カリプソ
女神の力を持つ人の物語です、
僕は地図にも載ってないような南の小さな島で生まれた。母親は僕を産むと、すぐさまこの世を後にしたと聞いている。だから僕は何一つ母の事を覚えてはいない。
僕を男手一つで育て上げた父親はいわゆる漁師だった。もちろん漁師という言葉は僕たちの小さな島にはない。島民の誰もが海に出ることは当たり前なのだから。僕たちの他にもいくつかの世帯が暮らす島だが、どの家庭も海に出ることがすなわち生きるという事だった。朝早くに船を出し、夕方には魚を看板に乗せて帰ってくる。一人用の小さな船で漕ぎだすこともあれば、協力の下大きな船で遠い沖まで出かけることもあった。残された女や子供はわずかな土地に植えた穀物や食物を集め主人の帰りを待った。
漁から帰ってくると父は決まって僕を連れて高台にあがった。そして日の落ちかかった空を見ながら次の日の天気を考えた。父は空を読む達人で、たびたび島の人が彼のもとに天候の予想を聞きに来た。僕はそれがとても誇らしかった。いつか父のように立派に空を読み取れるようになろうと、父が教えてくれることを何一つ取りこぼさないように必死だった。
「沈みゆく太陽を雲が覆い、七色に光っているだろう。あれは海の果てで新たな海の女神が生まれたのを空が祝福しているんだ。これからはしばらく幼子のようなコロコロと変わりやすい天気が続くぞ。」
父は決まって左手につけている指輪を右手でなぞりながら、時折こんな神話めいた話も交えながら教えてくれた。僕は言われた通りに雲の形や色、太陽の強さ、風向きなどを覚えていった。でも僕は最後まで教えを受けることはできなかった。
数人で沖に出かけていた父は嵐に会い、船と共に沈んだ。一緒に乗っていた人の家族は嵐を見過ごした父親を責めた。その憎しみはいつしか僕に向いていた。僕はいつしか逃げるように一人で生きていくようになった。一人で空を読み、船を出した。子供一人分の食べ物なら小さい僕一人でもなんとかなった。時折家に来ないかと親切に声をかけてくれる人もいたけど、断るうちにそういう人も次第にいなくなった。先を見据えて生きる必要がなかった。その日生きられればそれでよいと思った。そんな日がずっと続いた。
最近では父に負けないくらい空が読めるようになってきた気がしていた。たまに島の人に天気を聞かれることもあった。でも僕はどんなに確信があっても決まって同じ答えを返した。「空は気分屋だ。はっきりとしたことは分からん。」
そうやって答えているのに、ちゃんと天気のいい日に沖に出ていく僕を誰もが後ろ指をさした。分かっているくせに他の人には教えたがらないケチな奴だと。僕はそれでかまわなかった。二度も父の教えを踏みにじられたくはなかった。父の知識は僕がしっかりと受け継げていればそれでよかった。
ある朝天気が崩れそうもなかったため、僕は久しぶりに遠洋に出ていこうと考えた。
行きは極めて順調だった。予想通り風は適度に吹きながらも波は穏やかだった。魚がいそうな場所を点々としながら漁をしていった。収穫に満足し、帰路についた途中の夜、真っ暗な海にぷかぷかと浮かびながら船に横たわって星を眺めた。空をみるとどうしても父を思い出した。父を思いだすといつも涙がこぼれた。でも父を思い出せなくなる方が何倍も怖かった。だから僕はいつも思い切り泣いた。泣き疲れるとどっと疲れが出てきた。こんな空なら対して流されることもないだろうと思って僕は船に身を任せた。
でもその夜、嵐はやってきた。波風一つなかった海はいつしかまともに立っていられないほど荒れ狂った。一人用の小さな船ではなす術もなかった。誰一人見ていない暗闇の中で僕は船ごと波に飲まれた。
太陽の光がまぶしくて目が覚めた。どうやらどこかに流れ着いて助かったらしい。体を起こすと吸い込んだ海水にしばらくせき込んだ。
