第七声 「皆さん静粛に。ご・せ・い・しゅ・く・にぃ~!」
ドレスは泥にまみれて酷く汚れていた。あちこちの破れた痕にはドレスでさえ目を背ける絹の肌が露出する。スカートの破損は最も大きく、白樺の若木さながらの双曲線が踵部分を欠いた装飾靴を介して、半球状に抉られた大地を踏みしめていた。
人形じみた顔には紫水晶の瞳が左右一対埋め込まれて僅かに差す月光を反射させている。元より長い睫毛と彫像のように整った鼻筋。唇は仄かに紅く、両端は上品に持ち上げられていた。
容姿容貌は某国の姫君と相違するものはない。角が生えたわけでも、翼が生えたわけでも、尻尾が生えたわけでもない。
呆と虚空に視線を送る。視えないはずナニカが見えるように、迷わずに其れを追い、見つけて彼女は微笑んで自己紹介する。
概念体である魔王総体を認知し語りかけ、不敵な微笑みのままで魔王の継承を告げた。
すでに姫ではなくなった彼女の変化は三つ。
眼が魔力を映すようになったこと。
自身を魔王だと自覚していること。
抑制しきれぬほどの高濃度の魔力を激流の如く迸らせていることだ。
『それでは今後一切はわたくしの一存により、大陸東端と魔王領がことを決めさせて頂くこと、お認め下さること切に願いますわ魔王総体さん』
懇願でも追従でもない。
魔王となった姫の言は宣誓と脅迫だった。
程なくして希薄で粘着的な魔王総体の気配は完全に消失する。固まりかけた鉄の表情を解きほぐし、大きく深呼吸と伸びをしながら『う~ん、すっごく疲れました~』と地面にへたり込んだ。
『どなたか甘いお菓子をご用意頂けますか? できればお湯にも浸かりたいですね』
◇◆◇◆◇
『つまり魔王というのは、ある種の役職なのでしょうか?』
「そうとも言えるが、そうではない。魔王を簡潔に表すならば称号という単語に尽きるのだが、まずは前者について応えよう。大陸東端領域を治める領主として、領民たる魔物たちを使役できる権利と管理する義務が生じる。彼らは姿形こそ人間とは大きく異なるが魔王にとっては重要な民であり労働力であり軍事力なのだ。決して蔑ろにはできない。
次に後者だが、こちらの理由が本命だ。魔王は自らの存在証明を介して、総ての魔物との間に絆で繋がっている。絆の関係は親と子に等しく、遙かに厳格なものだ。魔物は魔王からの魔力供給を得ることで、自らの存在証明を保つことができている。逆に魔術や呪法は外界から取り入れる魔力で賄えるが、存在証明は親である魔王を介したものでなければならない制約がある。これは闇の属にある者の宿命で、子は親に絶対服従する。親を守ることが自分の身を守ることになるからだ。その制約が魔物を強大で強力たらしめている。刃に傷つかない躰や、魔術を多用・連続処理できる才覚、人間では到底及ばない」
青年は一言一句迷わず詰まらず台詞を読み上げるような流暢な語り口で説明しきってから深く一礼し、顔を伏せた。辺りを覆い隠すほどの蒸気に黒い髪は湿気を帯びて艶めく。じっとりと噴き出す汗が浅黒く焼けた首筋を流れ鎖骨に至る。
魔王となった姫は水精霊と火精霊の拷問的合作の成果である湯の泉に肩まで浸かりながら、蜂蜜入り果汁水でちびちび舌を湿らせていた。時折、湯に浮かぶミスリル鋼製の盆に盛られた乾燥果物と木実を食みつつ、彼女に傅く美丈夫の声音に胸を高鳴らせていた。持ち合わせている洞察力と理解力のリソースは青年の分析にのみ割り当てられているため、『つまり魔王というのは、役職ですね!』と薄い胸を突き出して中途半端に理解した情報を力一杯断言する。
この行程を四回繰り返していた。
存在証明の成せる御技なのか、一緒に入浴を強いられている夢魔はのぼせ上がっても湯から上がることをせず、副官魔女は新たな主君たる存在の無思慮な言動に呆れかえり「姫魔王さま、阿呆が過ぎます」とツッコミを入れるに至った。
『副官魔女さん、わたくしは阿呆ではなく少し理性を失っているだけなのですよ。考えてもみて下さい。某国で生誕して十と余念。煌びやかな生活はそれ以上の苦痛に溢れ、意気地の無い父王と彼の言いなりになる母上、我が身の保身だけを案ずる無能な大臣、戦略の意味すら解さない無知蒙昧な将軍、政略結婚のための王族を飼育するためだけの王室教師たち。自己是認と承認欲求にしか興味のない王侯貴族。幼女趣向でわたくしの身体を舐め回すことしか頭にない隣国の筋肉達磨王子。そんな人たちの快楽を貪る時間を刹那、延長するためだけに養殖されて出荷を待つだけの人生がわたくしの総てでした。そこに美丈夫魔王による略奪婚が舞い込んで来たのですよ。理性を失くすなという方こそが無理なのです!』
「色々としっちゃかめっちゃかになっておられるようですが、あなたが阿呆なことは確信しました」
『だーかーらー、阿呆ではないんですよ副官魔女さん~! 虐めないで下さいよ~!』
