第十三声 「きっと仲良くはなれませんね」
「まだ巫山戯る元気がおありとは驚きですが、いささか戯れが過ぎますわ。ここは私の示す導きに倣い札を返すだけで良いのですよ。下手な即興演技を披露するのは、この期に及んでは冒涜であり侮辱です。聖なる存在はきっとお怒りになるでしょうね」
十字架の三つの短い端から迸る聖なる波動力場が眼前数ミリで静止しても、姫魔王は視線を聖女に向ける。十字聖剣が白銀の前髪を焦がす。聖女が蟲でも払いのけるように手首を捻るだけで、切り揃えられた姫魔王の前髪は斜めに落とされた。
額には焼け爛れた斜めの筋が残されても、姫魔王は微動だにせず揺るがぬ意思を瞳に宿す。
「戯れでもお巫山戯でもありません。わたくしの言が偽りと思うなら、自身で確かめられるといい」
魔物堕ちした小娘がと呟き、三回手首を左右にしならせる。
蒼白い光線が闇に残留し、白銀の生糸が舞った。
人形めいた姫魔王の髪がざんばらに斬り裂かれて、肩甲骨くらいまでの艶やかな毛髪は聖なる敷布を飾る意匠の一部と成り果てる。
頬にも鼻頭にも頚にも、額同様の焼けた筋が描かれた。
笑うと森の小動物を想起させる愛らしい顔には聖なる光になぞられた火傷然の傷跡を深く刻まれる。
「聖水には水質浄化の術技に劣らぬ効用があります。貴女の虚言もすぐに晴らされるでしょう」
ティーセット端に添えた小瓶の中身を血塗れの札に数滴垂らす。なるほど、聖女が言うとおりに浄い水は、魔の側に在る姫魔王の血溜まりに接するなり、赤い噴煙を上げた。熱した鉄板に水滴を落とす如く、じゅじゅと音を立てる。黒蜜花茶に混ざって姫魔王の口腔や喉を傷つけた聖なる水は、水質浄化どころか劇薬だ。
ぽたぽた、じゅじゅ。
遂に聖水の入った小瓶は空っぽになった。
姫魔王の血が纏わり付いた札も元のように綺麗な石の色彩を取り戻した。
血溜まりと同じく、赤光石の赤色。
聖女の眼球に走る血の筋と同じ赤色だ。
「こんな、こんなことがあるものですかっ!」
声を荒げて十字聖剣を薙ぐ。刀身を形作る聖なる波動は二倍以上に膨らみ斬馬刀をも上回る。雑多に生育した茂みは細長い木々の幹ごと、寸分の狂いなく真横に斬り落とされた。
聖女は呼吸を荒げて肩を上下させる。十字聖剣を放り投げて、胸を押さえて、頭を押さえて、自身の躰を抱くように手を交差させ上腕に爪の痕を刻む。膝を落として蹲りながら、地面に何度も頭を打ちつけて鈍い悲鳴を上げた。
慈愛と静謐と憂いが合わさって表現される彼女特異の美しさは乱れて、狂気と混乱と屈辱に視線を濁らせた女が憎々しげに見上げた。
傷だらけの顔で、髪をざんばらに切られ、質素な血塗れの衣服に身を包んだ童女の笑みを浮かべる魔の眷族を統べる者。姫魔王は一貫して姫微笑を浮かべたままだった。先に見せた冷笑はなく、土筆のようなツノもない。ただボロボロになった少女がちょこんと座して、劇薬と判っている高級茶のカップに口を付けているだけだ。
「初手はわたくしの勝ちですね。これで一点先取です。聖女さま、続きを致しましょうか? 確か次は白をお出しになるのでしたよね? ならばわたくしは黒を出します。それで終わりですね」
姫魔王は手の中の札束を扇のように広げて、自信たっぷりにほくそ笑んだ。
聖女は全身を襲い冒す苦痛に苛まれながら、自身の敗北を悟ってしまった。
◇◆◇◆◇
「さてと。これでようや、く?」
立ち上がろうとして転んだのは、正座で脚がしびれていたからだと姫魔王は勝手に断定していたが、違っていた。
「わたくし、どうなって……?」
件の場所には姫魔王と聖女しかいない。姫魔王も聖女に尋ねたつもりもなかった。寝ぼけながら虚空に話してしまう癖がこの場で出てしまっただけのこと。
姫魔王は強烈な眠気と寒気に襲われていた。視界はすでにぼやけている。脚は消えてしまったように言うことを聞いてくれない。四つんばいでもぞもぞと這いずり、転ぶ。
苦しみ、のたうち、仰向けで喉を押さえる聖女に上に倒れ込んで「しちゅれいを、いたしま」言葉にならず、聖衣を血で汚した。
魔力欠乏。聖女にはすぐに判る。