見知らぬ砂浜だった。島を海岸に沿って辺りを見渡すのだが、不思議とこれほど晴れ渡っているのになぜか遠くまで見渡せない。ぼんやりと水平線がみえるのだが、それもすこし霞がかっているようですぐに見えなくなった。かろうじて太陽の位置から方位だけは分かるが、お手上げだった。だがこういう時にあせってもろくなことがない事は身に染みていた。しっかりと今いる場所を確認しなければ脱出しても漂流して命を失うだけだ。それに船もない状態では今の所は抜け出す手立てはどうせない。
でももしここで生きていけるのなら僕はそれはそれでかまわなかった。父も母もいないあの島はもう僕の居場所ではなかった。悲しむ人だってきっといない。
とりあえずこの島で生きることが可能なのかを調べようと思った。共に流れ着いた服や道具などを拾い集めたあと、僕は寝床を探した。
島の中央部に大きな岩にいくつかの洞穴が開いていた。ある程度の奥行があり、僕一人が雨よけの住処にするには十分すぎる広さだった。長く伸びた草を抱え込むくらいたくさんちぎって柔らかい寝床を作った。
しばらくそこで寝そべっていた。すると外でガサガサと音がした。僕は警戒しながら外をのぞき見た。するとそこには一人の子供が立っていた。薄汚いぼろきれを纏った短髪の子供だった。相手もこちらに気付いたらしくお互い無言でしばらく見つめ合った。この子もどこからか流されてきたのだろうか。ひょっとしたら彼の寝床を奪ってしまったのかもしれない。僕はとりあえず話そうとその子に向かって一歩近づいた。その子はそれを見るや一目散に逃げ出した。しばらくぽかんと彼がいなくなった場所を見つめていたが、気になってしょうがなかった僕は彼を探しに出かけた。
それからは長い鬼ごっこのようだった。追いかけては逃げられ、でも追いかけるのをやめると、まるでかまってほしいかのように彼はまたひょっこり顔をだした。僕はしばらく無心で追いかけっこをした。でも紙一重で毎回彼は捕まらなかった。
日が傾いた頃、僕は寝たふりをして彼をおびき寄せた。
寝ているかを確認するために彼は恐る恐る寄ってきた。彼はきっと近づいてくると踏んでいた。そして十分手が届く範囲まで来たことを確認するとバッと起きて彼の手を掴んだ。慌てて逃げようとしても力はこちらの方が上だった。両手を捕まえると観念したのか、スッとおとなしくなった。
そこで僕は見下ろす形になったわけだが、思わずギョッとした。短い髪に日焼けした顔は一見男の子にしか見えなかったが、こうして近くで見ると華奢な腕やしなやかな体の線からはっきりと女の子だと分かった。両手を押さえていた僕は反射的に手を離した。その隙に彼女は勢いよく飛び上がり、少し離れたところから私に向かってべーっと舌を突き出すとまたどこかへ消えた。
外に出ることもできない島に一緒に取り残されているんだ。今日はもう彼女を追う必要もない。くたくたになっていた僕は、いずれまた会うだろうし、その時またたどり着いた経緯なんかを聞けばいいと思った。
案の上、数日後彼女はまた自分からやっていた。僕は夕飯のために釣った魚を焚火で焼いていた。焼いた魚の匂いにつられたのだろうか、少し離れたところからこっちを見ていた。
「捕まえたりしないからこっちにおいで。」
言葉が通じているかはよくわからなかった。でも焼いた魚を持ち上げ彼女のほうに向けるしぐさをすると警戒しながらも近づいてきた。そしてぼくの手から焼き魚をひったくるといきおいよく食べ始めた。
「おいおい魚はいくらでもあるから座って落ち着いて食べな。」
警戒心はだいぶ薄れ、彼女はしばらく焚火の傍に座って数匹の魚を食べた。食べ終わると彼女は焚火に関心が移ったようだった。ちらちらと揺れる炎に目をくぎ付けにしまじまじと見つめた。その様子はとてもかわいらしかった。まるで生まれて初めて火を見ているかのような仕草だった。
