セイレーン
神話シリーズ第2話です。
小さな水辺のほとりに一人の少女が立っていた。辺りは霧で深く覆われ、山の木々も暗い影をおとしていた。昼なのか夜さえもはっきりしなかった。
その少女は歌っていた。いや歌っているように見えただけなのかもしれない。だってここまでは声が不思議と届いてこなかった。あたりの霧に彼女の歌声が吸い込まれていくかのように、まるで音がしなかった。
彼女の周りにはたくさんの鳥が集まっていた。木の枝や葉に列を作って彼女を見ていた。彼女のいる空間だけがこの世界から切り離されているかのようだった。その様子は彼女が他の大きな動物から彼らを守ってあげているような気さえした。
僕はすこし彼女に近づいた。彼女の声を聞きたかったから。あの子がどんな歌声をしているのか僕には胸をかきむしりたくなるくらい気になった。だから少し気が焦ったのかもしれない。足は無造作に地面を蹴り、ザッザッと音を立ててしまった。それにつられて彼女の周りの鳥が一斉に飛び立った。
彼女は僕に気づくと、歌うのをやめた。僕は彼女からあわてて目をそらした。話しかけようかと心を決めかねていた。でもやっぱり声をかけるために顔を上げた。でも彼女は悲しそうな顔をしていた。そして口をかすかに開いた。
「忘れて…私の事も…この場所も…」
脳に直接届くかすかな抑揚のついたこの声に逆らうことなどできなかった。
気が付くと家の布団に寝ていた。朝が来ていた。いつの間に帰ってきたのか覚えていなかった。親に聞いてもいつも通り戻ってきてごはん食べたでしょうと言われた。何をしていたか記憶はないけどたぶんそうだったのだろうと思うことにした。何か引っかかっていたけどかたくなに何かが邪魔をして思い出せる気はしなかった。
年度が新しくなり、クラスも新しくなった。知り合いの多くない僕は案の定一人も話し相手がいなかった。一人でいると他にも一人の人がいないかを探す。そしてそこにもう一人、誰とも関わっていない女の子がいた。彼女はいつでも一人だった。友達と話していることも見たことがないどころか、授業中当てられても一言も声を発することはなかった。彼女を見ると何かがチクッとした。僕は服かどこかにとげでも引っかかっているのかと思って一回服を裏返した。でもどこにもなにもなかった。
授業中何度も窓際に座る彼女の方を見た。肩まで伸びた長い髪は時折風になびいた。それを見ているとなぜだかぼんやりと水辺の匂いがした。ここらにそんな水がある所なんて一つしかない。僕はなぜだかそれを知っていた。そして学校が終わると無意識に足は動いていた。
そこにやはり彼女はいた。彼女を見るとはっきりと記憶が戻ってきた。彼女は前回よりずっと困惑した顔をしていた。そして僕に再び近づいてきた。僕は慌てて耳をふさいだ。でも彼女が口を開く素振りはなかった。というよりペンとノートをどこからか取り出して何かを書き始めていた。そして書き終えるとぱっと僕の方に向けた。
「この場所をだれにも言わないで。そして帰って。」
膝の上にノートを置きながら書いたにしては上手な字だと思った。
「前みたいにまた暗示をかけて追い払わないの?」
僕はなんとなく前回脳に響いてきたフレーズを思い出していた。
「あれは一回しか同じ人には効果がない。」
「そっか。君は歌えるのに話すことはできないの?」
彼女は答えを迷うような顔をした。歌えるのだから発声に問題があるわけではないと思うけど。すぐに返ってきそうにはない答えを僕はしばらく黙って待っていた。そしてようやく彼女はまたペンを走らせた。
「私の歌は人を狂わせる魔性の歌。だから話さない。どんな言葉も時には歌になりうるから。」
突拍子もないことを言いだしたと思った。でもなぜだか同時にすんなりと受け入れることもできた。彼女が歌っていた様子を思い出すだけで胸がざわついた。歌いながらかすかに震える口元はひどく魅力的だった。
