起
自らの心を持て余そうとも、その眼は曇ることなく瑞葵の事を見据えていた。
それが、和仁の瑞葵に対する接し方で、そうであるが故に彼は彼女の言葉を否定しなかったのだ。
星の数ほどの男を見て選ぶと言った瑞葵に対して、急かす事はしても、拒否することはしなかった。その事を彼女は少しばかり不満に思ったりもしたが、それが彼自身の誇りであり、誠意であることを理解するにつれて、その心境に苦笑と幾ばくかの尊敬の念を抱いていた。少なくとも彼女にはそんな選択肢を取る事は出来そうにない。自分自身に対して絶大な自信を持つが、それでもそんなセリフを吐けそうにはなかった。生憎ではあるが彼女の心は余りにも狭い。その器量に置いて並ぶ者はなくとも、その心根の在り様は子供のそれと大差ない。
確かに多くを知った後に選ばれたものにこそ、真の価値は宿るのかもしれない。だが、その価値を求めるが故に、他に目移りさせる可能性を生むことを、瑞葵は是と出来ない。ほかに目移りされる位なら、他全てを砕くのが彼女の流儀であり、彼女の生き様だ。
現状、目移りされていないからこそ、他の存在を容認してはいるが、目移りされれば躊躇いなく砕きにかかる。そんな自分自身の在り方を知りぬいていて、自らの心の動きを知るからこそ、和仁の言葉を彼女は理解できないし、理解する気もあまりなく、おそらくはこれからも理解する気は起きないだろうと思っている。
その結果がこれだ。
理解できない苛立ちを毒として爪に込め。
理解できない鬱屈を黒焔として息として。
それら全てを和仁へと叩きつける事で、自らの情のはけ口にしている。
この感情を嫉妬というのだろう。
自身では何に嫉妬しているのかさえ把握できず。自身では何が不満なのかさえ理解できていないあまりにも幼い情緒の発露に益々苛立ちが募る。
壊れてしまえ。砕けてしまえ。潰えてしまえ。
愛した男以外全てを滅ぼすことが出来れば、この感情はきっと解決するのだろう。
愛した男から全てを奪い去る事が出来れば、この感情はきっと解決するのだろう。
相反する二つの理想は、結局たった一つの障害によって拒まれた。
目の前の男が苦笑しながら構えを取って。
目の前の男が、目の前の男が、ああ、愛おしき宿敵が、どうあっても彼女の目の前に立つ。
あれ以外を滅ぼそうとしても目の前の男が食い止める。あれから全てを奪おうとしても目の前の男からは何一つ奪えない。それを理解しているが故に感情が狂いに堕ちる。吐き出す感情は焔に交じり、溢れる吐息は蜜毒がごとく。いかなる害悪さえも彼には届かない。いかなる悪徳さえ彼はその柳眉を顰める事はなく、当然のように受け入れる。
「そういえば、かつて貴方が言ったのよね」
「ああ。かつて吐いた言葉の責任はとるさ」
その言葉に瑞葵は小さく笑みを浮かべた。和仁に告白されて以来の心の底からの笑み。嘲りでなく、安堵でなく、苦笑ではなく、作り物ではない。浮かんでいる事さえ気が付かない笑みだった。事の起こりを思い返せば昔の話になる。未だ彼が英雄ではなく、されど既に彼女は怪物に成り果てていたころのお話。そんな昔の事を思い出して少女の笑みは清々しく。それ故に躊躇いなく自身の怪物性を発露した。
「受け入れてくれるんでしょう?」
「言うまでも無く」
「受け止めてくれるんでしょう?」
「言葉を翻すつもりは無い」
「私をただの少女にしてくれるんだ」
「ああ、俺の武芸はきっとその為に」
世界を幾度でも滅ぼすに足る力を瑞葵は笑みを浮かべながら和仁にたたきつける。放たれる一撃は世界を揺るがし、世界を壊し、あらゆる法則を狂わせる。ただの咆哮で世界が捻じれ、無造作に振るわれる一撃で世界は壊れ、視線の圧に負けて世界は拉げていく。それでも、悠然と彼はそこにあった。揺るがず、折れず、砕けず、昔から変わらない生意気な笑みを口元に浮かべたまま。しょうがないお子様を相手にする大人のように上から目線で変わりなく。
「生意気」
「お前が言うかよ。昔っからこましゃくれたガキだったお前が」