彼女はときおり前髪が燃えてしまいそうなくらい、顔を火に近づけた。触りたくてしょうがないといった感じだったが、さすがに指を突っ込むのをためらったのか、代わりに息を炎に吹きかけた。するとボンっと燃え上がり大きく火柱が上がった。とっさのことに僕も彼女も驚いて後ずさりながら尻もちをついた。そして二人で大きく見開いた目を合わせ、腹を抱えて笑った。
それから彼女は毎晩僕の焚火に当たりながら一緒にご飯を食べるようになった。僕に会いにきているのか、ここに来れば暖かいご飯が食べられると分かったからなのか。いずれにせよ、彼女のおかげで寂しい思いをせずに済んだ。
時折彼女はふらっと行方をくらまし、島のどこを探しても見当たらない時もあった。最初はとても心配もした。でも数日後にはいつもけろっと戻ってきたし、特にそれ以上考えることはしなかった。
この島では時折息苦しくなるほどの勢いで雨が降ることがあった。この雨が土に染み込み湧き上がっていなければとうの昔に干からびていたかもしれない。それが最後に降ったのは、確か彼女と林の中で鳥の卵を得るために巣のある所を探していた時だったか。他に大きな天敵がいないこの島ではわりと低い木や、時には地面に産卵している種も見受けられた。そのうちのいくつかを見つけ数個の卵を二人で大切に洞に持ち帰っていた。
彼女はうれしそうに卵を持ち、うきうきと弾んでいたが、生い茂った草に隠れた大きな枝にうっかり足を取られてしまった。懸命に卵を守ろうと両手を前に突き出したまま倒れこんだ彼女は顔から倒れこんだ。さぞかし痛かったであろう彼女の顔や胸には土がこびりつき、しかもその手には割れた卵の殻の破片と黄身がむなしくも握られていた。
彼女は大きな声をあげて泣いた。島中に彼女の声は響いた。そしてそれに呼応するかのように、ぽつぽつと空から雨粒が落ち始めた。泣きじゃくる彼女をおぶり、土砂降りの中急いで寝床に戻ったのをよく覚えている。
晴れた日ももちろんあった。そんな日は彼女と浜に魚を捕まえに行ったりした。最初は竿なんかを作ってみたりしたが、結局最後は二人で手作りの杜で海に飛び込んだ。海は暖かく僕たちを受け入れてくれたし、彼女も楽しそうに魚を捕まえていた。
そうして七年もの月日が流れた。僕は不思議とあまり体が大きくなっていなかった。島にいればとうに成人の儀をあげているはずなのに、むしろ体は細くなっているようにさえ思えた。ただそれは今までの食生活に比べれば質素なものになっていたからだと自分の中では納得していた。
一方彼女はこの月日の間に大きく変わった。それはもう誰も少年と見間違いようのない一人の女の子となっていた。少年のようだった彼女の髪の毛こそ相変わらず、すぐ切ってくれと頼まれるもんだから短いままだったが、華奢だった体は丸みを帯び、時折無防備に着替える彼女から思わず目を背けた。
さらに彼女はいつのまにか僕が話している言葉を覚えて話せるようになっていた。最初は単語の羅列ばかりだったけど、今ではもう何も違和感がないくらい普通に彼女は喋った。
「おーい!魚取ってきたよ!」
両手いっぱいに魚を抱えて彼女が浜辺から戻ってきた。僕は寝床の草を入れ替えるために刈り取った草を日に当たるように干しているところだった。最近すこし体の調子が悪くすぐに咳込んでしまうから、彼女が代わりに食糧を調達してくれているのだった。たぶん風邪でも引いてしまったのだろう。流れ着いた時から何度か体調を崩すことがあったが、今回はいつもに比べるとずいぶん長引かせてしまっていた。
「じゃあ昼飯にしようか。」
二人で魚を食べながらたわいもない話をした。これがすでに僕の日常であり、僕の暮らしだった。これがずっと続けばそれで幸せだった。
