序
第5章の始まりです。
よろしくお願いします。
風も冷たくなり、日々の日差しも和らぎ肌寒ささえ感じるようになってきた10月の初旬。文化祭も無事終わり、何かしら特筆すべき行事もしばらくない平和な日常の中で、和仁は久々に穏やかな時間を瑞葵と過ごしていた。
とは言っても休日を二人で過ごすのは珍しくはない。言い方は良くないが慣れた空気の中で、読書にいそしむ。それが彼らにとって一番贅沢な過ごし方だった。ページのめくる音だけが二人を優しく包む感覚。それを楽しみながら夜月の入れたお茶へと手を伸ばした。
「……へぇ、マシになったわね」
「練習したからね」
そうやってにこやかに笑う夜月に瑞葵は笑みを浮かべ再度口を付ける。紅茶の香りを殺すことなく、渋みを出さずさわやかな後味が口の中に残った。それに合わせるように机の上に置いてあるクッキーに手を伸ばす。それを齧りながら和仁の方へと視線を向けると、真剣な眼差しで教科書を読んでいる彼の姿があった。時折出るうめき声が彼の苦戦を表している。
「……なんだよ」
「いえ、幸せだと思っただけ」
「そうか。それは良かった。よかったついでにここ教えてくれ」
「はいはい」
示された場所を丁寧に教えていく瑞葵。彼女の言葉を一つ一つ確認するように聞きこむ和仁。そんな二人の姿はまさしく仲睦まじい恋人同士で、はた目からそれを見せつけられる夜月としては、含むべきものが無いわけではなかったが、しばらくぶりの穏やかな交流を邪魔する事も無く、自身で入れたお茶をすするだけで済ませた。
どうせこの穏やかな時間もそれほど長くは続かないのだから……なんて、少しばかり意地悪なことを考えながら、視線をちらりと部屋の入口へ向ける。ほぼ同じタイミングで和仁も気が付いたらしい、教えていた瑞葵の言葉を指一つで留めて、視線を入口の方へと向けさせた。
「お邪魔するよ皆」
「……父さん」
「お邪魔しています、瑞葵のお父さん」
入ってきたのは瑞葵の父、雄介だった。
いつもの穏やかな雰囲気ではなく、随分と緊張した空気を身に纏っている。
その様子に瑞葵の目にも緊張が混じる。和仁は緩やかに立ち上がって正式な挨拶をしようとするが、それを手で押しとどめて自身も応接室のソファーへと腰を下ろした。そこへ流れるように夜月がお茶を給仕する。雄介はそれを一口飲んで少しばかり緊張を緩めた。
「美味しくなりましたね、夜月さん」
「ふふ、光栄の至り」
「いや、そう言うの良いから、何があったの父さん」
「ああ、そうだ。瑞葵明日、母さんが帰ってくるってさ」
「……え?」
「だから、母さんが……」
「いやいやいや、え、なんで? どうしていきなり?」
「詳しい事を僕は知らない。だけど、帰れそうって連絡が来ただけで、そんなに慌てることはないだろう?」
「か、和仁のことまだ何も言って無いのに……」
「……え? なんで?」
「だ、だって」
うろたえ始めた瑞葵に和仁は首を傾げた。
とはいっても家族の事に口出しできることはない。
出されたクッキーをもう一度口に放り込んで、事の推移を見守っていると瑞葵から切羽詰まった声をかけてきた。日頃の余裕を感じさせる声音とはまるで違うそれにますます困惑する。
「どしたよ」
「あ、あの、お母さんが帰ってくるんだけど……」
「ああ、聞いてた。何か問題でもあるのか?」
「そ、そうじゃなくて……その、ごめんね?」
「ごめんね? それはどういう意味だ?」
言い淀む瑞葵にそう聞いても彼女は何も答えなかった。その様子に更に首をかしげるしかない。そういえば、彼女と深く交流して来たが、これまで一度も彼女の母親とあった事はなかった。海外で忙しくしていると聞いていたことはあるが、何をしているかも知らなかった。その辺りが答えにくい何かなのだろうと、あたりをつけていると、雄介が代わりに答えた。
