アポロン
アポロンとアルテミス。そしてオリオン。彼らの悩みは他の人には誰も分からない。
「まただ…」
薄黒く染まっていく自分の腕を見ながら、私は呟いた。空が厚い雲で覆われていくのと同じように、私の体は蝕まれていく。
今回は皮膚の変色か…。一時間もすれば雨が降り、止むと同時に私の体も治るだろう。この症状だけならば今のままでも人にうつすこともあるまいが、念には念を入れて、人里から遠ざかっておこう。
「ここならば誰も来ないだろう…」
山の中の小さな小屋に身を潜めて、ひたすら雲が通り過ぎるのを待った。まだ降り出してすらいない雨が止むまで待つというのはなんという苦行だろうか。
ポツッ…ポツッ…
ようやく落ちてきた雨粒の音に耳を傾けながら、私は静かに息を整え、目を閉じた。今回は大きな病でもなく、他者への感染も考えにくい症状だったから良かったものの、簡単には行かないときもある。
私は病で何百、何千人と命を奪ってきた。目をつぶった私の頬を涙が落ちる。しかし今流しているこの涙は、その幾多の人々に向けた涙な訳ではないことを私は自覚している。
すこし離れた洞窟に入り、奥に建てられた質素な石の前に座り手を合わせる。しばらくそうした後、私は冷たく冷え切った地面から腰をあげた。
洞窟を出ると、雨が収まってきたようだ。薄くなった雲の奥が月ですこしだけぼんやり光っていた。もう少しすれば、明るい月が夜を照らすだろう。そうしたらこの腕も比較的おとなしくなるはずだ。落ち着きを取り戻した私はゆっくりと見晴らしの丘に向かって歩き出した。
歩いているとすこしずつ、忘れるはずもない日々が脳裏に巡った。もうそれが何度目かもわからない。一生私を痛め続ける、許されざる記憶が。
…いつもと同じように森に身を潜めようと、深い闇の中を手探りで歩いていた。徐々に闇に目が慣れてきていたとき、近くで人のうめき声が聞こえた。この辺りには狼も頻繁に出没する。もし誰かが襲われているのだとしたら、決して他人事ではない。今、手元に弓矢を持ち合わせていないのが悔やまれたが、ないものは仕方がない。
音だけを頼りに、声のする方へ一歩ずつ近づいた。するとそこには、小さな洞窟があった。昼間でも太陽が当たることのない、普段なら誰も近づかぬような場所だった。そこから、かすかな光が漏れ出している。
おそるおそる、洞窟にはいると、だんだん声が大きくなっていった。そして、その声は一人ではなかった。すこし歩みを早めて奥に進むと、はっきりと赤ん坊の声が聞こえた。
そして、そこには生まれたばかりの赤ん坊と一人の女性がいた。黒い衣をまとった女性は、出産直後のためなのか、難産であったためなのか、まだ少年であった僕には判断がつかなかったが、ひどく苦しんでいた。洞窟内に静かに響くうめき声はどんどん弱々しくなり、どんどん衰弱していっているのは明らかだった。
だからといって、僕に何ができるのであろうか。子を産んだこともなければ、取り上げたこともない僕がいったい何をすればいいのか検討さえつかなかった。
ようやく、まずは声をかけようと決め、一歩近づいたとき、そこにあった光景に思わず息をのんだ。先ほど生まれた赤ん坊が立っているのだ。そして母親の体を優しくさすっている。
徐々に、母親のこわばりが取れていくのが遠目からも分かった。そして、ずっと響いていたうめき声も消えた。その代わり、今度は赤ん坊が泣きだした。先ほどまでの、不思議な光景は幻覚だったのか。
どちらにせよ赤ん坊を暗い洞窟に一人で置いていくわけにもいかず、僕は布に包んで、家に戻った。そして次の日、一度戻って丁寧に母親を洞窟の奥に埋葬した。
その後、赤ん坊はすくすく育った。特にこれといった世話もしなかった。いやする必要がなかったと言ってもいい。気づいたら歩いており、気づいたら話しており、気づいたら僕と同じ食べ物を食べていた。