「ねえ、すこしだけ大事な話をしていい?」
昼飯を食べ終わり、片づけが大体終わったころに彼女は言った。いつもふざけてばかりいる彼女の神妙な顔つきに僕は少しどきっとした。
「どうした、突然そんなに改まって。またなんか悪戯でも仕掛けたのか?」
「そうじゃないの。でも話しておかないといけない重要な話。」
僕は情況がよくつかめないまま、彼女の真剣な眼差しに押し切られてうなずいた。
「じゃあ、浜辺で待ってて。すぐ私も行くから。」
そういうと彼女はどこかへ走っていった。彼女が息を切らしながら姿を現したのは半時ほどたってからだった。どういうわけか体中びしょ濡れで、足はそのまま砂浜を走ってきたせいか砂まみれになってた。そして彼女は両手を僕に突き出した。
彼女の手の中にあったのは指輪のように見えた。なんとなく僕の口元が緩んだ。指輪が関わる二人の関係なんて頭の中には一つしか浮かばなかった。
差し出されるままに受け取ると、一転して僕の背筋は凍った。この指輪は…。いやそんなはずが…と心の中でつぶやきながら、指輪の内側の彫りをおそるおそる覗く。
そこには確かに母の名があった。間違えようがなかった。これは母の形見として父親が常に身に付けていたあの指輪。あの日にも身に付け、そのまま帰ってくることはなかった父の物だ。混乱しながらも、次第に疑問は彼女のほうに向いた。
「どうしてお前がこれを持っている?」
彼女は気まずい顔をした。
「まずこれだけは言っておいていい?今から話すことは別に今までずっと隠していたわけじゃないの。あなたから考えることを教えてもらい、言葉を得て、最近ようやく私の中で形になったことなの。」
なにかをためらうようにそう前置きした後、彼女はしばらくうつむいてた。そして長い沈黙の後に、ようやく顔を上げると彼女は話を始めた。
「あなたは七年前この島に流れ着いた。そしてそれは天気のくずれようのない様な空の下突然嵐に襲われた。あなたはそう言っていわよね。」
僕は黙ったままうなずいた。確かにあの日は自分の中でもこれ以上良い天気になることはないくらいだろうと思っていたし、だからこそ目の前の嵐がにわかには信じがたかった。
「あなたの予想は決して間違っていなかった。だってあの日は本当は晴れるはずだったのを私が嵐に変えたのだから。」
彼女が晴天を嵐に変えた?突然何を言っているんだ。そんな訳があるはずが...でも彼女がふざけてこんなことを言うわけがなかった。
「私は普通じゃないの。私は海の女神としての宿命を背負って生まれた子。だから天気も海も操れる。そしてあなたを嵐に会わせて、ここへ漂着させた。」
少しずつ空の雲が厚くなり、僕と彼女に暗い影を落とした。
「あの頃は本当にただ寂しかったの。誰かにかまって欲しかった。誰かと力いっぱい駆け回りたかった。だからちらっと同じくらいのあなたを見た時、魔が差してしまったの。そうしてあなたをこの島に呼び込んでしまった。でもその後少しずつ私の中で変わっていくものがあったの。あなたと共に暮らしていくうちに私はいろいろ学んだわ。神の力を持つだけの私の勝手な気まぐれで一人の少年の人生を変えてしまった事。それは決して許されることではない事。それにここは人間が住むには決して適しているとはいえない島。次第に私はあなたをちゃんと元いた場所に送り返さないといけないと思い始めた。」
「この島から出る方法があるのか?」
何度海沿いに遠くを見渡してもこの島からは何も見えることがなかった。近くを船が通ることもなかった。この島はもはや人の生活する場所からあまりにも遠く離れた場所だと勝手に思い込んでいた。彼女はうなずくと両手を真上に上げ、そのまま左右に振り下した。すると島を覆っていた霞が晴れた。
