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神話はここにあり   作者: ジョアンド
8/9

セレネ

人の命はいつか消えゆくもの。でも大事な人であれば死んでほしくないと思うのは当然のことでもある。

目を開けると、ちょうど川を渡っている所だった。初夏らしい気温の中、軽く開けられた電車の窓から入る風はちょうど気持ちよかった。


ガタンゴトンと電車は揺れながら、まだ寝ぼけた私の頭を揺さぶる。私が乗るこの電車は、最初は地下に潜っているのだが、あるところから地上に一気に上がり、そのまま、川を渡る橋に差し掛かる。


川を渡ると一気に密接した建物が増え、遠くに高層ビルも見えてくる。しばらくはそのような景色が続き、だんだんと駅と駅の間の間隔も狭くなってくる。


そして目的の駅に着くと、私はすっかり手から離れていた手提げを握り直し、電車の外に飛び出た。


足はすでに道を覚えており、特に意識をしなくても目的地である病院まで運んでくれる。その後も随分と繰り返されたもので、受付に向かうと、受付のお姉さんも顔を見るだけで通してくれる。そして私はエレベータに向かい、最上階のボタンを押す。


上がったところでエレベータを降り、右手の前から二番目のドアをノックする。誰も返事はしないが、私はドアを開ける。そこにはいつものように機器の中で横たわる少年がいる。


ここは特別な設備のある部屋で、彼以外に患者はいなかった。


ここにいる少年は15歳の時、治療法のない重い病気になったそうだ。数年以内に命を落とすという医者の診断だったが、幸い裕福だったご両親は、少年をコールドスリープにできる環境を見つけ出した。


そしてそこから少年は長い長い眠りについた。


コールドスリープにかけられた人は病気を治す治療法が発見されるまで眠り続ける。そこに彼の意思は存在しない。一度眠りにつけば、彼の生死は彼ではない他人に完全に委ねられることになる。


だが逆に言えば、眠り続けさえすれば、彼は半永久的に生き続けることができると言えるのかもしれない。我々が一日一日と老いていく中、彼は15歳の時の姿のまま、今でもそこに眠っている。


私は部屋に入ると、近くにあった椅子を運んで、彼の横に座った。そして、いつものようにカバンから本を取り出し、読み始めた。機械音と定期的にページがめくられる音だけが部屋を満たしていた。


暫く経った頃に、ノックが聞こえ、ドアが開けられた。


「あら、今日もいたの、いつもありがとうね。」


見慣れた看護師さんがいくつか薬品や液体パックなどを抱えて入ってきた。


「彼も喜んでいると思うわ、何せ、もう彼には来てくれる身内すらいないからねぇ。」


彼女は慣れた手つきで、次々と機器の側面を開け、チューブや液体パックなどを交換していく。


「そうですね、妹さんも、もうほとんど来られていないんですよね。」


彼が眠りについてからすでに多くの年月が経過していた。

そしてその月日は大きく周囲の状況を変えた。


最初の数年で、経済危機が起き、彼の父親が運営していた会社は倒産したそうだ。そして、多額のコールドスリープの維持費用を払えなくなった。当然、その場合、病院側も治療を継続することができなくなる。そして病院から支払いについての最終通告がご両親に提示された。


その病院とご家族のやり取りを契機に、ご両親は離婚されたと聞いている。理由は、借金してでも治療を維持するべきか、諦めるべきか、という争いに始まり、その時二人の間に開いた溝は二度と埋まることはなかったらしい。そしてさらなる争いの上、親権は母親のものとなった。


しかし、当然ながら、母親もその費用を払うことはできなかった。そして、資金を求めて色々と母親が活動していたのが、たまたま私の目に止まることになったという訳だ。


そして私は費用の支払いを一身に引き受けた。正直に言えば、明確な理由はその時はなかった。ただそんな状況下に置かれてしまった少年を助けてあげたかっただけなのかもしれない。


