転
首狩りの一撃。
放たれたのはカーミラの影よりだ。
さすがは闇の眷属。自分の影を操ることくらい鼻歌交じりで行う。
刃は立てられず、斬撃というよりは打撃に近い一撃だが、その威力は受けた相手の意識を飛ばす程度の物はあった。手加減はしている。たとえ受け損ねたり反応できなくとも怪我の範囲内に収まる程度に彼女は出力を絞って攻撃してきている。不意討ったのは、こちらの見極めもかねてのものだからか。激昂していながらも随分と冷静だと和仁は彼女の状態を評し、そんな自分の母の行動をに対してその娘たる彼女は小さくため息をついた。
「和仁」
「なんだよ」
その斬撃を首を傾けるだけでかわした和仁へ瑞葵が声をかける。
口遊んでいるのは場所を切り取るための結界術。次元をずらす彼女お得意の封鎖結界。対象となっているのが自分自身とカーミラであることを彼は直感して理解する。
「頑張れ」
「ああ、頑張るさ」
そして結界が完成して世界から切り離された。和仁の隣に座っていた瑞葵の姿はなくなり。紅く染め上げられた彼女の結界の中で最後に一杯紅茶を飲んだ。そんな余裕綽々の態度に激高したのか再び影の刃が煌めいて彼の首を撥ねるために大気を切り裂いた。その斬撃にカップを干しながら当てて滑らせるように受け流すと、飲み干した後のコップをもう一度ソーサーに置いて、そして構える。油断なく。余裕に満ちた表情のまま拳を握るが、生憎カーミラの姿は既に部屋の中になかった。
隠れたと見るにはカーミラは激発し過ぎている。この状態で冷静に動けるのであれば武術家として大したものだが、彼女の動きを見るに武術の心得はあれど修めている程度で熟してはいない。となればこちらをビビらせたうえで真っ向正面からの不意打ちでも狙っているのだろうとあたりを付けて、一歩だけソファより外れるように動いた。
和仁の影が揺らめく。
水面の用に打ち震えたそこからカーミラが姿を現した。
影歩きの類の魔術。というよりも吸血鬼の特性の一つか。
影を纏い、深紅の瞳を輝かせながら現れると同時にその鋭い爪を和仁に向ける。
驚きの表情を彼は見せない。
不意討たれるだろうと予想はしていたがその手段まで読み切っていたわけではない故に動揺は必然。しかしその動揺を一切表に出すことなく、淡々と処理するかのようにカーミラの爪を最小限のステップで回避。かわされて流れた彼女の隙を逃すことなく、もう片方の腕を取って軽々とねじ上げた。
「戯けが」
「そうか、吸血鬼」
捩じ上げたはずの手が虚空に掻き消える。
急激に下がった温度はいきなり周囲に霧が満ちたからか。掴んだはずの肉体が霧へと変じ、再度カーミラの像を模る。取っていたはずの腕は逆に掴まれていた。
「このまま握りつぶして……」
「シッ!!」
完全な形を取り戻した瞬間。
和仁の拳撃が閃光のごとく着弾した。その一撃をギリギリで霧に変わる事でカーミラは回避する。特に踏み込むことなく予兆さえないは一撃は、鋭い呼気が示す以上の威力をもって彼女の前髪を掠めるだけにとどまったが、着弾先、つまり天井は無事では済まなかった。
乾いた音と同時に見上げてみれば風穴が空いていた。
瑞葵の張った血のように赤い結界が見える。
そして結界を通して赤く染まった光が屋敷の中に降り注いだ。
「太陽か。貴様」
「結界を張ってある以上、屋敷の被害を気にはしません。そもそも吸血鬼相手に昼間戦わせてもらえるなら、最大の弱点は当然利用させてもらいます」
「は。ユウと同じ手段を取るか。最もあいつの場合は深夜より初めて朝まで戦い抜いたが。瑞葵を攫おうというのだ、昼間のオレくらい赤子の手をひねるが如く勝って見せろというに」
「と言われましても、弱点を突いて勝つ。古今東西当然の戦術では?」
「瑞葵を当然の戦術でどうこうできるのであればそれでいい。だがそうでなくてはあれの運命に喰われるだけだ。それは互いによろしくなかろう。だからこそ願うのだ。だからこそ試すのだ。お前はオレの娘をどうこうできる器かと。こんな当たり障りのない戦術しかとれぬのであれば、ユウの目も曇ったか。恋は盲目故に瑞葵の目利きは信用していないが……」
その言葉に和仁は一つ鼻を鳴らして不満を示した。
自分の事を貶されて何かしらの怒りを抱く性質ではないが、瑞葵の事を貶されるのだけは許容できない。あれ程の女が恋煩い程度で自分を見失うなどと、本気で思っているわけではないだろうが見くびられるわけにはいかない。