敷布と札束はそれぞれ聖女の理力に反応するように設定された魔力廃出術技なのだ。彼女の理力のバイオリズムが直接的に濃度・威力を左右する。ほんの数十分とはいえど、理力は常に高水準で発現していた。十字聖剣の使用時には最高の効用をもたらす。現状の姫魔王では、自爆同然に仕掛けられた対抗属性の魔力廃出には為す術はなかった。
滅ぼすには絶好の機会であった。
清らかな聖衣の下、淫靡な雌躰の至る所には魔を断つ為の武器・法具が備わっている。個人的な事情で全身を苦悶と激痛と恐気に、汗と涙と涎を垂らすも眼は未だに死んではいない。
理力は扱えずとも、死に体の小娘魔王を殺すくらいの力は充分に残っていた。
昏倒こそしていないが、小娘魔王は聖女の豊満な双丘に蒼白い顔を埋めていた。身を起こそうと地面についた手で支えようとも、生まれたての仔鹿ほどの力も残っていないようだ。
けほけほと小さく咽せては黒い血を僅かに吐き出す。明らかに聖水が粘膜を焼いている証左だ。
震える手を伸ばして乱雑に姫魔王の髪を掴んだ。菫色がかった白銀の髪は先端から焼け落ちズタズタ。お人形然と切り揃えていた特徴的前髪も、額の傷状に失われていた。
我ながら残酷なことをした、などと聖女は考えないし思わない。
聖浄協会は魔の存在を認めないし許容しない。
そのための武器・法具であり、そのための理力だ。
他に用いることなどない。
聖浄協会の執行者としては、魔を滅ぼす以外の選択肢はない。
だから、聖女はまだ生きていられる。
価値を見いだしてもらえている。
必要とされている。
魔を恐れる力持たない人々から慕ってもらえる。
聖なる存在から愛を賜ることができているのだ。
魔力を失った今でこそ、愛らしい某国の姫として見ることもできる。
聖女よりも生きた時間の短さに対して同情しても良い。
違う。これはもう魔の化身そのものだ。
取り返しの付かない災厄の元凶だ。
袖口に仕込んで在る銀の殺傷刃で頚を掻き斬れば、終わる。
「お優しいのですね」娘の細い呟きで我に返った。自然と己の手があどけない娘のざんばらな頭を撫でていることに驚き、
血を失い冷たく成り行く小さな娘。某国の姫は未だ十と余念しか生きていない。
知性・教養・気品・王族の矜持はすでに一国を統べる者になんら見劣りしない才覚を発揮している。
この小さな躰のどこにそれだけの才覚が隠されているのだろうか。
のしかかられ、総ての重みを預けられていて、この軽さ。
まるで、人の形をした物。
作り物のような娘。
僅かに残る熱と、安心しきって寝息を立てる姿がこの娘が生きた個体だと証明している。
生きているのだ。
これは紛れもなく魔物で、魔の者共を統べる君主で、魔物たちの命を預かる現存統治者なのだ。
小さな身のうちには存在証明が縫い付けられていて、魔物たちに魔力を送り続けているのだろう。
両手の指先が震える。全身を支配する痙攣ではなくて、もっと単純な恐れ。大切なこと。根源的な感情。
聖女が属する聖なる存在の代弁者たる仮宿の教えにはなかった。
誰も教えてはくれずに、考える必要もなかった。
考えることを放棄させられていた?
考えることを自ら放棄していた。
繰り返す内に、ナニカが軋む音は薄れていったから、進む道が正しいと誇ることができていた。
聖女は道を歩み、聖なる存在の無謬を信じて、盲目的に働いた。
目を閉ざしていたのか。
あるがままを受け容れた代わりに、本来見えていたはずの多くを見過ごしていたのか。
正しかったはずだ。間違いではなかったはずだ。
疑問を覚えたことなんて、ただの一度しかなかったはずだ。
しかし、もう手遅れだった。
聖女は内側に湧き出た感情に抗う術をもたない。
彼女の胸の上で小さく息をしているものは、魔の化身そのものだ。
魔王国を興し、世界に宣戦布告した邪悪。
葬られるべき、聖なる存在が唯一許容できない、敵。
そして、たったひとつの儚い命なのだ。
ざんばらな頭を撫でていて、手に伝わる感触は人間となんら変わらない。
どこからか紛れ込んできた、毛並みの良い猫が勝手に居着いて、我が物顔で家主に甘えて喉を鳴らす。そんな情景が浮かんで、直ぐに消えた。
「私の負けですわ。お茶好きに悪い人はいませんが貴女だけは例外です。貴女はとても酷い人。きっと仲良くはなれませんね」
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