第十九声 「新生魔王国においては、愚かは褒めの最上級なんですよ!」
「姫魔王様。お話があります」
最果ての国。王城内の貴賓室。
部屋のバルコニーから夜空と城下の街灯りを臨んでいた少女は、天上の風琴に等しい呼びかけに応じて夜景を背にした。
『聖女さま。どうされたのですか、このような夜更けに。枕談義ですか? それとも札遊戯としゃれ込みましょうか?
今宵は半月。生温い風が安眠を妨げる実に不快指数の高い夜です。いくらでもお相手になりますよ』
「お元気ですこと。どちらも違いますわ。戦いましょう。命のやり取りを致しませんか?」
『おやおや。それはそれは』
姫魔王。大きなドングリ眼をパチクリさせながら、短くなった後ろ頭の感触を確かめた。端正な顔中には浅い傷が散らばっている。
前髪で辛うじて隠された額には深々とした醜い筋が癒えることを拒んで残留していた。
目の前にいる琥珀の髪の聖女が刻んだ印だ。
小柄で幼児体型な少女とは対照的。
女は豊満な胸丘を聖なる意匠で飾る。清き衣を纏いても扇情的な肉体を隠匿することはできない。
女として完成された躯。
決して無垢ではない、経験を重ねたメスの器。
同時に、この世ならざる邪悪を滅ぼすためだけに造られた生きた神器。
理力法術の使い手。
撃滅の使徒。
聖浄協会が誇る花冠衛視十五士が第四位。
彼女こそ音に聞こえし、虐殺聖女なのだ。
『穏やかではありませんね。わたしたちはお友達になれたものと思っておりましたので』
「ええ。お茶の趣味が合う最高の友人。それは揺るぎません。でもね姫魔王様。私は聖浄協会なのですよ? 神が遣わした、教皇様に仕える駆逐者。猟犬。血に飢えた殺戮狂なんですよ」
虐殺聖女が一歩だけ歩み寄った。手には自身の身の丈ほどの刀身が握られている。
「魔にあるものを裂くことこそが意義。魔を滅すことこそが生にございます」
『そんなものはただの色分けに過ぎません。赤が好きか、黒が嫌いか。それだけではありませんか?』
「赤でも黒でも。聖でも魔でも構いませんの。私はずっとこうでした。愛でようとも壊す。壊すために愛でる。その連鎖。赤い赤い鎖の連なり。それだけが適えば十全ですわ」
すらりと細身の剣が抜き放たれた。銀色が月光を含んで鈍く艶めいた。
「だって私は病気なんですよ。殺戮の病に侵された、回帰不能の異常者ですよ!」
銀の剣は根元から刀身を失い、バルコニーに転がった。
姫魔王と聖女の間を分かつように現出したのは、浅く焼けた黒い髪の青年だった。
「戯れもそこまでにしてもらおうか虐殺聖女。ここは我らが主の御前だぞ」
「やはり手強いですね近衛騎士様。いいえ元魔王。愛らしい姫様の陰に潜んで盗み聞きなんて、些か配慮に欠けるのでは?」
「生来の不作法もの故にご容赦いただこう」
近衛騎士の青年は異形の剣を油断なく構えて、眼前で微笑む女から主への剣線を遮っていた。
幻魔黒剣。魔王専用の魔術武装。
あらゆる属性を無効化させる、魔の物たちの聖剣だ。
「面白いこと」
折れた剣の柄を捨て、聖女は胸元を飾る十字架を引き千切る。
「十字聖剣」
十字架の四つの先端が黄金に燃える焔を放ち、得物と化した。
聖浄教会においても最高の秘術。魔に対する最高位のメタ効果。
「不思議ですわね。矛盾ですわ。あらゆる属性無効を孕んだ魔物の刃。そして、魔の牙を折ることだけを目的に生み出された神の御業。
見えたとしたら果たしてどちらが残るものか」
「刃を合わせれば答えは出る」
「ならば、そう致しましょうか。私の体が火照って火照って耐えきれませんわ!」
底上げされた聖女の鉄靴がカンとバルコニーを蹴った。
体勢を低く保ちながら、近衛騎士へ跳ぶ。
小細工などは考えなくとも、虐殺聖女の剣技は演武。
まさに剣劇の舞台女優。