「ええ、だから言うの。だから思うの。ああ、私やっぱりあなたの事が好きよ」
「ありがとよ。その言葉は世界を知ってから言ってくれ」
「ええ、世界を見て、世界を知って、世界を無茶苦茶にして、世界を壊してから、何度でも言ってあげる。……和仁。私はあなたの事が好き。恐らく世界の果てまで隅々まで知っても、私はあなた以上には出会えないんでしょう。運命、宿命、前世、今世、来世、原因、結果、終末、始原。あらゆる因果の最果てで、幾度でも私はあなたに挑む。姦策を練り、策謀を抱き、謀略に尽くして、私は世界を知るために世界を壊す」
そしてふと、瑞葵は気が付いた。思い出したと言ってもいい。その答えを既に知っていたかのような和仁の顔をぼんやりと見ながら、彼女は彼に向かって問いかけるように呟いた。
「……そうよね、そうだったわね。思えば、最初はそのつもりだったのに、最近少しばかり大人しくなりすぎていたわ」
そう言って後彼女は笑みを浮かべた。蛹が蝶へと羽化した後のような、妖艶に、凄絶に、どこまでも晴れやかな笑みだった。その笑みを浮かべたまま優しく手を振るう。その優しい佇まいと相反した波動が大地を砕いた。自身の持つ魔力をただ叩きつけただけでその威力。人ならざる怪物性の証左足る隔絶した基礎性能が、和仁に向かって牙を剥く。
優しく、穏やかに、世界を壊していく。
怪物とはこういうものだと言わんばかりに、ただあるだけで世界が砕けていく不条理。悪意を抱くだけで世界が敗北し、彼女の望むが儘の結論を描き出していく絶望。それらを目の当たりにしても、和仁は不敵な笑みを崩さない。
悪意天を覆うとしても、悪法万世に轟くとしても、英傑惑うことなく、俊英たる性を見せつけるように舞い踊る。大地を踏みしめ、大地なくば空を蹴って、空さえ敵に回ろうと、磨き上げた術理に一片の躊躇いなく、死の道筋を疾駆する。
瑞葵が放つ物に理は無い。術理無く、原理なく、理論なく、自ら抱いた法をもって摂理を塗りつぶす。世界という法則を、純粋無垢たる意思をもって否定する。まさしくもって悪魔の所業。怪物の所業。人ならざる存在の行き着く果て。かくあれかしと人が恐れ、嫌悪し、そして拒んだ最悪の具現。
だから。
彼女の母はその在り方の儘に生きることの辛さを知るが故に、その性を抑え込もうとした。
神秘が否定されていく世界に生まれ落ちた悪業の最果てに未来がない事を知っていたから。
だから。
彼女の父はその在り方を不憫だと思った。自らの性の儘振る舞えない絶望を知るが故に。
神話にて否定された悪業の行く末を撃ち滅ぼす者として、彼女を敵役にしたくはなかったから。
だからこそ。
彼女は自らに向けられた愛を知らずに生きてきた。
生まれ落ちたその時より、望まれたはずの在り方は、自らの性の否定であり、彼女にとって幸福とは、自らが滅びた先にある虚無にしかなかった。
ドラゴン。現世にあるべきではない、不条理の具現。生まれるべきではなく、生まれてくる意味もなく。
「生まれてくるべきではなかった」
笑う。
嗤う。
狂ってしまいそうなほどに。瑞葵は呵々大笑した。その無様さに。不条理の具現に向けられた不条理に。彼女は笑うしかできなかった。笑って、笑って、笑いながら死んでいく。それは当然。物語におけるラスボスの在り方とはそうあるものだから。
かくあれかし。
生まれたままに、生まれてくるべきではないと望まれるとは。
それは、如何なる宿業か。それは、如何なる邪悪か。それは、如何なる絶望か。
両親の愛を疑う事は無い。その愛の在り方に違いはあれど、その量に多寡は無く、その質に疑義は無い。だけど、ああ、されど。
「結局は我儘だったのでしょう。かくあれかしと願う父母の思いを全て無視して、このままの自分を愛して欲しいなどと願う私は強欲だった。自らの悪性を認識する前までならいざ知らず、自らの異常を識ってなお、我が儘に愛して欲しいと強請ったのだから、それは当然。叶わぬ願いとして、忘我の果てに置き忘れておくべき願いだったのに……あなたがいけないのよ? 和仁」