再度構えを取り直す。
一応彼女の母であるという事を考えててを抜いていたが、この言い草であれば問題ないだろう。和仁は全力を出すことを決めた。それと同時にもう一つの覚悟も。
その覚悟がカーミラに伝播したか、雰囲気の変わった和仁に相対する彼女の目が細まった。和仁から放たれる圧が増したことを感じ取って警戒態勢を取る。周囲に満ち影を全身に纏って鎧とし、掌より零れ落ちた血液を剣とする。
瑞葵と同じ長い金髪、透き通るような白い肌、凍り付くような美貌の真逆の位置にありそうな、不吉な装束を身に纏ったその姿は、確かに瑞葵を想起させて彼女との血の繋がりを感じさせる。深紅に輝く瞳、瑞葵よりもシャープな体型が彼女との差異だ。
やりにくさが全くないと言えば嘘になる。
しかし、彼女と戦うことに抵抗はなかった。
「成程。能ある鷹はというやつか。オレを相手に手を抜くとは随分と自信家らしい」
「いや、手を抜いてたって訳じゃないんですけど、流石に恋人のお母さんに全力で殴り掛かるってのに抵抗があったってだけで」
「は……遠慮するな。遠慮していてはあれに喰われてしまうぞ? それは本意ではあるまい。しかし、なかなかどうしてあれも見る目は合ったらしい。ユウの目も節穴に堕ちたかと心配したが、どうやら杞憂だった。ならば、その実力、全霊をもって味わってみたいというのは、この身の性だ。益荒男共の意を受けてこそ昂ぶる」
「雄介さんに怒られますよ」
「ふん。たまには嫉妬してくれた方がこちらとしても張りあいがある。ユウは男として優秀だが、恋人としては余りよろしくはない。どれ程この身を焦がせれば気が済むのか」
うっとりとカーミラはそう言った。その言葉に宿る熱情は灼熱で、触れれば焼けてしまいそうな程に熱い。情の深さ、熱の入れ込みよう、その精神の持ちようは瑞葵にとても良く似て、だからこそ彼女相手に本気を出すことを和仁は躊躇った。覚悟は決めたとはいえやはり全力は出しにくい。今回ばかりは仕方がないが、彼女を相手に戦うべき英雄は自分ではないとますます強く感じてしまう。運命という言葉は嫌いだが、この人は確かに出会うべき時に出会うべき人に出会えたというその事実は確かに運命と呼ぶしかないのだろう。
悠然とただそこにいる人。瑞葵の父。雄介。彼が救い、彼が愛し、彼が刻んだ運命の比翼。
故に彼女は怪物として完成している。
怪物として生まれ落ち、怪物として生き、怪物として敗北することで。既に彼女の伝説は完結したのだから。打倒され無害となり果てる事で、怪物としての機能を失う事で彼女はその物語に幕を下ろした。そんな彼女を相手に運命の加護は望めない。本来人の身に余る怪物を打倒するために必要な最後の要素が和仁には得られない。それを二人は理解していた。
カーミラは世界の法則を手繰る怪物としての本能として。
和仁は戦いの流れを知る武術家としての経験則として。
勝利に必要な流れが和仁に味方することはあり得ない。
それでも。
この戦いを望んだカーミラの心を推し量るのであればこの戦いを否定できなかった。この戦いを否定してはいけないと和仁は思った。
「さあ、踊ろうか、婿候補殿」
「ええ、来いよ吸血鬼」
先手を取ったのはカーミラだ。
その手に持った深紅の魔剣を振るう。
音を容易く超えたその斬撃は込められた魔力との相乗効果によって空を疾駆した。
その一撃を斜め前に半歩踏み出すだけで回避して、その体制を僅かに低くする。同時に突っ込んできていたカーミラの一撃が先ほどまで和仁の首があった場所を薙いだ。空振りした後の隙をついて、その腕をつかみ取る。霧に変じられる前に、彼女の判断が追い付く前に態勢を崩して右の膝を打ち付けた。
撃ち抜いた衝撃が彼女の肺から酸素を全て絞り出させる。右膝を撃ち抜いた反動を利用してそのまま回し蹴り。呼吸を止められたカーミラに防ぐ手段は無いと思われたが、呼吸を止められた程度で、あばらを砕かれた程度で、心臓を衝撃が撃ち抜いた程度で、動きを止める程彼女は生易しい怪物ではなく、その手に持った剣をもって和仁の回し蹴りに斬撃を合わせた。
そしてその合わせた斬撃事打ち砕かれて再度吹き飛ぶ。魔力をもって練り上げた剣に、和仁は自身の氣を練り上げた蹴撃で対応したのだ。その練度の高さに驚愕の表情を浮かべるカーミラ。吹き飛んだ彼女相手に和仁はそのまま追い打ちをかける様に追いすがった。