金木犀の演者。
薙ぎの一太刀が、無限軌道で積算される。
聖女の細い目が大きく見開かれる。
十字聖剣併用、百撃必殺。
―――金木犀散華―――。
光焔の切っ先が描く無限軌道。
相対する近衛騎士は避けない。
「お覚悟を」
「迷いが過ぎるな、虐殺聖女」
近衛騎士が残像を残して背後を取った。背には輝ける両翼。
魔術武装、輝双翼。
「まあ。翼が生えましたのね」
「翼形状から用途は航空戦力増強と誤認されるが、真価は多岐にわたる」
十字聖剣が追い縋る。
翼が巻き起こす風圧に飛ばされる羽のように、軽やかにして鋭い。
切り裂いて、切り刻む。
一度始まれば、抵抗が消えるまで終わることのない。
総てを散華させるまで止まる道理がない。
しかし、聖剣が翼を狩る度に聖女の得物は削がれいく。
背後に四つの残像を生んで、近衛騎士は前方から聖女の両手首を捻り上げて、腹部に膝蹴りを狙う。
「―――っは!」
『そこまでにして下さい!』
近衛の青年が幻魔黒剣を突き入れる刹那。
統治者にして支配者が制止の厳命を科した。青年は総ての魔術を解いて、少女に対して臣下の礼にて応える。
『聖女様。ベッドで横になって下さい。少しは……』
「なぜ止めたのですか? もう少しで私は。もう少しで」
『死に急ぐことが聖浄教会の教えではないはずですよ。わたしをひとつの命だとお認めになった貴女が、このような最期を選ぶなんて以ての外です。わたしは許しませんよ』
「私にはもう生きる目的など何もない。その方との一戦で納得できました。私はもう戦いにも加虐にも愉悦を得ることができない。
痛みを受けようと、苦痛を与えようと何も感じなくなってしまいました。姫魔王様。あなたの所為ですわ」
バルコニーのフェンスにもたれかかりながら立ち上がる。
戦う意思の有無は判断できなかった。
いつもの悠然とした表情でなく、憂いを帯びたそれでもない。
苦虫を噛み潰したような、苦渋。
大切ななにかを失ったような、悲哀。
握りしめた十字架を足元に叩きつけてから、聖女は苛立ちを隠さない形相を姫魔王に曝け出した。
「こんなにも苦しい。楽しくもない!」
『聖女さま』
「考えなくとも済んでいたのに。あなたに札遊戯で初めて負けたあの夜から、私の悪夢が還ってきてしまったの!
殺して嬲って滅ぼすだけでいいのに。負けた者など殺してしまえばいいのに。暴力と殺意が総て。考えなくても刃を通すだけで全部終わるはずだったのに!」
発狂か、類する嘆き。
慟哭。
身にまとった聖衣を力任せに引き裂くと、露呈する女の裸身。
中心に刻まれた十字の古傷。左の乳房を割って骨盤や膝にまで伸びる縦の傷。横はちょうど臍の上を、開腹でもするような痕だ。
黒い。黒い十字架だ。
「見なさい魔の物たち。あなたたちから幼いころに賜った印を。醜くて汚らしいでしょう? 十三歳くらいだったかしら? 散々嬲られて犯されて、お腹を切られていたの。たくさん」
聖女は自身が見舞われた災厄を語る。いつの間にか表情は笑んだままで凍結し、声は空々しい。
「不運にも蹂躙される最中に、私は理力は目覚めてしまった。喉を食い破られる直前に光が全ての魔を焼き滅ぼしたのです。聖浄協会に拾われて、また地獄が始まりました。
でも耐えることはできました。身をこのようにした魔物を駆逐する。生きる目的がありましたから。いつの間にか虐殺聖女などと謳われ、畏れられ罵られて、私は私がわからなくなりました。
密命のままに殺していければ、楽でしたから」
考えることを止めて、意思を放棄した。
殺戮を重ねる度に、彼女の理性は死んでいく。
魔物を殺す度に、彼女の感情が死んでいく
ナニカを感じる機能が失せると、代わりに訪れたのは愉悦。
加虐と嗜虐の狂気と狂喜。
なのに―――!
