アトラス
神話シリーズ第一話になります。
星が綺麗な夜だった。かつてこんな夜に一人の少年が丘に立っていたのを覚えている。それは懐かしさだけでは語れないような、遠い昔の思い出だった。
私は夜が嫌いだった。寒さや暗さはいつも私の心を不安にさせた。一人で入る寝床はいつも怖かった。目を瞑っていても寝られないときもあった。でも目を開けたらそこは影の潜む暗い世界。どんなに怖くて眠れなくても、決して目を開けまいとまぶたに力を込めて朝が来るのをひたすら待った。
ある日寝ていると、ふと外から光が差し込んできた。いつものまぶたにちらつく月の光とは違うように思えた。私はつい気になって目を開けた。窓から顔を出すと、夜空から光が一本の筋のように外れの丘に降りていた。不思議に思いながらぼんやりと眺めていたけれど、次第に光は薄れ、眠たい目をこすっている間にすっかりと消えてしまっていた。私は目も覚めぬままこっそりと家を抜け出した。そしてそのまま郊外の丘へ向かった。
近づくとその丘には私と同じくらいの少年が立っていた。夏とはいえ標高の高いこの町は太陽が沈めばそれなりに気温は下がる。それなのに彼は布切れのような薄汚い服一枚しか着ていなかった。ただ寒そうなそぶりを少しも感じさせはしなかった。
「やあ。」
彼は私が丘を上がってくるのを見るなり手をあげて挨拶をした。素朴な笑顔は私の警戒心をほどいた。私はそのまま彼と一夜を明かした。
それから彼に会うためにたびたび丘に出かけるようになった。
「こんばんは。また来たね。」
彼のいるところまで歩いていくといつも改めて挨拶をされた。私は小さく挨拶を返した。
「今日も星がきれいだよ。」
それはある意味当たり前だった。星が綺麗に見える日にしか彼は現れない。だから私がこの丘を訪れるのもそういう晴れた日の夜だけだった。
二人でいつも草原に寝転がって空を見上げた。冷たく澄んだ空に輝く星を眺めた。寝転がった地面は氷のように背中を冷やした。私は少し厚めの服とそれから薄めの毛布を持っていくようになった。二人でくるまる毛布はいつもより暖かく感じた。私の寒さや不安もこうして星を見ていると和らいだ。
空を眺めながら彼はよくお話をしてくれた。
「星空の向こう側には別の世界があるんだよ。」
彼はいつもこの話をした。私もこの話を聞くのが好きだった。
「あっちの世界とこっちの世界では昼と夜が逆なんだ。だからこっちの夜にはあっちでは昼。逆にこちらが昼の時はあちらが夜なんだ。」
私はへぇと小さくあいづちをしながら聞いていた。私は聞いているよと伝えるだけで、大体いつも彼が話すのを聞く側だった。彼は語るのが楽しそうだったし、私は聞いては気になったことを質問をするのが好き。二人にとってはこれが一番心地良かった。
「それでね、向こうでは星空を人が支えてるんだ。そう、たった一人の人が両手をかざして。だってそうしないと星ごと空がおっこちてきちゃうんだもの。誰かが支えてあげなくちゃ。」
私が怪訝そうな顔をしているのを見てとったのだろう。彼はゆっくりと紐ほどいていくように説明をしてくれた。
「確かにね、星空が落ちてくるのを君たちは想像できないかもしれない。こちらの世界では一度も落ちてきた事がないんだって?でもそれは本当に珍しく幸せなことだよ。」
私はまだよく分からなかった。
「星空は見上げている人達によって支えられるんだ。君達の世界では今の僕たちのように実際に空を見上げ、思いを馳せている人がたくさんいるだろ?流れ星なんかはその一番良い例さ。人は心から叶って欲しい願いを消えゆく流れ星に託す。流れ星とまではいかなくても、星空を見上げれば誰もが強い気持ちを思い起こして、明日がまた無事に来ることを日の沈んだ空に願う。その一人一人の思いの強さだけでこの世界の星は落ちて来ずに済むのさ。」