打撃音、衝撃音、破砕音。
鳴り響く三重奏と共に、壁をぶち抜いてカーミラは隣りの部屋へと吹き飛んだ。
手ごたえを和仁は感じ取っている。人間なら胴体が引きちぎれても可笑しくない威力を叩き込んだが、吸血鬼相手にどれ程のダメージが入っているかはあまりにも未知数だ。そんな彼の懸念を証明するかのように、崩れ落ちた壁の奥で立ち上がる姿が見えた。
深紅の瞳を殺意に濡れさせて、幽鬼のようにゆっくりと。
与えたはずのダメージをまるで感じさせない足取りで、和仁の前に悠然と立った。
「吸血鬼の再生能力は卑怯だよなぁ。胴体を両断したかと不安になる手応えだったのに、まるで無傷か」
「オレとて無限に再生できるわけではない。夜であるのならともかく、日中ではな。その点を突かれてユウには後れを取ったが、今のオレにその弱点はないぞ。そして確信した。婿候補殿。大した男だ婿候補殿。ユウに見込まれ、瑞葵に惚れこまれただけの事はある。その年でオレと戦った時のユウと同じレベルに既に到達しているなど、人類種の中でも飛び切りだ。しかし」
「言わなくてもわかってますよ。その程度では瑞葵を譲れない。でしょう?」
「そうだその通り。人類種の飛び切り程度では瑞葵は救えない。それがかつてオレとユウが願い、それでも届かなかった現実だ。ユウとて間違いなく人類種における白眉で、自画自賛になるがオレとて怪物の中で飛び切りだというのに、それでも届かない領域があれの生きる枠組みだ。人の身では決して届かぬ神話の世界に生きるモノ。それが瑞葵住まう世界」
その言葉に和仁はうなずいた。
瑞葵の事を和仁とてよく知っている。
あれは特別に特異になにより悪魔よりも悪魔的にぶっ飛んだ存在で、そうであるが故に人という種族の枠組みでは決して触れられない存在である。ドラゴン。神話に語られる絶対悪。単体にして世界を滅ぼすに足る怪物にして超越種。瑞葵はそんな種の中でも最悪にカテゴライズされる。人の手ではどうしようもない、神に祈りを捧げて鎮まることを待つ以外に出来ない災厄の具現。
「それでもですよ」
だからどうしたと和仁は笑うのだ。
それでも彼女の事を諦められないからこそ、無茶を通すのだ。もとより好きな女の子一人の為に、命をかけられずしてどうする。
恋する乙女は無敵だと誰かが言った。ならば、愛を知った男が無敗でない理由がない。
意地を張る。
それだけが和仁に許された権利で、諦められないと叫ぶその心こそが彼の原動力。
「それでもと言い続ければ届くとでも言いたげな言葉だな。不快だ。願い続ければ、諦めなければいつか叶うなどと言った幻想。それを抱く貴様はどうしようもなく不快だ」
「は……」
睨むカーミラを和仁は鼻で笑う。
激した彼女の圧が更に増して、眼光がますます強くなる。
もはや物理的影響が出ているのではないかと思うほどの視線が和仁に突き刺さる。
「何がおかしい。婿候補殿」
「いやぁ、随分と諦めがよろしい事でと。そう思っただけですよ」
「諦め? 誰が諦めたというのだ」
「貴方が」
「……貴様に何が解る。如何なる手を尽くしても届かぬという証明しか出てこない状況に絶望が、貴様にわかるというのか。悪の光輪者。龍種の中でも飛び切りの大魔龍。そんなものの魂を抱いた娘が生まれたオレの気持ちが貴様にわかるものか!!」
「ああ、わかんねーよ。結局俺は一度たりとも絶望したことがないからな。悪の光輪者? 知らないね。そんなドマイナーなドラゴン引っ張り出されても、俺にわかるわかるわけもなし、そもそもやる事は一緒だったからな」
「無知な人間がっ!!」
「逃げるなよ吸血鬼さん」
「ならば当然乗り越えて見せるのだな。このオレの全力を」
鬼気が瑞葵の結界を揺らす。
溢れる魔力が世界を犯して汚していく。
太陽がただ一人の吸血鬼に敗北して、その身を隠す。
あっという間に屋敷が風化して、まるで月面のような荒野があたり一面に広がっていく。世界が終る。世界が違う何かに変質していくその中で。
「さあ、終わらぬ夜に怯えろ、人間」
赤く染まった月を背に。
金糸がごとく長髪をなびかせて、高らかにカーミラは宣言した。
紅き月に彩られた夜が始まる。
赤紅の世界で和仁は悠々と構えた。
 