唯一教えたものは弓矢だろうか。この森で人里離れて生きて行くためには狩りの腕が欠かせない。一緒に狩猟に連れて行きながら学ばせた。センスはずば抜けており、一度教えたことはその場ですぐに飲みこみ、二度と忘れることは無かった。それは時にゾッとするほど怖くもあり、同時に刺激を受ける競争相手にもなった。
なぜか、数年もすると彼女は僕の身長を追い抜いていた。狩りで手に入れた物資を村に売りに行くと人々には姉弟に間違えられた。実際は僕の方が何年も年上なのに何か納得がいかなかった。
「それはあんたがチビだからよ。」
言葉使いもすっかり男勝りになってしまった彼女は、僕がそんな愚痴をこぼすとそう言った。
「ふんっ、偉そうなことは弓矢の腕を抜いてからにしてもらおうか。」
僕と彼女は互いに自尊心が強く、お互いが相手に勝っていないと気が済まなかった。常にお互いを意識し、毎日相手より速く走り、多く薪を割り、相手より多く水を汲んだ。
大体のものは、彼女に抜かれつつあったが、唯一僕の方が確実に優れていたのが弓矢だった。彼女はそれがどうしても許せないらしく、毎日たくさんの矢を手作りしては練習に励んでいるのも知っている。だから、僕は常にその倍練習した。
そんな中、初めての発作が起きた。
最初に症状が出たのは彼女の方だった。空が暗くなり、遠くで雷鳴が聞こえだしたと思ったら突然彼女が苦しみだした。どうしたと慌てて聞いても、全身から発疹が現れ、痛みで暴れる彼女を抑えきれなかった。しばらくすると、僕も同じ激しい苦しみに襲われた。二人のうめき声をかき消すほどの雷雨が響く中、二人でなんとか苦しみに耐え続けた。
「なんだったの?今のは。」
さっきまでの雷雨がやみ、彼女はようやく落ち着きを取り戻した。
「分からない。症状としては、最近耳にする流行り病に近かった。でも病にかかったのなら、こんな急激に治るはずがない。」
その時は結局わからなかったのだ。ただ運よく、回復できたのだと。二人ともそう思うしかなかった。
近頃、いろんな病が近くの村ではやっているようだった。知らないうちに、体が黒くなる病気が蔓延した時期があった。この村も含め、このあたりの村がことごとくやられた上、偶然台風の直撃による不作も重なり多くの人が餓死した。僕らも一時体が黒く変色したのだが、なんとか事なき事を得たのだ。
病による被害から何年も経ち、村はようやく立ち直りつつあった。村には、外からの商人や狩人も時に訪れ物々交換が行われていた。僕らの狩猟物も貴重な商品として扱われ、日々を生きていくには十分な食料や物品を手に入れることができた。
狩人の中には、狩りを指導してほしいという人も出てきた。僕らが捉えていた獲物の多くは、普通の猟師には捉える事ができないものであったらしい。だが、この狩りは弓矢の実力あってのことだった。獲物に気配を悟られる範囲よりもはるかに遠くから唯一無二の技の正確さで仕留める。その事実を知ると大抵の人は諦めて帰った。この技術を習得するには、数年どころではない年月が必要であることは明白だったのだ。
だがそんな中、一人弓を教えてほしいと申し出る者が現れた。彼は、元々は漁師の息子であったそうだ。山の猟の経験が少ない人に教えるのはより厳しいし、最初は何度も断ったが、彼の熱意に負けて僕らは彼を受け入れた。獲物を仕留めた後に運ぶ力要因もちょうど必要だったというのもある。
最初はどうしようもなかった弓の腕も一年すると、僕らの腕には遠く及ばないものの、普通の猟師の程度にまでは上達していた。三人で過ごす時間も多く、僕らはかけがえのない時間を過ごした。
「ねえ。」
冷たい隙間風が厳しく吹き込み、二人とも寝具にくるまっていた。そんな中彼女が僕に話しかけた。僕は返事をしなかった。なんの話をしてくるのかわかっていたのだ。