向けられた流し目は致死の眼だ。
視線を掠めるだけで他者の心臓を容易く止める呪。それが間違いなく和仁の心臓を停止させた。鼓動が停止する。だが、彼の疾駆は止まることなく、心臓が停止したままに拳を振るう。
炸裂音とガラスが砕け散る音に似た破壊音が響く。無詠唱で展開された魔法陣が織り成す防壁。それがあっけなく破壊された音だ。
「ああ、だから責任はとるさ」
和仁の言葉に瑞葵はにっこりと笑う。
浮かぶ笑みは抑えることは出来はしない。
欲しい言葉を望むが儘にくれる男に、少女はその鼓動を速めていく。
体が熱くなる。
血潮が熱くなる。
肉体は燃え盛るが如くに熱を帯びて、その灼熱のままに吐き出した。
彼女の感情の発露は破壊のそれだ。
自身の感情の昂ぶりのみで吐き出されたその紅蓮は一瞬にして館を蒸発させる。その焔が通った後には灰すら残らず、個体が気体へと瞬時に気化したことで爆発的に増大した体積が引き起こす轟音で世界が震え、噴火した瞬間の火口よりも強大な灼熱が直撃して、当然のように生きている男の姿に更に更に昂ぶっていく。
まさしく英雄。まさしく英傑。まさしく人類の最果て。
輪廻の果て、死出の旅路の更に先にてまみえた稀人。
自らの全霊をもって滅ぼせぬ、宿業の終着。宿命の人。運命の人。唯一の人。彼女が愛する人。
足りない。足りるはずがない。
心が急かす。身体が求める。魂が願う。ありのままに振る舞う事を拒まず、我が儘に振る舞ってなお、悠然と笑みを浮かべ、自らの行い全てを受け止めてくれる男を相手に、この一瞬は短きに過ぎる。
愛している。愛している。愛している。
世界を焼き尽くす、地獄のような恋心。
その心は、ようやく尽くせぬ相手を見つけて、儘に燃え盛る事を選んだ。
その体は、ようやく壊せぬ相手を知って、更なる先へと進むことを定めた。
その魂は、とうの昔に知っている彼の輝きに魅せられるままに。
紅蓮地獄が大地を朱に染め上げる。黒煙が陽光を隠して闇色へ世界を誘う。世界の終わりを連想させる、終極の場所で、少女は彼に向かってはにかんで見せた。隠し事がばれた事をに頬を染めるその姿は、まさしくもって恋する乙女。その故が如何なる邪悪であろうとも、その矛先が如何に悪辣で有ろうとも、その笑顔だけで許してしまいそうになるのはやはり。
「惚れた弱みか」
小さく。
本当に小さく呟かれたその言葉は誰に聞こえることも無く、燃え盛る炎の弾ける音に紛れて消えた。
同時に金色の影が舞う。
盛る焔が生み出す気流に踊る様に金糸が如く輝きを増すそれは、彼女の生命としての輝きを示すかのように、しなやかでとても力強い。その光景に見惚れそうになりながら、視線混じり合う瞬間に心通じる事さえ無視して、瑞葵はその浮かべた笑みのままに、その腕を振るった。死を愛する男に賜る事にさえ躊躇いなく全力全霊をもって。
音を置き去りに、魂まで砕いて余りあるその一撃を和仁は容易く受け流した。
いかなる技巧か、いかなる技術か、はたまたその枠組みに含まれない何かなのか瑞葵は理解できないが、そんな事は些事にも程があった。
かわされたという事実に、抑えきれない喜悦を浮かべ、更に先へ、更に過去へ、更に自らの力を引き出していく。
肉体は既に少女の面影を残さず。その精神の在り方は既に人のカテゴリより逸脱して。そして、そうある事こそが彼女の望みだった。かくあれかしではなく。瑞葵は彼女の儘をもって充足へと近づいていく。満ち行くが心の在り方が魔的へと堕ちて、人ならざる者へと変質していく。それでも。
「いくよ、和仁」
「ああ、存分に来い。好きな女の我儘の一つや二つ、笑って受け入れられないで何が男か」
時代遅れな。だけど、瑞葵が最も欲しかった言葉。それをさらりと告げる目の前の男が、どうしようもなく愛おしくて、そしてどうしようもなく壊したい。そんな破滅的な欲望のままに、彼女は振る舞う事を彼女は今度こそ笑って選んだ。