「ならばさっさと魔力を鎮めて下さい! そんな強烈な魔王の力を垂れ流される方の身にもなりなさい!」
『だからやり方がわからないんですってば!』
元魔王の青年は湯を掛け合い戯れる二人の娘の気配を背に、感覚の鈍る右腕の感覚を確かめるように掌を開閉させていた。人間の身で魔の眷属たちの長となることを許された。選ばれたのか、贄とされたのか、奇跡的に舞い込んできた厄災を受け容れたときには、もう生きたいなどとは思わなかった。
自棄故に浅はかであった過去を今更になって後悔しているわけでもない。
それなのに彼はまだ死すことを赦されず、生きることを許容された。強要された。魔の眷族は人間と違い単純明快で善い。
誰でもない。新たなる主君となった、産まれて二十年にも満たない娘子に仕えるために生きるのだ。
考えることは苦痛でしかないと、青年は魔物となったことに安堵した。
『湯浴みも済んだことですし、これからの方針を発表致します。皆さん静粛に。ご・せ・い・しゅ・く・にぃ~!』島大亀上の離宮跡の瓦礫山の比較的なだらかな岩の上に立ち、新魔王となった姫は天上を指差した。
『この大陸東端の魔王領を独立国家として世界中に認知して頂けるように努力すること。この一点に尽きます』
魔物達は動揺し互いの顔を見合わせ、新魔王の姫と元魔王の青年を顔を見比べるが喉まで上がってきた疑問を言葉にすることを躊躇い、副官魔女に視線を集めるに至った。
「本気か姫よ? わざわざ自分から人間どもの敵となる、そう宣言しているようなものだ」
『少し違いますよ、副官魔女さん。そもそも皆さんにとって人間は脅威でしょうか? 彼らは数の上では圧倒的優勢を保っていますが、もしも双方が相まみえることになれば必ずやわたしたちが勝利すること間違いありませんわ』
どよめく魔物たち。副官魔女は新魔王となった姫の薄ら姫微笑に本気加減を垣間見て、生唾を飲み込む。元魔王の青年には変化はない。新しい主君に忠誠を誓った近衛騎士のように押し黙ったままだ。
「戦を仕掛けると?」
『いいえ、違いますよ』副官魔女の悲壮な顔色に対して新魔王の姫は相変わらず向日葵が咲くように笑いながら、瓦礫の上からヒョイと飛び降りて、迎え入れるように両手を広げて、魔力を発現させた。
『戦にはなりません。わたくしがさせませんわ』
「圧倒的軍事力を背景に和平交渉を戦術として試みる」
『その通りです! 概ねその通りですわ』
補足した青年に動揺は微塵もない。新魔王となった姫の言動を当然のことと理解し覚悟して信頼する者の姿があるだけだ。魔王領は大きく変わったと、副官魔女も魔物たちもようやく思い知ったのだ。魔物たちにとっての良き王だった青年は、新たなる魔王に追従の意を示している。
ならば、魔の眷族としての道はひとつしかないのだ。
魔物たちは、慈愛と歓喜を両立させた笑顔を浮かべる娘子こそを新たな主君と認めるしかないのだ。
『この世界はわたくしたちにとって掛け替えない大地です。この大地にある者が如何な姿をしていようとも、その命の価値に差はなく平等であるとわたくしは考えます。ならば、わたくしたち闇に、魔に属する者であっても世界は種の別なく受け容れてくれるはずです。世界はわたくしたちにとっても母なる場所なのですから』
『ほんの少し前までは、わたくしもただの人間の一員でした。某国が第一王女として某国がため、国民がために、世界秩序がために、身を粉にしてきた、などとはとても言えません。周辺国の顔色を窺う外交、隣国への隷従はただの保身でした。王侯貴族の我が身かわいさで延命されるだけの国ならば、いっそ滅んでしまえば善いのです』
『為政者として斯くありたくはないと、わたくしは身を賭して証明し続けていくことを宣誓します。そして、闇と魔に属するだけで、生まれだけで皆さんが大陸東端に閉じ込められるのは間違っています。わたくしの正義に叛します』
『故にわたくしは魔王領の現統治者として、この場に集って頂いた領民の皆さまに宣言致します。この瞬間を以て大陸東端を隔てる大山脈より東側を我らが魔王国の領地とし、接岸する海洋の十二海里までを領海、領地より上空の総てを領空とし、こちらの許可無き侵犯行為を禁止致します』
『そして新生・魔王国現統治者、姫魔王の名において世界中に宣戦布告致します。可能な限り武力を用いず、恒久的平和を視野に入れた世界統一のために、わたくしは世界を征服させて頂きますので、悪しからず』
読了ありがとうございました!
今話で物語の導入からオープニング部分が終了です。
次回以降は「魔王になったお姫さまが世界を征服していくコミカルで狡猾で地域密着」的なお話しになる予定です。
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