「この島に誰も訪れないのは私がこうして見られないように隠しているからなの。もっと早くに晴らしていればあなたも船を作って出ていこうと思ったかもしれない。でもできなかった。私は女神である以上責務から逃れ、この島を出ていくことは許されない。だから自分に対して言い訳をしたわ。彼もここに居る方が幸せなんだって。あなたにも家族がいないことはまとう空気を見ればわかった。この人となら孤独を分かち合いながら一緒になれるかもしれないって思った。そんな風にごまかしながら私はあなたと暮らした。そうして長い長い月日が過ぎてしまったの。」
それについて彼女は間違ってはいない。僕は確かに思いがけずここに漂着したが、ここに居ることが人生で一番幸せだった。そして連れて来られた自体は決して恨んではいない。
「でもそれだけならまだ打ち明ければ許してもらえたかもしれなかった。でも私はもう一つの過ちを見つけてしまった。」
彼女はもう一度僕の目をしっかり見つめなおした。
「そう、私はようやく気づいたの。あなたの父親を殺したのが私だという事。あなたから最後の家族を奪ったのが私だという事に。」
その事実は指輪を見せられた時からうすうすと感じていたのかもしれない。でもはっきりといざ彼女の口から直接言われるとぐにゃりと視界が歪んだ。
「あなたを呼び寄せた時よりずっと昔の本当に生まれたばかりの頃、感情を制御できなかった幼子の私は思うがままに海を荒らしていた。良いとか悪いとかなんかなかった。気分が良ければ真っ青に晴れるし、悲しいときは雨が降った。私が泣き叫べばそのまま嵐にもなった。そんな私にとって海に浮かんだ船はお風呂のおもちゃのようなものだった。天気を操りながら浮かべては沈め、水に叩き込んでは壊し、遊べなくなったらまた次の船を探した。遊びながら気に入った物をある場所に集めた。それがこの島なの。あなたの父親が乗っていた船もその一つだった。そして流れ着いた瓦礫の中にその指輪はあった。」
彼女の言葉一つ一つが僕をえぐっていった。そんな話にはもう耳をふさぎたかった。でもそうしようと手を上げる事さえ今の僕にはままならなかった。
「あなたに許してほしいなんて言えない。だから七年も経ってしまったけど、あなたに指輪を返し、打ち明けようと思った。そして船も準備した。この島には隠れた洞窟がいくつかあるの。私はかつて集めた瓦礫から十分にあなたをこの島から出せる船を隠れて作った。それは今向こうの浜辺においてある。それに乗ればあなたはこの島から出られるわ。もうこれ以上あなたがこの島にいても弱ってしまうだけ。だから今までごめん。そして、さようなら。」
空から雨が降り始めた。今までで一番冷たい雨だった。体調の悪い僕の体にはとても堪えた。でも体とは反対にその雨は僕の頭を落ち着かせた。少しずつ僕の中のもやもやが晴れていった。あちこちに絡まっていた気持ちが解けてようやくはっきりと分かった。
「僕はもう君なしでは生きられないよ。」
後ろ向きに立ち去ろうとしていた彼女の背中につぶやいた。
「たしかに君は僕を無理やりここにつれてきたのかもしれない。僕の父親を死なせたのかもしれない。どれだけ悔やんだって、どれだけ後悔したってけっして過去は変わらない。でも君と二人で過ごしたこの時間は、過去の事実を変えなくても、僕を変えた。君が今どういう思いで僕に別れを告げているのかも正直わからない。でも僕は僕の気持ちを君に伝えたい。」
彼女ならきっと聞いてくれると信じていた。
「この島を二人で出て一緒に暮らそう。君がこの島にいなければならないなんて誰が決めたんだ。いや誰かが決めていたとしても、無理やりにでも連れ出すよ。それで世界が大雨に沈んだっていい。二人で幸せにならなければもう意味がないんだ。」
彼女は相変わらずうつむいたままだった。
