第十七声 「人間共は皆殺しだ!」
「ここに何の変哲もない水を瓶いっぱいに用意いたしました」
虐殺聖女は衆目の中でも悠然と振る舞い。柄杓で水を掬い喉の奥に流し込んだ。口の端から水滴がしたたり、艶美な首筋を伝って聖なる装束を湿らせた。
失礼を。
そして柄杓に残った水を床の赤い絨毯に、せせらぎのように零して見せた。少量なれど絨毯のややくたびれた赤は湿気を含んだために濃く映る。
「勿論、人間にとってはですが。ただし魔にある物がこの聖水に触れることがあれば、それはそれは大変な事ですよ」
聖女は瓶から水をすくい上げる。
呼応するように姫魔王は膝をついた。
「皆さま、どうぞご照覧下さいませ。これが聖水の力であり、これが魔の眷族というものですわ」
柄杓を手に姫魔王の左の肩口にゆっくりと聖水を垂らしていく。
焼けた鉄の板に冷水を浴びせたかの如く。華奢な体躯の肩口からもうもうと湯気が立ち上った。
あたかも強烈な酸が金属を溶かすように、聖水は魔にある君主を焼き尽くさんと襲いかかる。
聖女は躊躇いなく、二度目、三度目の聖水を浴びせかけた。右肩に、背中に。
息苦しいような臭気が立ち込めて、呻きを漏らした。
「あらあら、まあまあ。痛そうですね、苦しそうですね。止めて差し上げましょうか?」
『心にも、ないことを仰いませんように。まったく、楽しそうなのが、釈然と、、、しませんね』
「役得でしょうね。さあ、皆さまも宜しければもっと近くでご覧頂いても構いませんよ。催しはまだ始まったばかりですので」
誰も彼もが固唾を呑んで見守っていた。
なにが行われいるのかに理解が追いついていないのだ。
ことの全貌を知るのは姫魔王と虐殺聖女の二人だけ。近衛騎士や副官魔女も聞かされていない。『体を張った軽い催し物をする予定』と姫微笑を浮かべていただけだ。
突拍子のない事以外をしない姫魔王は、ただ最果ての国の王や重鎮らの前で虐げられている。
その意図に気付く者は誰一人としていなかった。
混乱。混迷。混沌。それらの混然一体。
「これはどういった趣向にしろ悪趣味であるな。聖浄協会の虐殺聖女殿は魔の主と通じているのやとも思うたが」
表情ひとつ変えない鷹王の呟きに、聖女も眉ひとつも動かなかった。
「通じているとは心外ですわ。個人的にこちらの姫魔王さまと少々縁がありまして。でも、それはそれ。私は聖浄協会の虐殺聖女です。邪悪なる魔の眷族は塵ひとつ残さず滅しさせて頂きます」
柄杓が更なる聖水を含んで、吐き出した。
「っ!?」
膝だけでは既に身を支えきれなかった。小さなモミジがふたつ赤い絨毯を掴んでいる。
そして音もなく、悲鳴すら上げずに倒れ伏した。
「姫魔王さまっ!」堪えきれずに駆け寄ろうとした副官魔女を近衛騎士が制した。
「動くな。二人のやりたい事は理解した。だが虐殺聖女は自主改訂でお前を討つことを厭わない。姫を信じて耐えろ」
「しかし……っ!」
虐殺聖女。呼び名が顕すように残虐な魔物の殺戮者。
冷たく凍りついた瞳は、在るだけで凶器だ。
これが聖なる存在に仕える人間なのか。
副官魔女は後悔に苛まれる。
主の厳命で、虐殺聖女に巣喰った制約強化を解呪し、ズタズタになった存在証明を修復した。
あの時の行為が、最悪の形で実を結んでいる。
このままでは、確実に姫魔王は滅びてしまう。
虐殺聖女は加減しているつもりでも、浴びせかけられた聖水の量は上位の魔物でも死に至る。純度が違う。魔の眷族にとっての猛毒の原液。
カランカラン。空になった瓶に柄杓が落ちた。
