はピアノに没頭した。ピアノは彼女との思い出でもあったが、同時に、弾いているその瞬間だけは、その思い出すら忘れさせてくれるものでもあった。
でもいくら弾いても、我に返ると涙が溢れた。それでも僕は弾いて、弾いて、弾き続けた。
そしてたくさんの年月が経ち、僕は地元で中学、高校まで卒業し、大学から上京することになった。音楽をさらに深く学ぼうと思い、芸大のピアノ科を受験し、無事合格した。
ただ正直、あの頃、狂ったようにピアノを弾いていた自分はもういない。大学に入るためには演奏だけでなく、勉強もしないといけなかったし、大きくなるにつれて、考え方もだんだんと、いい意味でも悪い意味でも大人に近づいていく。
でもピアノを弾いている時だけ、少しはあの頃に戻れるような気がしていた。
目を瞑って、自分の中を表現したいもので満たし、溢れさせていたあの頃に。暗い地下に光が差し込み、あの席を照らしている景色を思い出す。今では、顔すらはっきりと思い出せない少女は今でもそこに座っていて、僕を悲しそうにいつも見つめていた。
「おーい」
はっ、と我に帰って、声のする方を見ると、大学の同期が部屋の入り口に立っていた。
「練習に没頭するのもいいけどさ、もう昼休みは終わるぞ。次の授業あるだろ?」
「ごめん、ありがとう。」
慌てて譜面をまとめ、カバンにしまい込む。
「お前は本当練習好きだよな。」
呆れたように同期が僕に言う。
「顔だって悪くないし、ピアノもめちゃくちゃ上手いんだから、その気になればすごいモテるだろうに。それなのに周りの女子を邪険に扱うわ、練習は狂ったようにするわ、もはやお前はピアノに乗っ取られたおかしな人みたいな扱いされているもんな。」
「別に興味がないわけではないよ。」
彼は意外そうな顔をして驚いた。
「ほほう、それはいいことを聞いた。じゃあさ、今から俺につきあってくれ。」
一転して彼が攻勢に転じたことを受け、僕は自分の発言を後悔した。
「俺らの同期の中にさ、ものすごい美人がいるらしい、という噂を聞いてたんだよ。そしてついにこの間所属の科が分かったからさ、今から一目見に行こうと思うんだ。お前も来てくれよな、だってお前がいてくれた方が、女子受けがいいんだよ。」
返事もせず、見るからに不機嫌になっていく僕を見て、慌てて彼が付け加える。
「いや、でもそれが本当に綺麗な子らしい。それこそ絵画から出てきたんじゃないかと言われているくらい。本当だって。ただ…」
彼は言うかどうか迷う素振りを見せた。
「ただ…?」
「本当かどうかわからないけど、車椅子だって噂なんだよな。」
僕はピタッと歩いている足を止めた。
「車椅子?」
「ああ、どうやら特別な送り迎えとかしてもらっているらしくて、その時に車椅子の姿だったと聞いている。そういう事情もあって、全部の授業に出ているわけではないから、みんなにその存在が知られていないのかもしれない。」
僕は彼の話を聞き終わる前に走り出していた。
「お、おいどこにいくんだよ。」
僕は走りながら、慌てて追いかけてくる同期にどこに彼女がいるのかを聞いた。
「今、ちょうど4階の41番教室にいるらしいけど、いったいどうしたっていうんだよ。」
自分が走っていることが、自分でも不思議だった。顔すらはっきりと思い出せない今、彼女のことなんて、遠い昔の思い出に整理したのだと思い込んでいた。
でも、少しでも会える可能性があるのなら。
そう思えただけで、僕は今、全力で走っている。
おわり
読んでいただきありがとうございます。
毎度ながら、リクエストいただけますと更新頻度が上がりますので、ぜひコメントください!