*柊と杏路
ようやく体調の戻った柊が、明日行われる入学式に備えて安静にしておく為に部屋で読書をしていると、机の上のスマホが鳴った。柊が家族の誰かだと思って画面をよく確認せずに電話に出たら、予想に反して電話の向こうから聞こえて来たのは杏路の声だった。
「体調は如何ですか?」
「もう大丈夫」
「そうですか、それは良かったです。……今、お忙しいですか?」
「本読んでただけだから、問題ないよ」
「そうですか、もしお時間があるようでしたら、私と少しお出掛けしませんか?」
「ん」
電話を切った柊はクローゼットからお気に入りの黒いコートを取り出して羽織り、首にしっかりと赤いチェックのマフラーを巻いて部屋を出る。
柊が階段を下りて玄関で靴を履いていると、リビングから才が顔を出した。
「あれ?ひーちゃん、どこか出掛けるの?」
「杏路と一緒に」
「そう、気を付けて行って来てね」
才は柊と一緒に玄関の外まで見送りに出ると、門の向こうでゆっくり頭を下げた杏路に手を振ってから柊の頭をポンポンと叩いて優しく笑いかけた。
「行ってらっしゃい」
「ん、行ってきます」
柊は小さく手を振って、才に見送られながら杏路に手伝ってもらいながら車に乗り込む。
杏路は柊にシートベルトがしっかり掛かったのを確認してから運転席へ回り込んだ。
「病み上がりなのに、連れ出したりしてすみません」
「ううん、大丈夫だよ」
「具合が悪くなったりした場合は、すぐに教えて下さいね」
「わかった」
空調を調節して、杏路は静かに車を発進させた。
暇つぶしになるようなものを何も持ってこなかったので、柊は車窓を流れる景色をぼーっと眺める。初めて信号で止まった所で、杏路は後ろの席から小さなバスケットとふわふわの膝掛けを取り、膝掛けを掛けてからバスケットを柊に渡す。
「中に温かいココアとクッキーが入っているので、良ろしければおやつの代わりに召し上がって下さい」
「……ありがと」
柊が開けたバスケットの中には、ココアの入った薄紫色のマグと、一枚ずつ丁寧に包装された五百円玉より少し大きいくらいのクッキー沢山詰まった袋が入っていた。
柊は温かいココアでほっと一息吐いてから星の形のクッキーを口に入れる。
杏路も少しずつ摘んで柊と一緒に食べながら、1時間程走った所で車が目的地に着いた。
「ここから少し歩くので、抱き上げても構いませんか?」
「ん、良いよ」
車から先に降りた杏路は柊のシートベルトを外すと、席からそのまま優しく抱き上げた。
車の鍵が閉まっているのを確認してから、ゆっくりと山道を登って行く。
そうして柊が連れて来られたのは、才の誕生日プレゼントを作った時に余った時間で作った自分用のグラスに描いた前世のアニメの風景を現実にしたかのような景色だった。
杏路に地面に下ろしてもらった柊は、柵の上から眼下に広がる幻想的な湖を覗き込む。
「貴方が命様に渡したグラスを見て、本当はずっと気になっていたんです。昨日、貴方の話を色々と聞いて、何故だかこの景色を見せて差し上げたくなりました」
そう言って杏路は、スーツが汚れるのも構わずに柊の方を向いて膝を突いた。
そっと、手袋を外した手が柊の頬を包み込む。
透き通るようなエメラルドグリーンの瞳が、柊の瞳を柔らかく覗き込むように見詰める。
「本当は、既にある程度自分の意志で能力を使う事が出来るのに、周りの感情を確認する為にあえて遮断せずにいますね?」
杏路の確信を含んだ声に、柊は驚いて自分の息の詰まる音が聞こえた気がした。
「大丈夫、私は貴方を責めている訳ではないですよ。これは単なる事実の確認ですので」
そう言って杏路は柊に優しく微笑みかける。
「本当なら咎めるべきなのでしょうが……。今はその方が好都合なので、良いです」