虐殺聖女が麗しく佇み、姫魔王が足下で這いつくばる。上質なドレスはただ水気を吸っただけに留まるが、首筋から鎖骨の露出した箇所は無事ではない。聖水の作用による大火傷が細やかに整った姫魔王の肌を赤茶に爛れさせる。
「ご気分は、、、会話もまま成りませんか? では次に参りましょうね」
オリハルコンの短剣をクルクルと手の中で弄んで逆手に構えて、聖女は腕を掲げる。
勢いよく振り下ろす。
手加減など微塵も成されずに、刃は地に伏した娘の爛れた傷を深々と貫いていた。
「ご立派なこと。悲鳴をあげない、それとも上げられないのですか?」
残念。
短剣の柄は握り込まれたまま。引き抜かれて、寸分違わずに同じ箇所を抉った。交差するように。紅いモノが尽きることはない。
聖女は穏やかな笑みのまま、血の十字架を踏みつける。強く踵を食い込ませて、ねじり込ませて、蹴る。
白を基調とした聖衣は赤く染まるのも顧みない。
容赦はなかった。
蹴り飛ばされて転がろうとも、赤い絨毯の痕跡が目立つことはない。
聖女の過激な凶行を止められる者はいない。
魔物。魔の眷族。姫魔王。
ボロ雑巾のようにうち捨てられて、拾われ、再度の加虐を強いられる。
肉体的な暴力では傷すら付かない魔王の躰もオリハルコンの傷口を攻めるなら問題にもならない。
鷹王も国の重鎮たちも静観に入った。
姫魔王の味方である近衛騎士も冷静に二人の闘いを見守り続ける。
視線に曇も澱みもない。
「………お許しをっ!」
剣状呪網と雷撃縛鎖の同時に発動される。
虐殺聖女の豊満な女の躰に刃の綱が纏わりつくが、彼女の挙動は止まらない。
「やはりこう成りますわね。無意味ですけど」
刃が聖衣を裂き肉に食い込もうとも、雷撃が身を焼こうとも意に介さない。
既に発動している緊縛を強いる魔眼ですら効力を発していない。
ならば、虐殺聖女を止めるには、もう命を絶つしか道はない!
術式を構築しながら構える。
一撃で欠片すら残さず霧散する高度爆裂の魔術。
それでどれだけの被害が出るとか、姫魔王の思惑が外れようが関係ない。
主上亡くして得られるものなどに価値など無いのだから。
―――いつからだ? いつからあの奇怪な小娘をわたしは主だと認めていたのか?―――
存在証明の供給に縛られつつも、姫魔王は手の掛かる妹のような位置にあって、世話を焼かされてきたはずだったのに。
いつからあのお方を必要としている? 彼女を頼もしいと感じて、主だと認めていたのか?
組み上げた術式を放つ。ひとたび放たれれば回避も防御もできない。
これで姫魔王を救える。
救い出せる。
本当に?
この状況を望んでいた姫魔王を?
否だ。
断じて違うはずだ!
―――わたしが認めた姫魔王が、こんな陳腐な筋書きで満足するはずがないのだから!―――
高度爆裂を寸前でキャンセルして、副官魔女は走った。
虐殺聖女が楽しげにオリハルコンを薙いで、背中が切り裂かれるのも気にせずに。
倒れ伏したままの主君に覆い被さって、抱きしめた。
自らを盾とし鎧とした。
「絶対に死なせない! 二度と奪わせない、この存在の総てを賭してでも!」
怨嗟呪法。
死後に発動して、対象を苦しめ続ける死の呪い。この禁術で死した者の軀は癒えぬ呪いに苛まれながら、同じ呪いを振りまきながら、種そのものを根絶する。
「これ以上、指一本でも我らが主を害するのならば、人間共は皆殺しだ!」
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