まだ30歳過ぎの私が最初申し出た時、病院も母親も疑念を持っていたようだったが、何度かきちんと振り込んだら、誰も文句を言わなくなった。


不思議なもので、私が支払うようになってから、母親が病室にくる回数が著しく減った。金銭的にも、精神的にもずっと囚われ続けていた彼の母親も、どこかで解放されることを望んでいたのかもしれない。毎日が、週1回になり、隔週になり、1ヶ月に1回になり、1年に1回となった。


そして再婚されてからはほとんど顔を見せなくなった。かろうじて父親側に引き取られた妹さんが時折顔を見に来るが、それも今ではかなり不定期だ。


「坊やの意思と関係なく、生かされ続けているのに、周りから人がいなくなるなんて皮肉なもんだねぇ。」


その後一通りの補充と点検を終えると、看護師はもう一つの椅子にどっさりと座り込んだ。


「そうですね、もしかしたら私がしたことは家族を不幸にしただけだったのかもしれませんね。」


看護師さんが言っていることもごもっともで、もしかしたら生きることのできる時間が短くとも、少年は家族の時間を過ごすべきだったのかもしれないと、今でも思うことがある。


「そんなこと言わないで、今でもこの病院にいる人はみんな貴女のこと崇拝しているんだから。こんなどこからともなく援助を申し出て、親でもないのに毎日見守りに来る聖人のような人がいるのかって。一時期ものすごい話題になったんだから。」


確かに最初の方は、私がここで本を読んでいるとドアの隙間から覗いたり、ドアの後ろのこそこそ話が聞こえてきたりと、なかなか落ち着かない状況もあった。それも数年ですっかり落ち着いて、ぱったりといなくなっていた。


「それにこの坊やだってきっと嬉しかったはずよ。」


看護師さんがさらに力説する。


「誰かが自分のことを気にかけて、身内でもないのに、ずっとそばにいてくれているなんて。しかもこんな美人のお姉さんなんだから尚更よ。」


さてと、そろそろ行かなきゃね、と言いながら看護師さんは部屋の外へと戻っていき、再び部屋には私と少年だけが残された。私は再び読んでいた本に戻った。


手元の本を読み終えたとき、日はだいぶ沈んでいた。この部屋では照明はほとんどつけられることがない。日中作業する分には外からの灯りで十分であるし、遠くから訪ねている私も、日が暮れたら大体帰ってしまっていた。


今日もそろそろ帰ろうかと思い、本をしまうためにカバンに手を伸ばした。


「あれ?」


少年が眠っている機器に立てかけておいたカバンに、ブランケットがかけられていた。


「看護師さんが落としたのかな?」


触ってみると非常に肌さわりの良い生地で、思わず拾い上げ、座り直した膝にかけた。

すると不思議な心地よさに包まれ、私はすうっと目を閉じた。


。。。


はっと、身を起こすと、すっかり暗くなっていた部屋に月明かりが差し込んでいた。

どうやら寝過ごしてしまったらしく、窓の外をみると銀色に輝く満月が夜空に浮かんでいた。


慌てて、ドアに向かったが、どうやら外から施錠されているようで開かなかった。私がいることに気づかずに誰かが鍵をかけてしまったのだろうけど、内側から開けるはずの鍵の場所が見当たらない。


心が落ち着かぬまま、振り返ると、私ははっと目を見開いた。

先ほどまで私が座っていた場所には、見慣れた少年が座っていたのだ。


「こんばんは。」


少年はとびきりの笑顔で言った。初めてみるはずの表情になぜか愛着すら覚えるような懐かしさを感じた。それでもまだ私の口は言葉を発せられずにいた。


「はじめまして・・・ではないですかね。」


少年は嬉しそうだけど、少しだけ困ったような顔をする。


「そう・・・ね。」


ようやく私は言葉を絞り出した。


「はじめまして、ではないかもしれないね。」


その後は、お互いにしばらく言葉を探るような状態になったが、お互いにぎくしゃくしている様子があまりに可笑しくて、少年と私はぷっと同時に吹き出した。


「ずっと話したいと思っていたのに、いざ面と向かうとうまくできないものね。」


私は目のあたりを少しぬぐいながら、言った。


ただうまく話せなかったのは、もちろん初めて話すということもあったが、少年があまりに美形であることに改めて気付かされたからであった。今までも十分淡麗な顔立ちは寝顔として見ていたが、いざ目を開くとこんなにも違うものなのかと驚かされる。