困惑したように揺れる瞳で見詰める柊を宥めるように、杏路は声に優しさを滲ませる。
「今から私が言う事が、嘘ではないと信じられるでしょう?なのでそのまま、聞いて下さい」
エメラルドグリーンの真剣な瞳に射抜かれて、柊はゆっくりと頷いた。
「貴方が何に悩み苦しんでいるのか、私には想像する事しか出来ませんし、それが正しいと言う保証もありません。だからこれは、私の勝手な憶測から出た言葉です」
そう言って杏路は、柊の頬に添えた手を優しく引き、そっと額と額を合わせる。
「"貴方"が柊でも、そうじゃない別の誰かだったとしても、私には関係ないんです」
「私が心から仕えたいと願うのは、私の全身全霊を傾けてでも守りたいと、守らなければいけないと感じているのは、他の誰でもなく今ここにいる貴方です」
「守役が主を守りたいと思うのも、私が"貴方"を守りたいと思うのも、もうほとんど本能みたいなものなんです。きっと生まれた時から、魂にでも刻まれているんですよ」
「ですから私は、私の本能と魂に従って"貴方"の力になりたいと願っているんです。その事を、どうか"貴方"には知っていて欲しいと思ったんです」
「そんなに、疑わなくても良いんですよ。怖がらなくても良いんですよ。脅えたりしなくて良いんですよ。私は護衛です。"貴方"の為だけの護衛です。ありとあらゆる危険を排除し、あなたの全てを守る為だけにここにいます」
「そしてそれは、決して"貴方"の心ですら、例外ではないのですよ」
そっと触れ合っていた額を離し、杏路は柊の瞳を溶けるような目で見詰める。
「だからどうか、私に"貴方"を、守らせては下さいませんか?」
頬に添えられた杏路の掌から流れ込んでくる温かな感情が、注がれた言葉が、優しい眼差しが……柊にこの現実が、決して偽りではないと教えてくれる。
「私の思いは、"貴方"にきちんと届きましたか?」
「私の想いは、"貴方"を少しでも安心させて差し上げる事が出来たのでしょうか?」
込み上げた感情が、柊の言葉にならない声の代わりのように、頬を流れて行く。
柊はまるでたった今生まれたばかりの子供の様に泣き出す体も、頬へ添えられた杏路の手を濡らす事も、止める事が出来なかった。
*
どれくらい、そうしていたのだろうか?
柊がようやく泣き止んだ頃には、辺りの景色はすっかりと薄暗い闇に覆われていた。
「落ち着きましたか?」
「ごめん、なさい」
「良いんですよ」
そう言って杏路は立ち上がって、汚れた服を払う。
どんな顔をすれば正解なのかが分からなくて俯いた柊の視界に、白い手が映り込んだ。
柊がそっと小さな手を重ねると、杏路の大きな掌に優しく包み込まれた。
「帰りましょうか、貴方の家に」
「ん」
柊がゆっくり歩き出すと、綺麗なエメラルドグリーンの瞳が溶けるように細まる。
暗い山道を小さな体で歩くのは想像以上に大変だった為、柊は大人しく自分を抱き上げる杏路の腕を受け入れた。柊は泣き過ぎた瞼を押し付けるように杏路の首筋へ顔を埋めた。
「予定よりも随分、遅くなってしまいましたね」
「怒られるかな?」
「その時は一緒に怒られましょうね」
「うん」
辿り着いた車に柊を乗せ、杏路は才へ電話で連絡を入れる。
柊は窓越しにそんな杏路の様子を眺めながら、じっと車の助手席で待っていた。
電話を終えた杏路は車の運転席に乗り込むとシートベルトを締め、エンジンを掛ける。
「パパ、怒ってた?」
「どうでしょうか?ただ気を付けて帰れ、としか言われませんでした」
「そうなんだ」
「えぇ……ですから、急いで安全運転で帰りましょう」
「うん」
そう言って杏路は、行きと同じように静かに車を走らせて家へと向かった。
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