「私は二度と人と話すことはない。」
彼女の言葉には重みがあった。今までにしてきた後悔が言葉からにじみだしていた。どれほどの経験をすればこれほどまでになるのか僕には想像すらできなかった。
「でも動物たちは大丈夫なんでしょ?」
彼女はこくりとうなずいた。その後しばらく彼女と筆談が続いた。
彼女の歌が狂わすのは人間の情緒。動物はいつだって本能に従っているだけ。彼女の歌に守られるために寄っては来ても彼女自体に虜になったりはしない。だって生きていくためには必要のないことだから。むしろ何か一つの存在に執着してしまうことは生物的に危険なことですらある。
でも人は違う。人は感情に溺れる。コントロールできなくなっていることにすら気づかず愛情を追い求める。だから彼女の歌を聞いた人は彼女を求めて狂うのだ。でも彼女は歌うしかない。それが彼女の定めであり、生きるという事なのだから。
「だからそうなる前に早くここを出て行って。」
僕は立ち去る気はなかった。彼女を一人にする気はなかった。
「僕はなんと言われようとここにいるよ。本当に歌を聞くとまずいなら、ずっと耳栓をしている。どんな形だって僕は絶対ここにいる。」
僕のあまりの頑固さにしばらく食い下がっていた彼女もいつしかあきらめた。そして僕たちはこの水辺で毎日をすごした。
この場所に近づくなり僕はいつもしっかりと耳栓をつけた。そして彼女は毎回それを確認した上で、さらになるべく僕から離れて歌った。彼女が歌うのをたまにちらっと眺めた。本当は見るなと言われているけれど、どうしても見たくなってしまうときもある。彼女は歌っているとき本当に幸せそうだった。歌うことが彼女を生かしていた。とても狂気という言葉とは結び付かなかった。
ただじっと見ていると惹き込まれてしまいそうになることもあった。慌てて目をつぶって草原に寝転ぶ。何も聞こえなくても幸せだった。特になにか一緒にするわけでもしゃべるわけでもなかった。でも一人じゃない。そう感じられるだけで僕の心は満たされた。
でも本当にこれでいいのかと次第に思い始めた。彼女は歌のせいで誰とも話すことができない。この先の一生を誰とも口をきくことなく終えることはどれほどに孤独で辛い事なのだろう。
もう一つ考えていることがあった。実は彼女は言葉を恐れているだけなのではないのか。歌でさえなければ本当は大丈夫なんじゃないか。他の人ならだめでも僕なら耐えられるんじゃないか。いつしか僕は彼女にどうやって声を出させるかを考えるようになった。
最初は後ろから驚かしたり、虫を手に彼女を追いかけたりしていた。十分怒らせることはできたけど彼女は決して声を出さなかった。だから次第に僕はもっと大きな事を探しはじめた。いつしか何をするかを探すこと自体が楽しくなっていた。
ある日、目に入ってきたのは水辺を覆うように枝葉を伸ばす一本の木だった。木に登って、彼女に上から呼びかければなにか反応してくれるかもしれない。思いついた僕はすぐに登り始めた。幹は太かったけど早い段階から多数に枝別れしていて登っていくのはそれほど難しくはなかった。一段と登って行くたびに達成感が心を満たした。
少しずつ見晴らしも良くなって、見下ろせる位置まで十分来ていた。水辺の中心付近まで伸びた一本の枝の上をそろりそろりと進んでいった。下の方に反対側で歌っている彼女が見えた。興奮を抑え込みながら、おーいと大きな声で呼びかけた。
でも忘れていたんだ。彼女の歌声を聞きにたくさんの鳥たちが聞きに来ていることを。僕の突然の声に反応した鳥が一斉に飛び立った。向かい側の木からも、こちら側の木からも大きい鳥から小さい鳥までばさばさと羽を広げた。枝が大きく揺れ、驚きのなか体勢を立て直せなかった僕はそのまま真下に落ちた。
調子に乗りすぎた、と思った頃には冷たい水を体で受け止めて目の前は暗闇に沈んだ。
…!…!