「一応、あんたにも言っておこうと思うけど。私、彼のことが好きみたい。」
ここ数か月の彼女の様子を見ていれば、それは容易に分かった。それでも彼女から直接打ち明けられると多少動揺した。
「何か言ったらどうなの。」
ずっと何も言わない僕に彼女がしびれを切らしたようにそう言った。
「何も言うことなんてないよ。お前の好きにすればいい、ただそれだけのことだ。」
「そう、分かったわ。明日、彼にこの気持ちを伝えるわ。」
それだけ言って、彼女は話すのをやめた。でもその夜、確かに急激に冷え込んでいるとは思っていたが、夜更けから大雪となったのだ。
そして僕らは、ふたたび発作に襲われることになる。二人で激しく咳込んだ。雪は数日間振り続け、僕らも弱っていった。肺をかきむしりたくなるような衝動にかられた。時折、咳には血が混じった。ようやく雪がやむと、いつもお世話になっている村人が助けにきてくれた。
たくさんお礼をし、ありがたく様々な物資を頂戴した。そのかいもあり、思っていたよりすぐに回復した。だが、今度は世話をしてくれた人が病で亡くなった。それも激しく咳込む病によって。
そしてついに僕は悟った。天気が崩れた時に何度も同じように苦しみを繰り返せばわかってくる。僕らが発症した病が村の人々に感染していく。そうして村で疫病が流行る。そう、僕らは病を作り出す体なのだと。
そしてそれを彼女にも伝えた。でも彼女は受け入れなかった。
「それはあんたの想像でしょ?たまたま、私達が先にかかって、それが村の人たちに不幸にも感染してしまっているだけよ。」
「たまたま二人が同時に発症し、それに関わった人が全く同じ病で死んでいく。そして、同じ気象条件であれば、また同じ症状を二人同時に発症する。これも偶然か?幸いまだ他の村の人に感染した形跡はない。少なくとも、今すぐに人がたくさんいるこの場所を離れないと...」
「いやよ。私はそんな化け物じゃない!すべてあなたの気のせいよ!」
どうした...負けん気は強くとも、いつも冷静さだけは失わない彼女がいつになく感情的になっている。
「彼だってありのままの私を受け入れてくれる。そう言ってくれたわ。」
「お前、彼に会ったのか?!」
「会ったわよ!悪い?会いたかったのよ!あの肺がちぎれるほどの苦しみに耐えられたのも彼に会いたかったからなの!!」
私は何も言い返さなかった。彼女には僕の声が届いていなかった。
どういう結果になるのか彼女は本当に分かっているのか。彼が病で死ぬだけでない。周りにいる人全てを病で殺すとしても、お前は彼と一緒にいたいのか。
僕はいつだって冷静だ。いや、彼女の分も冷静で、さらに冷徹でいなければならない。もう二度と、大量に人が死ぬようなことがあってはならないのだ。
彼女が聞く耳を持たないなら、彼に事情を打ち明け、立ち去ってもらうしかない。そのために彼の元を訪ねた。
「やあ、待っていたよ。」
彼は僕を見るなりそう言った。
「僕を?なぜだい?」
返事をしようとする彼は、そこで咳込んだ。そしてその口元にはかすかに血がついていた。
「お前、まさか...」
「そのまさかさ。でも後悔はしていない。」
男は悟ったような表情でそう言った。
「でも一つだけお願いしたいことがあるんだ。」
「お願い?」
僕は怪訝な顔をした。
「僕を君の弓矢で撃ち殺して欲しいんだ。」
「なっ...何を言っているんだお前は。」
「自分はもう長くはもたない。このまま死んだら、彼女から感染した病で死ぬということだろう?それだと彼女が悲しむじゃないか。だから、狩猟中に誤って矢に当たって死んだという風にしたいんだ。君の腕なら、遠くからでも僕の頭を打ちぬけるだろう?」
「おれに人殺しをしろって事か?」
「君にも申し訳ないとは思うが、君ならわかってくれるだろう?」
「…頭を打ちぬかれる痛みは、そんな生易しいものではないぞ?即死せずに苦しむ場合もある。そんな動物たちを何度も見てきた。」