「彼女の母……つまりは僕の妻は吸血鬼でね。それも、吸血鬼至上主義、人間嫌い、男嫌い、その上で瑞葵を溺愛している。そんな彼女が瑞葵に彼氏ができたなんて知ればどう思うかという事さ」
「あ、ああ。……ってか、よく結婚できましたね」
「ははは。頑張ったよ」
「そうっすか。それにしても……言ってなかったのか?」
「……言うタイミングがなかったのよ。あの人忙しい人だし」
「……メールで毎日様子を聞いてくると思うんだけど」
「……一つ返すと延々と続けなきゃならなくなるから……」
「返してないのかよ」
和仁は雄介と共に呆れた表情をした。父と恋人よりその表情で見られた瑞葵は少しばかりバツの悪そうな表情をして、ごにょごにょと言葉を濁した。
「いやまあ、俺がどうこう言うようなことでもないけど、どうする? そりゃ来るなって言うならしばらく来ないけどさ」
「……いい機会だから紹介するわ。いつかは伝えないといけないことだし。ただし、気を付けてね和仁」
「何を?」
「うちのお母さん。吸血鬼で魔女で、要するに悪魔だから、和仁にきっとひどいことするけど、和仁なら大丈夫だと思うから」
「……それ、親を紹介するときのセリフかよ」
「いや、妻の評価については瑞葵の言葉は正しい。控えめに言って彼女は悪魔だ。そもそも人とは価値観が違う。そしてそのすり合わせを行うことなく、行うつもりも無く彼女は彼女として完結している。おそらく僕と瑞葵の方が例外なんだ。僕と瑞葵が例外的に自身の価値観の中にある優先すべきもので、それ以外の人間は同様に有象無象なんだろう」
「夜月のように人ならざる存在というのなら。また話は変わってくるんでしょうけど、根本が吸血鬼。人という種の敵対種。そうある以上人に対して隔意を抱くのは仕方のない事でしょう? 父さんの事を母さんは愛しているけど、だからと言って父さんの種全てを愛しているわけじゃないのよ」
「あー……難しい事までは理解できないけど、つまり俺は瑞葵のお母さんに嫌われるってことでいいのか?」
「きっと殺しにかかるでしょうね」
「間違いなくだね」
「ええ……」
随分と過激なお母様だこと。なんて和仁は思った。そんな彼の表情を見て瑞葵は小さく笑みを浮かべて、再び紅茶に口をつけた。余裕のある態度に和仁の視線が強くなる。そんな彼に対して言い訳するように、されど悪びれることなく彼女は言った。
「でも、貴方なら容易くお母様の想像を越えていくんでしょうね和仁。私はそう信じているわ」
「信じられても困る。殴って言う事を聞かせるわけでもないだろう」
「いえ、殴って言う事を聞かせるのよ」
「……え?」
「だから、ぶん殴って言う事を聞かせるの。お母さん相手にはこれが一番早い」
瑞葵の言った言葉に和仁は絶句した。凄まじい勢いで雄介の方をガン見すると彼も瑞葵の言葉にうなずいている。
「いやいやいや、そんな馬鹿なことを……」
「言ったでしょう? 人と価値観が違うの。まずは対等に話せることを理解させなきゃ、普通に話すことも出来ないわよ」
「だからと言ってお前のお母さんをぶん殴れってのはなぁ」
そもそもどんな相手でも殴り合う事を前提に話を勧めること自体おかしいと和仁はそう思っている。その考え方を瑞葵は否定する事は無いが、自身の母に関してだけはそんな甘い考えでは生き残れない。吸血鬼という人類の敵対種。瑞葵が姫君なら彼女の母は女帝だ。一つの種を担うものとして、人に折れることはそうそうない。千以上の時を生きて唯一折れたのが自らの父だけなのだから。