どこからか僕を呼ぶ声が聞こえた。それが耳から聞こえてくるのか、頭に響いてるかすらよくわからなかった。
「起きて!ねえお願いだから起きて!!」
少しづつ視界を取り戻してきた僕の目に入ってきたのは、いまにも泣き出しそうな彼女の顔だった。ビショビショに濡れた彼女の髪が僕の顔や首元を濡らした。大丈夫だよと早く安心させてあげたかったけれど、口や体は思うようには動かなかった。僕は吸い込んだ水でむせてせき込んだ。でもそれを見て彼女はようやく自分を取り戻したようだった。
「良かった…ほんとに心配したんだから…」
滴る水滴を彼女はぬぐった。大丈夫だとわかると急に語気を強めた。
「あんな事したら危ないに決まってるでしょ!ほんとバカなんだから。」
「でもほら、やっと君の声を聞けた。」
彼女ははっと口を両手で抑えた。
「私…なんてことを…」
言葉を発してしまっていること、そして僕がその言葉を聞いてしまったことに今更ながら怯える彼女の頬に手を伸ばした。
「大丈夫。僕は狂ってない。狂ってないけど…」
一呼吸おいて僕は続けた。
「君のことが好きだよ。」
彼女は涙を流した。言い訳できないくらい目を真っ赤にはらして彼女は泣いた。
「でもわからないじゃない!!今の言葉で魅了してしまったのかもしれない!そうじゃなくても、知らないうちに私の歌を聞いてしまっていたのかもしれない!私が歌うのを見ているだけで魅了してしまったのかもしれない!どうしたらその気持ちが私の力のせいじゃないって言えるの?どうしたら本当に私の事を好きになってくれたってわかるの!?」
彼女から堰がきれたように言葉があふれだした。
「今まで私の歌を聞いてしまった人はたくさんいるわ。自分では口ずさんでいる程度でも聞いていた人は狂った。最初はしつこく追いまわしてくるだけでも、次第に食べることも、眠ることもできなくなって、何もかもをなげうってひたすら私の下へ愛を求めて来るのよ。最後は意識すらあやふやになって、動けないように病院のベッドに括り付けても、それでもなお私の名前を叫び続けるの!!」
その声を思い出すかのように彼女は両耳をふさいだ。
「呪いなんだって。私は声を出してはいけないんだって。だれも幸せにすることなんかできないんだって。人に知られないようにこうやって歌って生きていくしかないんだって。そう決めたのに!あなたがそうやって私の下にやってきて!私の心を揺さぶるから、私もなんとなく楽しくて、ずっとあなたといたくて。でもやっぱり怖かった。いつかきっと狂わしてしまう。そしたらあなたの人生を終わらせてしまうんじゃないかって。本当にうれしかったのに。あなたがいてくれてこんなに幸せだったのに、それを壊したくなかった!」
次々とこぼれ出る言葉を一つ一つ僕は受け止めた。どれひとつとっても彼女を大いに苦しめてきたものだった。どうしたら彼女を助けられるのか。でもどんな言葉を繕っても彼女には届かない気がした。だから彼女の苦悩を遮るように僕は歌った。
それは歌とすら言えないものだったかもしれない。体もろくに動かない中、目を閉じて必死に口元に意識を集中させた。たどたどしく僕の口から思いが出ていく。かすかな抑揚にのって泡のように飛び出してはわずかな余韻だけを残して消えていく。届くかどうかも分からないけどこれしか思いつかなかった。彼女の心に直接響かせないと意味がなかった。
僕は狂ってなんかいない。呪いにもかかってなんかいない。僕はただ歌っている君も含めて好きで、本当に好きで。ただそれだけなんだ。
耳を抑えてうずくまっていた彼女もいつの間にか泣き止んでいた。そして聞いてくれていた。顔を見ればわかった。彼女にちゃんと僕の歌は届いている。
それから僕らは二人で口ずさんだ。彼女の歌は僕の歌を通して世界に響いた。
僕らは互いの思いを歌に乗せた。今まで重ねてきた二人の思いを。
そしてここから始まる僕らのこれからを。
おわり
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