「では向こうの世界ではだれも星を見ないのかしら。」
私は首をかしげる。
「向こうの世界ではね、星は死んだ人を映しだしているとされているんだ。見守ってもらうものではあっても見るものではないんだよ。星が気になる人は死が近い人、死期を悟っている人。だからみんな元気なうちは夜に見向きなんかしない。寝どころにくるまって夜を忘れるんだ。」
私たちはみんなで支えているのに、向こうはたった一人で夜の空を支えている。
「寂しくないのかな…」
「そりゃあ寂しいさ。たった一人で一晩中支えなくてはならないんだ。しかもなるべく空に近いところにいないといけないから山の頂上でだ。だから気温も低いし風も強い。おまけに空がとっても重たいときた。普通の人なら一日も持たないよ。」
「じゃあどうしてその人はやめないの?」
彼は少し困った顔をした。
「それがその人の罰だからさ。罪を償うために背負わされてるんだ。」
「そんなに悪いことをしたの?」
「時には家族を守ることさえ罪になることもある。その人もきっと同じ。時代が変われば価値観も人の見方も変わる。その流れの中で彼は責められて罪人になったという訳さ。」
「でも償いが終わったら幸せになれるの?家族の下に戻れるんでしょ?」
彼は私から目を離し、再び遠くを見つめた。
「そうだね…きっとそうだといいね…」
彼の悲しそうな横顔を初めて見た気がした。私にはこれ以上その人について聞くことはできなかった。
違う日になればほかの話はいつものようにしてくれた。
地下の宮殿の下に広がる巨大な迷宮とそれにまつわる呪いのお話。こちらの世界とはくらべものにならない広大な沙漠や密林を渡り歩いた人の冒険談。おいしい食べ物から変わった食べ物のお話。どれも日替わりに一つずつ楽しそうに語ってくれた。
楽しい話をしていてればずっとこの時間が続くと思っていた。彼の深いところに触れなければ私たちの関係はずっと続くと信じていた。でもそれは終わりが来るのが怖かっただけ。いつかその日が必ず来ると心のどこかで分かっていながら、私が見て見ぬふりをしていたいだけだった。でも時間はどうあがこうと止まってはくれない。そして彼が向こうの世界の生き物について語ってくれた日の事だった。
「向こうの世界には小さい妖精もいれば大きな怪物だっているんだ。この世界では物語でしかでてこないような生き物がそれはもう当たり前にいる。もちろん人間もいるよ。いろんな種族が助け合ったり、時には争ったり。互いに干渉しあいながら生きているんだ。」
私の頭の中では今まで読んだお話の世界が広がっていた。小さいころお話で出てきた小人さんを探して家じゅうのを走り回ったことがあったのを思い出した。
「君は生まれ変わるならどんな生き物がいい?」
私はすこし考えさせてくれといってしばらく時間をもらった。生まれ変わるもの。自分は一体どういう存在として生まれ変わるのだろう。羽が生えて空を飛べたらいいかも。でも、もっとすごい力はないかしら。いろいろありすぎて決める事ができなかった。だから膨らみすぎた考えをまとめるように私は言った。
「私はね、嫌いな動物ならすぐに分かるの。嫌いなのはハゲタカ。余り物を漁り、さまよいながら死肉をついばむだけじゃない?他人から疎まれ一人でいるしかなくて、自分が生きるためだけにひっそりと影でこそこそしながら食いつないでいかないといけないなんて絶対嫌よ。」
でもそう言った事を、彼の顔を見てすぐに私は後悔した。
「でもね、ハゲタカだって生きていかなきゃいけない。それが彼らの生き方であり他の選択肢なんてありはしないんだ。」
諭すように彼が言った。