「その覚悟はできているよ。それに、君の弓矢の腕を信じている。夜中、僕は水辺のほとりで光る鉄の首飾りをつけて祈りをささげている。それだけあれば十分だろ?あとは頼んだ。」
彼の真剣な目を見たら、断る事なんかできなかった。
家に帰ると、彼女はすでに寝ていた。彼女に気付かれることなく、弓矢を取り、僕は見晴らしの丘に向かった。
道中いつもより気持ち、弓が重たい気がした。何万回と打ち込んできたはずなのに。一歩一歩踏みしめながら僕は坂道を上がっていった。
頂上につくと、辺りが一望でできる場所に座った。ここからは良く見える。あの、広がる水辺の向こう側にあるあの小屋が。そして、そのかすかに反射する的が。そう、あれはただの的なのだ、そう自分に言い聞かせた。
これは許されることではないことは重々承知している。僕はこの行いで、正しい道から外れる。だが、今まで何人の人を死なせてきた?それに一人追加されること。それだけで彼女が守られるのであれば、僕はそれを受け入れる。
僕は弓を取り構えた。
そして息を吸い込み、軽く吐きだして、目を開いた。
「何を射るの?」
ばっと、振り返るとそこには彼女が立っていた。
「どうして…?」
「私の方が夜起きているのが得意って知っているでしょ?誰かがごそごそしたら目が覚めるのよ。そしたら、弓を持ってどっか行こうとしているからさ。後をつけてきた。」
「弓の練習なのでしょう?いつも私が寝るとこそこそ練習しているのを知っているのよ。どうせあの光っている的を狙っていたんでしょう。」
そういうなり、彼女は弓を構えた。
「おいおい、何をやっているんだ!」
「いつまでも、弓で負けないんだから。今日こそ、先に的に当ててみせるのよ。一応先に打たせてもらうわ。」
止めなければならないのに、なぜか一瞬戸惑った。いや、何を考えているんだ僕は。
「おい、バカなことは...」
でも僕の言葉が彼女の動きを止めるには遅すぎた。彼女の見事な弓さばきにより、矢は美しく空を切り裂いた。そして、矢が命中するのと同時に水しぶきがあがり、聞こえるはずもないのに、悲しげな断末魔が僕の中に響いた。
「ほら、見て御覧なさい。」
彼女は自慢気にこちらを振り向いた。
「ああ、すばらしい引きだった。」
月明かりに反射する的はもう見えなかった。何も言えないまま、僕は丘を後にした。運命は気まぐれで、時にひどく残酷だ。でも彼女がそれを知る必要はない。
夜、風が強く吹いていた。遠くで荒れている水辺の波がここまで聞こえてきた。そしてようやく風が弱まり、辺りがぼんやりと明るくなったのに、いつまでも夜が明けなかった。とっくに日が昇ってもいいはずなのに、夜明けの神が悲しみのあまり役目を果たせなくなったかのように、太陽が顔を出さない。
不思議に思った僕らは日の出を確認するために水辺の方に歩いていった。水辺が見えたとき、何かが打ちあがっていた。僕は慌てて彼女の手を掴んで引き留めようとしたが無駄だった。必死に振りほどいて彼女は駆け寄っていった。そして糸が切れたようにそこで崩れ落ちた。
彼女はそのまま床に臥せた。必死に治療を試みたが、次々と体内で生み出される病へ対応が全く追いつかない。自らが作り出す病が彼女の中で次々と広まっていく中、僕は何もできなかった。
そのまま、彼女が目を開くことはなかった。
…そして月日が経った。
見晴らし台からの眺めは変わることは無かった。あの水辺も、何もなかったように今日もゆらゆらと波が風に吹かれてはチャプチャプとしていた。
この夜に何か欠けてしまった、永遠に戻ることはないもの。
病で死ぬことも、寿命で死ぬこともなく、私はたった一人で自分を責め続けながらこれからも生き続けることしかできないのだ。
読んでくださりありがとうございます!他の作品も是非!