「会ってみればわかるわ。何せ娘の私でさえ、あの人とは相容れないと直感させるほどの怪物よ。よくお父さんが心を射止めたものだわ」
「射止めたというか、勝手に砕けたというか……うん、なれそめを語るのは勘弁してもらおう」
「いや、別に聞きたくはないっすけど」
恋人の両親のなれそめとか聞かされても困る。
「とにかく、そういう訳だから明日お願いね」
「自分の母親を殴らせるために彼氏を呼ぶとか、どういう家庭事情なのか聞かれても答えられないなこれ」
「家庭の事情というより、種族の事情だもの」
そういってため息をつく瑞葵。その表情には少し沈んでいる様子が見える。その事について深く聞くつもりも無く、和仁はカップに残っていた紅茶を一気に飲み干した。
「それで、師匠。何かご存じですか?」
「ふむ、彼女の母親についてかい?」
「ええ。その人の事について客観的に知るなら身内よりも師匠に聞かせてもらう方が確実かなと思いまして」
「ふむ」
使い終わったカップとお皿とポットを洗っている夜月の下へ和仁は聞きたいことを聞くために向かった。そんな彼の質問に対して夜月は少し考える様な様子を見せると、和仁へ洗い終わったカップを手渡してきた。それを受け取って乾いた布巾で拭きながら和仁は夜月の言葉を待った。
「酷薄、冷酷、悪逆、非道。人に厳しく、身内に甘く、己の悪意のままに人の世を蹂躙する災害。それが一番表現としては近いか。一昔前なら討伐軍を組まれてもおかしくない程の怪物。それが、彼女の母だ」
「大袈裟な」
「大袈裟なものか。事実として二回ほど彼女を相手に討伐軍が組まれたこともある。ヨーロッパにおける魔導組織の禁忌が一つ。真なる竜を祖に持つ、吸血鬼の中の吸血鬼。それが彼女だ」
「……マジっすか?」
「事実だよ。およそ20年前、雄介が打倒するまで一騎討ちで一度も敗北したことがない正真正銘の怪物だからね」
「あ、雄介おじさん勝ってるんですね」
「雄介の全盛期であった事、彼女自身が雄介相手にだけは本気を出せなかった事。要因はいろいろあるけど……まあ、それでも瑞葵嬢の全力よりはマシのはずだ。つまり君にならどうにかできるさ」
「それを聞いて、俺はどういう反応をすればいいんですかね。恋人の母親ぶん殴ってドヤ顔しろと?」
「さて。必要であるならそれもやむなしかな。とは言え彼女も君の事を知らないだろうし、ここはひとつ人の極限というやつを教えてあげると良い。何せ君はいい男だ。彼女は雄介にぞっこんだから堕ちないだろうけど、君の輝きを見せつける事くらいは出来るさ」
真っすぐに褒められて和仁は鼻の頭をポリポリと掻いた。聞きたかったのはそういう事ではなく、どうにか穏便に済ませる方法だったのだが、この言い草からして穏便に済ませる方法はないらしい。
「まあ、君が穏便に済ませたいというのなら、瑞葵嬢と別れるっていう一番簡単な方法があるけど?」
「成程、穏便に済ませる方法はやっぱりないんですね」
「瑞葵嬢と付き合っていく上ではね……さて、洗い物も終わったし、君の聞きたいことも聞けただろう。後はお姫様のご機嫌取りに戻りなさい」
「……どうも、ありがとうございました。……後、俺別にご機嫌取りのためにあいつに会いに来ているわけじゃないですよ」
「知ってる。だけど、あまり認めたい事じゃないからそう言ってるだけ。だってそうでしょう? 好きな人が別の娘とイチャイチャしているのをただ認めるのも癪だからね」
そう言った夜月の横顔は悪戯っぽく笑っていた。
彼女の信頼に和仁の頬が緩んだ。何一つ彼の勝利を疑わない自身の師匠に対して、尊敬の念と感謝の念を深めてそれを示すために和仁は一礼をして、もう一度瑞葵の下へと戻っていった。自信はないが信頼を裏切るつもりも和仁には無い。




