エコー
みんながよく知っている言葉でも神話をもとにしているのっておもしろいですよね。
「今日はいい天気だね。」
彼がいつものように私に話しかける。私は彼の方を見つめながら、ただ一言だけつぶやく。
「いい天気。」
自分から発せられる言葉があまりにぶっきらぼうで、私は窓の外に目を背ける。青い空の下、窓の外の木々は赤く色づいている。私がまともに話せなくなってから、どれだけの木々の色の移り変わりを見て来ただろう。
「今年も綺麗に紅葉したね。ここから見える景色は絵葉書にも使えそうなくらい綺麗だ。」
「絵葉書。」
この美しい景色を自分の言葉で表現することもできず、彼の言葉を使い回すだけ。こんな私を彼以外は誰も相手にしないのは当然だった。
「見てごらんよ、山の下の方に紅葉を見に来た人がたくさんいるよ。さすがにここまでは誰もこないだろうけど。」
それはそうだ。紅葉が有名なこの山には毎年大勢の人が押し寄せる。でも、私がいるこの場所は山道から外れた奥地で、滅多に人がくるところではない。現に彼が来るまで、私は人と話したことなどなかった。
彼はこのあたりに住んでいるわけではないらしい。毎年この時期になると、ひょっこり顔を出す。そして私とおしゃべりをして帰っていく。
木々は彼が見ていないところで、葉を全て枯らし、丸裸になる。彼が見ていないところで新芽が芽吹き、再び鮮やかな色をつける。そして今年もまた彼が来たというわけだ。
人びとがなぜ枯れゆく木々を好んで見に来るのかは理解できなかったが、そんなことはどうでも良かった。木々が赤く染まれば彼が来るのだ。
「今日はブドウを持って来たよ。さっき下の方でもらったんだ。」
「ブドウ。」
「そうそう、ブドウ美味しいよねー。」
彼が持って来たブドウを二人で、一粒ずつ口に運ぶ。甘い果汁が私たちを満たしていく。
最初の頃はからかわれているのだと思っていた。まともに話すことができない私を馬鹿にしに来ているのだと思った。でも毎年彼が来ているうちに、いつの間にかそんなことは考えなくなった。
彼と話すのはとても楽しかった。一生、この関係が続けばいいのにと毎年思った。でもそんな訳ないと言うのは分かっていた。私は何も変わらないのに、来るたびに彼は大きくなった。声も太く、たくましい声になっていった。
私は怖かった。どんどん変わっていく彼が、こんな話し方しかできない私の元へ彼はいつかこなくなるのではないか。私をこんな状態に陥れた運命が憎かった。
そして、そんな不安を抱えた私を残したまま、今年も彼は帰って行った。私は来年を待ち始めた。
今年、私は話すのを失敗しなかっただろうか。彼が呆れることを言ってしまわなかっただろうか。たった1日の会話を何度も、何度も振り返った。
…
一年待った。
気温が暖かい今年は例年より遅れていたが、ようやくまた冷たい風が吹き始めていた。
今年はいつもと違う想いがあった。彼の名前を呼びたい。毎年、彼が来たときに名前を呼んで迎え入れられるようになりたい。そしていつの日か、私の名前も呼んで欲しい。それが叶うのであれば、もう思い残すことは何もなかった。
「やあ。」
彼がまた私のところへやって来た。
「今年は、美味しいリンゴを持って来たよ。一緒に食べよう。」
「一緒に。」
彼とたくさんのお話をした。話せば話すほど、日が傾いて言った、嫌がらせをするように、楽しければ楽しいほど、太陽はどんどん沈んで行った。
今年も彼は帰ってしまう。彼が立った時、私は彼の袖をつまんだ。そして上を指差した。
「上に何かあるのかい?」
「ある。」
私は嘘をついた。彼の言葉を使いながら嘘をついたことをひどく後悔した。屋上に上がった時、すでに太陽は深く山の向こうに沈んでいた。一番星がかすかに残る空の明るさに打ち勝ち、輝き始めていた。
「屋上に上がるのは初めてだね。」
「初めて。」
「こうしてこの建物を上から見ると、君と初めて会った時のことを思い出すよ。」
彼は、手すりにもたれて、覗き込むように頭を外に出した。
「初めて?」
「そう、皆から逸れて、一人彷徨っていた時にふと遠くのこの建物が目に入って来たんだ。はぐれているということを忘れて、思わずこの建物に向かって、さらに山をかき分けるように奥に進んで行った。そうして君に会えたという訳さ。その後、一緒に来ていた人からはひどく怒られたけどね。」
「怒られた?」
「大丈夫、大丈夫。君が気に病むことではないよ。それにあの日は日を跨がないうちにみんなとちゃんとと合流できたから。」
日をまたぐのはまずいのだろうか。帰って欲しくなくて、彼をここまで連れて来たのに。彼は帰らないといけないのだと、改めて突きつけられた気がした。
「あっ!」
彼が突然声を上げ、空を指差した。何も見えない。
「今、流れ星が流れた!」
私でも知っている。流れ終わるまでに三回願いを言えれば、願いが叶う。二人でじっと空を見つめる。長いこと、二人でそうしていた。
しばらくすると、私は身震いした。いつの間にか、随分と冷え込んでいた。
「寒い?」
私はうなずいた。
「ちょっと待ってて、毛布を持ってくるから。」
彼が持って来た毛布は大きかった。二人で包まり、屋上に寝っ転がった。
「これでいつ流れ星が流れても見逃さないね。」
私は流れ星がいつ流れても大丈夫なように、ひたすら願を唱えていた。
彼の名前が知りたい。
彼の名前が知りたい。
彼の名前が知りたい。
そして思いがけずその時はやって来た。
「あっ!」「あっ!」
彼のすぐ後に、私も声をあげた。
数え切れないほどの星が空一面に一斉に流れていく。今まで見たこともない景色に二人で息を飲む。
しばらくして我にかえった私は何回もお願いをした。3回でも足りない気がした。この光景に合わせて私は唱え続けた。
ついに流星は流れ終わった。思いがけない形で願いを叶えながら。
「ナオヤー!」
山の下の方から、突然声がした。はっと、心が現実に戻される。
「ナオヤー!いるなら返事をしろー!」
複数の声は徐々に近づいてくる。私は彼の方を振り向く。
「ごめん、もう行かないといけないみたいだ。」
彼が申し訳なさそうに言った。
「また来年かな。」
来年までは待てない。と言うより、私にはもう時間がない。
「ナオヤ。」
ようやく彼の名前を言えた。でも同時に、体が浮かび上がる感覚があった。…ああ、私はもう消えてしまうのだ。
「まだ名前も言ってなかったんだね。」
彼が恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。
私は、消えかかっている手足を見えないように毛布で隠した。今まで未練がましく、喋れなくなっても、諦め切れずにこの世界にしがみついていたけど、その未練の半分はすでになくなった。そしてもう一つの未練もなくなろうとしている。
「君の名前はなんて言うの?」
「ナオ!」
「ナオ、また来年な。」
私は返事をしなかった。そして彼は山の下へと消えて行った。
…
そうして、今年もまた同じように山が鮮やかな色に染まる季節がやって来た。
「やっほー!」
今年も彼がやって来た。
たとえ姿が見えなくても、どんなに声や姿が変わっても、すぐにわかる。
私も、力一杯声を張り上げて返事をする。
「やっほー!!」
誰かお題をくれたら、また違った神話でお話書ける気がします!