「あなたが私の前に現れて、私をまた壊してしまった! 何故あなたは武器を取らず、殺意を否定しながら、争いを是として、自分を投げ出すのですか!!
私には理解できません。世界を手中に収めるには、殺すしか他にないでしょう!? 戦うのが怖い? 手を血に染めるのが嫌?
そんなわけがないでしょう!? あなたは私の同類です! 破滅をもたらす凶兆ですよ!」
『……そうなのでしょうね』
「聖なる勇者の力を宿した。ただのチカラではありませんか? 正しくもなければ悪でもない。絶対的な暴力に名前を付けて梱包しただけの死。私には判りますもの。実際に幾度も行使してきたのですからね!!」
『苦しんでいたのですね。たった御一人で』
「姫魔王様。いますぐ持ちうる力のすべてを用いて世界を掌握して御覧なさい。さもなければ、今ここで私と一緒に死になさい。あなたは存在していいものではない。
あなたが在ることがこの世界最大の汚点です! あなたがもしも公約通りに世界を征服したときには、この世界は地獄に変わるのです!」
冷酷な女は取り乱して、喉が切れるほどの凶声を上げる。
バルコニーの硬い床石を殴り続けた。
拳は赤く、肉は裂けて、骨に罅が入るのも厭わない。
「だって。なんで今更。そんな理想が実現するのですか? 私のことは誰も救ってくれなかったのに! 私を虐げてきた者たちが救われるなんて……っ!」
端正な顔立ちが憎しみと悔しさで歪んだ。
戦意と殺意がなくとも、修羅の眼は些かの曇りもない。
「力を持つ者の責務はただ一つ。絶対支配を成し遂げ続けることだけよ!」
『それは違います。だって……』
姫魔王は変わらない笑顔のままで、恐ろしい形相の虐殺聖女の前に膝をついて、頬に手を添えた。
野生の狂犬と変わらぬ、女の顔を薄い胸に押し抱いて、髪に指を通す。
『力で支配しても、聖女様の心は救えないでしょう?』
「なにを」
『美味しいお茶を飲んで、甘いお菓子を食べて、楽しい遊戯に興じて、心行くまで談議を交わす。温かいお風呂に浸かって、天井があるお部屋で眠って、パンを焼く香りで目を覚まして、また新しい朝を迎える。そんな風にできたら素敵でしょう?』
「どこまでも酷いことを言うのですね。叶うはずないじゃないですか!? どの面下げて、私に安寧を求めろというのです!?」
『普通に笑っていて下さい。薄笑いでも恐笑いでも冷笑でもなく。子供みたいに笑って待っていて下さい。すぐにとは参りませんが、わたしが造ります。聖女様が前を向いて、歩き出せる世界を。必ずです!』
「荒唐無稽。実にくだらない理想論。あなたの妄想を信じろと、この私に!?」
『はい。だってその方が楽しいじゃないですか!』
「あなたには、それしかないのですか」
『はい! 高い鼻筋も、大きな胸、腰のくびれも、目元の泣き黒子もありません。わたしにはコレだけです!』
「愚か―――過ぎる」
『ご存じないのですか? 新生魔王国においては、愚かは褒めの最上級なんですよ! 知恵や思慮が足りないから、もっともっと高みまで昇って行けるんです!』
「愚者と煙は、、、ということです、か」
聖女から力が抜け落ちて、小柄な少女姫魔王が抱き留める。
意識の喪失にしては穏やかな表情で眠る年上の女に、羽織っていたガウンを掛ける。
『近衛騎士様』
恭しく首を垂れる青年は目を伏せたままで主君に応じる。
『裸。見てはいけませんよ?』
「御意」
『どうしてもというのなら、いつでもわたしがご披露します』
「滅相もございません」
『む。滅相くらいあります! 全く失礼な近衛様ですね!』
とてとて。
聖女をお姫様抱っこでふらつきつつ、姫魔王が寝所につま先を向ける。
主君の小さな背中を見送った青年は、影に消えた。
後に残ったものは折れた銀の剣と、打ち捨てられた十字架だけだった。