「僕も何年かぶりに話すことが、こんなに難しいことだとは思いませんでした。」


月明かりに照らされながら、頬を赤らめ、笑い涙を拭う少年の姿は、とてもこの世のものとは思えないくらい美しく、私は再び息を飲んだ。


「でも久しぶりに話す人が、こんな美人で、綺麗なお姉さんでよかったなぁ。」


まだ続けて言葉を発することができない私を見ながら、少年はいたずらっぽくさらに付け加えた。


「こら、40にもなる女性をからかうんじゃありません。」


そうして二人で、今度は大声で笑った。


そのあとは、お互い本当に自然と言葉が出た。


ずっと話そうと思っていたこと、話したかったのに話せなかったこと。お互いが溢れるように堰ためていた長年の思いを、一気に解き放ったように二人でお話をした。


そんな中、再び沈黙が訪れたのは、月の位置もすっかりと低い位置まで下がってきた頃だった。低くなった月は彼の顔に暗く影を落とした。


「ねえ、お姉さん。実は一つお願いがあるんだ。」


沈黙を破るように少年は言った。


「お願い?」


私は心臓を突然掴まれたように、彼の次の言葉を待った。


「やっぱり僕は目を覚ましたいんだ。」


少年の語気は強まる。


「こんな風にしか人と話せないなんて、やっぱり悲しいんだ。眠っている間にもかすかに意識はある。もうずっとずっと長い間我慢してきたんだ。お父さんにも、お母さんにも会いたい。妹にも会いたい。たくさんいた友達ともたくさん遊びたいんだ。」


私は何も言うことができなかった。彼は知っているのだろうか。両親はすでに別れていることを。妹さんも、結婚を見据えすでに疎遠になっていることを。友達についても、みんな成長し、それぞれの道をすでに進んでしまっていることを。


「お姉さんはどう思う?」


少年は何も話さない私に悲しそうな眼差しを向ける。


「君は…」


私は乾いた喉にもう一度力を込めた。


「君はせっかくご両親が預けてくれた治療を捨て、数年しかない命でこちらに戻ってくるの?」


この言葉が彼を苦しませることは十分に分かっていた。でも、今彼が戻ってくることが良いことだとは、とても思えなかった。戻ってきて悲しむ彼を見たくはなかった。


「しかも君が長い年月を眠っていた間、随分と時間が流れたよ。もうこっちは君が知っている世界ではないかもしれない。それでも君は戻ってきたいと思うの?妹さんだって君より大きくなっている。友達だってみんなもう多くが社会に出て働いていて、遊んでくれはしないよ?」


今度は少年がうつむく。目の前の少年を苦しめている罪悪感に襲われながらも、私は自分が間違っていないと信じていた。


「ねえ、お姉さん。僕はもう知っているんだ。」


「えっ…?」


「たまにきてくれる妹が随分と大人になっていること。友達はもう誰もが僕を忘れて自分の人生を送っていること。お父さんとお母さんが離婚して離れ離れになっていることも、知っているんだ。」


最後は特に悲しそうに少年は言った。


「でもね、その後毎日のようにお姉さんが来てくれて、そばにいてくれていることも知っているんだ。」


少年は俯いていた顔を上げて、私をまっすぐ見つめる。そして彼は私に向かって細い手を差し出す。反射的に、私も手を出すが、その手は何にも触れることなく、彼の手を通り過ぎた。


「だから一回でいいからお姉さんに、直接お礼を言いたいんだ。こんな中途半端な形じゃなくて、自分の生身の体を使って、しっかりと伝えたいんだ。」


少年は今にも泣きそうな声で言った。彼は結局まだ15歳なんだ。この現実を受け止めるには誰かの支えがないととても耐えきれない。それをできるのは今私しかいないのかもしれない。