「ハゲタカだって、白鳥みたいに美しい真っ白な姿で生まれて可愛がられたかったさ。それかワシになって堂々と昼の空の支配者にもなりたかったかもしれない。でも白鳥やワシしかいない世界はうまく回っていかないんだ。日向に住むものもいれば日陰者も当然存在する。そしてそれは決して日陰者のせいではないんだ。」
そういう彼はとても悲しそうだった。私は思わず謝った。
「ごめんなさい…」
いつになく口調が強くなった彼が少し怖かった。この間から彼の様子は少しずつ変わってしまっていた。彼から何かの焦りを感じた。いつものように温かく二人を包むような笑顔の面影はもうそこにはなかった。
「僕こそ、ごめん。怒るつもりでいったんじゃないんだ。」
慌てて彼も頭を下げる。でもすぐに彼は私の目を見つめなおした。
「言わなければならないことがあるんだ。」
なにも分かっていなかった私はただその後に続く彼の言葉を待った。
「僕はもうこの丘には戻ってこない。」
どうして…私が怒らせてしまったから?言葉にならない思いが一気に胸を締め付ける。
「誰のせいでもないよ。いつかこうなる事は分かっていた事だから。だから君のせいなんてことは絶対ない。むしろ君がいたからこちらに長くいることができたくらいだ。」
彼はそう言いながら足の裾をたくりあげた。それを見るなり私ははっと息をのんだ。
「両足とももう固まって石になりかかってる。これは星空を背負う罪人がたどる運命なんだ。今までは向こうの太陽が昇っている間にこちらの世界に立ち寄ることもできたけど、もうこの体は思ったようにはもう動かない。空の重さに耐え切れず、いずれ僕の全身が石化する。そうなる前に僕は自分の世界に帰らないといけない。そして星空を支え続けるんだ。」
「そんな…石になってまであなたが一人でやらないといけないことなの?」
私は涙が止まらなかった。なにかできることはないの…
「誰か他に…」
「それ以上は言ってはいけないよ。」彼は語気を強めた。
「この重荷は他の人に背負わせてはいけない僕の罪なんだ。苦しむ人をこれ以上増やしたくはないよ。僕が石になっていつまでも支え続ければ人は空が落ちる心配から解放される。この世界のように人々が空を見上げ思いを寄せられる世界になるんだ。」
彼は微笑んだ。
「だから温かく見送っておくれ。」
私にはどうする事もできないことは分かっていた。彼がこの世界では生きていけないことも、戻ると固く心に決めているということも。でも分かってはいても抑えきれるものではなかった。
「私が一人になるの!あなたがいないとまた暗く寒い夜がやってくるの…!」
「僕がいなくてもきっと君なら大丈夫。」
わたしを落ちつけようと彼はゆっくりと言葉を続けた。
「それに向こうの世界に戻ったら一つやろうと思ってることがある。聞いて驚くなよ?すこし星の位置を変えようと思うんだ!僕が手で支えてるんだから、ちょっとくらい星の位置をかえることなんて簡単な事さ。それでいつでも君を見守れるように、そしていつでも君がこっちをのぞけるようにしておこうと思って。僕がいなくなったら夜空に両手をかざしてごらん。そしたらその手を通してきっと僕らはいつでも会える。僕の世界と君の世界はいつでもこの空を通じてつながっているんだから。」
泣きじゃくる私の頭を軽くなでて一言、「じゃあね」と告げると彼は星空に消えていった。
それから星が見える夜は毎日あの丘に通った。彼が来ないと分かっていても、それは私がやらなければならない事だった。そしてそのたびに両手を夜空にかざした。指の間から覗き込むとそこには三つの星が大きな三角形を作り上げていた。
これは彼が私のために作ってくれた窓。彼はきっとあの空の向こうで今でも生きている。だから私もこの窓を通して彼の見上げる空を支える。いつまでもこの同じ空の下で、少しでも彼の支えになるように。
おわり
読んでくださりありがとうございます。
神話をベースにしたお話が好きです。