「君が幸せになれないのにどうして君がその責を負わないといけない。世界のための尊い犠牲なんか後付けの理屈だ。何が正しいかなんて他の人に決められることなんかじゃない!」
熱を帯びた勢いのまま、思いをぶちまけた。もはやこの思いは自分では止められなかった。なにか得体のしれない力に全力で逆らいたかった。そんな無謀な戦いに挑みたかった。
「ありがとう。」
しばらくした後、そうぽつんと彼女は言った。僕はそれを一緒に行ってくれる承諾だと受け取った。そうして二人で静かに洞穴に戻って一夜を明かした。
次の日、二人で船に荷を積んだ。必要なこと以外はほとんど口をきかなかった。分かり合えない絡み合った思いだけが荷物を受け渡す互いの手から伝わってきた。でも結局彼女が本当にあの時何を思いながら手伝ってくれていたかを直接聞くことは一生なかった。
昼頃には荷作りは佳境を迎えていたが、突然今までにないような雨が島に降り注いだ。それも途切れる気配もなく降り続いた。島の周りの波が高くなっていた。大量の雨が島から海へと流れだしていた。雨に打たれて僕は寒気で次第に歯がカタカタと音を立て始めた。焦りもあった僕は一刻も早く島を出る決意をした。準備は完全とはいえないが、しばらくはやりくりできるくらいは積んでいる。あとは彼女を乗せて出発するだけだった。僕は彼女に乗り込むように声をかけた。
どんどん風が強くなっていく。声を届けようにも島側から吹く風が耳を鳴らし、まるで何も聞こえなかった。風に負けず声を届けようともう一度大きく声を張り上げようとした。
「さようなら。」
風の向こう側からかすかにそう聞こえた気がした。聞きなおそうともう一度耳を澄ませ時、船はすでに風に押し出され始めていた。乗っている船は勢いよく荒波の中に投げ出されていく。勝手に動き出した船にまだ彼女は乗れていない。飛び込んで船を止めればまだ間に合う。慌てて飛び降りようと船の欄干に手をかけた。でも僕の視線が離れゆく海岸にいる彼女の顔を捉えた時、ようやく全てを悟った。
彼女は最初から一緒に乗って出ていく気などなかったのだ。彼女が起こす風と波に力強く運ばれながら僕は思った。あれは決して承諾なんかではなかった。じゃあなぜ期待なんかさせた。あの時はっきりと行かないと断ってくれていれば!でもそんなのは分かりきっている。あの時彼女が行かないと言えば僕は決して島を出なかった。彼女は僕を島から出すためにああするしかなかったのだ。小さくなっていく海岸線を眺めながら、やり場のない気持ちを体のどこかに押し込めたかった。とめどない涙が代わりにあふれた。そしてついに海岸線は霞に覆われ見えなくなった。
島を出てから一日ほどで知っている海域にでた。空はすっかり明るくなり、雲間から薄く光が差し込んでいた。体調は不思議と治っていたし、あとは風を読みながら島伝いに元来た道を戻ればいいだけだった。そうして僕はとても長くなった航海を終えた。
それから10か月ほどたった頃、僕はいつも通り高台に一人で上がった。島に戻ってからも漂流する以前と大きく変わったことはなかった。当たらないこともあると分かっていても、毎日夕方の空を観察することは欠かさなかった。まるっきり無意味なわけではなかったし、遠くを眺めると不思議と気持ちが落ち着いた。
その日高台に望む広い空に浮かんでいたのは、父に教わり脳裏に焼き付いたあの空模様だった。それは沈みゆく太陽を覆いながら、自らは虹色に輝く彩雲。どこかで新たに生まれた海の女神を祝福しながら、ここからは見えもしない遠い島に思いを寄せた。
「これからはしばらく海も慌ただしくなるな。」
そう言いながら少しだけ口元が緩んだ。そしてそれを島の人々に伝えに行くため、僕はすっかり暗くなった高台を降り、集落のほうへ向かった。
おわり
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