「必ず、すぐにコールドスリープに戻るって、約束するよ。だからお願い。今夜、少しだけ目を覚まさせてほしい。」


先ほどまで持っていた考えが揺らいでいくのを自分の中で感じる。少しだけなら、病気の進行も大丈夫なのではないか。今後このように彼と話せるかどうかも分からない。なら本当に今夜が彼にとって、人に触れる最後の機会なのかもしれない。


しばらく沈黙を続けた後、私はついに口を開いた。


「…分かったわ。ほんの少しだけよ。」


私は果たして正しいことをしているのかと自問自答は続いていた。だけど、ほんの少しだけだから、これは彼のためなのだから、と言い聞かせていた。


彼の入っている機械のスイッチを押し、操作を進めていく。


「本当にいいのよね…?」


自分に言っているのか、彼に言っているのか、私自身分からなかった。でも彼がうなずいたのを見て、私は最後のボタンを押した。


「お姉さん、今まで本当にありがと…。」


か細く聞こえた声の方をはっと見ると、先ほどまでそこにいた少年の姿が消えていた。


そして、うろたえる間も無く、私の視界もすうっとぼやけていった。


。。。


たくさんの人がバタバタと移動する音で私は目覚めた。

目を開けると病室は大量の医者と看護師がせわしなく動き回っていた。


眠気は一瞬で覚め、私は飛び上がった。


「彼は?!」


「なぜだか分からないんですが、機械が作動を止めてしまったんです!」


看護師さんがこちらを向く余裕もなく、大声で返事をした。そのまま他の看護師に指示を出しながら、彼女もものすごい勢いで機器を操作していく。

呆然とその様子を見ていた私は、手前にちょうど顔なじみの看護師さんもいたので声をかけた。


「これは再度コールドスリープを施しているんですか?」


「そう、でも人間はコールドスリープの負荷に一度しか耐えられないと言われているの。彼は部分的に戻ってしまっただけだから、急いで処置をしているけど、何かしらのダメージが発生していてもおかしくない。でもそれは、本当に彼が起きる時にならないと分からないわ。」


私は顔が青ざめた。少しずつ昨夜のことが思い出されてきた。


…ほんの少しだけよ。


昨日の自分の言葉が蘇ってくる。あの装置を停止させたのは私…?


慌てて少年が眠る場所に駆けつける。そこには半目の少年が仰向けに寝ていた。複数の看護師や医者が彼の両手両足に何かしらのチューブを通し直していた。


「ごめん…」


何にも分かっていなかった。

少しだけ目を覚ますなんて、選択肢は最初から無かったんだ。

それなのに私は!!


そこからは記憶がほとんどない。取り乱した私は大声を上げて機械を叩き、少年の名前を呼び続けていたと、後から看護師さんに言われた。そのまま何人かに取り押さえられて、別の部屋に連れてかれても、彼の名前を呼び、謝り続けていたと。


当然同じ部屋にいた私が装置を切ったと最初は疑われたということも聞いている。だけど少年の部屋には防犯カメラが設置されていて、問題の時間には私が椅子でずっと寝ている姿が映っていたそうだ。


そして機械に私の指紋の付着はなく、私の行為ではないという結論となった。この結論が下されてから、ようやく私は再び部屋に入ることが許された。


私は彼の横に行き、顔を覗き込んだ。そこには相変わらず綺麗な容姿の少年が目を閉じて眠っていた。


「あれは夢だったのかしら…」


誰もいない部屋で私は自分に聞かせるようにつぶやく。


でも彼の眠りを覚まそうとした私の意思ははっきりと覚えている。そして、それは彼に謝らなければならないことだった。


もしかしたら、治療法が確立されたとしても、私のせいで彼は二度と起き上がれないかもしれない。

そもそも治療法が確立されることがないのかもしれない。


それでも私は、少年を見届ける義務を背負った。そして、少しでも可能性がある限り、信じ続け、いつの日か、彼に直接面と向かって謝らなければならない。


その日が来るまで、私は彼の横でずっと待ち続ける。


おわり



読んでくださりありがとうございます。リクエストあると、更新が早くなりますので、コメントいただけると嬉しいです!

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