起
第二話です。
全体の文字数は大体3万文字程度の短編なので、全六話で完結予定です。
屋敷を出る間際に和仁は視線を感じ取った。
その視線の方を見れば、館の入り口から少し離れたところに備え付けられた花壇が眼に入った。そこで、一人の紳士が花に水をやっている。
使用人というものが存在しないこの屋敷に置いて、この時間帯に水をやっている人物といえば一人しかいない。この屋敷の主。赤霧瑞葵の父、赤霧雄介。
白いポロシャツにジーパンというラフな格好で、水をやり続けているその様は、世界的に有名な企業の社長とは到底思えないほどに庶民的だ。その瑞葵の父がこちらに視線をやっている事に気がついて、和仁は慌てて頭を下げた。
その様子を見て彼は水をやる手を止め、和仁に歩み寄ってきた。
普段、和仁について特に関心を示さない彼が、こんなふうに和仁に対してアクションを起こすことは珍しい。何事かと和仁はかすかに首をかしげた。
「和仁君か」
「あ、はい。おじゃましています瑞葵のお父さん」
「ん、ああ、そんなに緊張しないでくれ。私はこれでも君には感謝しているんだ」
「はあ……」
感謝といわれても和仁は首をかしげることくらいしかできない。
そもそも、雄介と和仁が会話するということ自体初めてだ。何度か会う機会はあった物の、毎回こちらの事を無視するような態度だったはずで、むしろ自身のことは嫌われているんじゃないか、なんて和仁は思っていた位なのだから。
「娘の事をいつもありがとう。アレもなかなかどうして素直じゃないからね。そういう似無くても良いところは、私に似てしまうらしい」
「……確かにあいつは素直じゃないですけど、その分解りやすい性格してるんで」
「ふふ、そうかもしれないね。だが、覚えておきなさい。女性がどのような態度を取っているかはあまり関係が無い。それこそ、女心を男が理解できるなんて空想だ。どれほど慮っても、空回りするだけ。相手がそれを隠す気なら、最後まで私達には悟らせてくれないだろう」
自嘲するように雄介は言った。何かを重ねてみるような視線に、和仁は小さな不快感を覚え、眉根を寄せて聞き返す。
「……何が言いたいんですか?」
「さて、何が言いたいんだかね。私は。敵に塩を送るような事を言って」
そういうと、小さく雄介は首を振った。その様子に、未だ不機嫌さを隠さずに和仁は言葉を返す。
「別に瑞葵のお父さんと敵対したつもりはないんですけどね」
「何、男親にとって娘につく男など、どんな男だろうと敵の様なものさ」
「そういうもの何ですかねぇ?」
「そういうものさ」
そういって言葉を切る。そして、切り替えるように朗らかな笑顔で、雄介は促すように言った。
「……さて、時間を取らせてすまなかったね。こんな時間に屋敷から出てくるということは、君にも用事があるのだろう?」
「あ、はい。じゃあ、失礼します」
「ああ、最後に一つ」
「はい?」
「娘が出すサインを見逃さないで欲しい。頼むよ三上君」
「サイン、ですか?」
「ああ。見逃してしまった男からのお願いさ」
そういうと、雄介は花壇へ再び歩いて行った。
先ほどまでの緊張感は嘘のように霧散している。
何を言いたかったのか、何がしたかったのか結局和仁には解らず、今度こそ屋敷を出て、山を下りて行った。
和仁が家の近くにまで戻って来たとき、既に周囲は暗闇に包まれかけていた。山の先ほどまで居たはずの山際に、夕日がその身を沈めていくのを振り返って見てみれば、ふと、慣れ親しんだ気配を身の側に感じ取った。
「なんですか師匠」
唐突にあらわれた気配に、驚いた様子を表出すわけでも無く自然体で、和仁はあらわれた気配にむかって話しかけると、その気配はあきれたように、ため息を一つついた。
「随分と余裕があるね」
「余裕ですか?」
「ん? 余裕と言うよりも気がついていなかっただけか。・・・・・・我が弟子の事ながら鈍いよね」
「・・・・・・鈍ったつもりはありませんが」
「やれやれ。そういうことを言っているつもりは無いよ。・・・・・・ま、あの子の方が上手だったと言うことか」
「あの子? 瑞葵の事ですか?」
そう言って師の方を振り返る。そこにはあきれた顔が夕日に照らされて、少しばかり赤く染まりながらその場にあった。
黒髪黒瞳。造り物めいたどこか、冷たさを感じさせる美女。瑞葵が戯れて成した少女の姿形から違和感を取り去って、理想的な成長を行わせればこうなるであろうという女性がその場に立っていた。その怜悧な美貌に苦笑と、幾分かの諦観を含ませて。
「・・・・・・まあ、男の子に女の子の気持ちを察しろという方が、また無茶か」
「それ、瑞葵のお父さんにも言われましたよ。そりゃ、女の子の気持ちなんてわかりはしませんが、瑞葵の内心くらい、ある程度つかんでるつもりですよ」
「そのくせに、その真意はつかめないのか。あれを好いたくせに、私を棄てて他の女に走ったくせに、情けないな」
「師匠」
「怒るな。茶目っ気だ。冗談だ」
表情をかけらも変化させずにそう言ってのけた自分の師に、和仁は毒気を抜かれてしまう。いつも通りに、そしていつも以上につかみ所が無い。武術の師事を受けているとき以外は、真顔で冗談を言う此の女性の性に、和仁はいつも翻弄されている。それを別に嫌だとは思わないが、普段の師の立ち居振る舞いを和仁は欠点だと思っている。
「うん。そろそろ日が暮れる。ここからあの子の場所まで全力で走って数十分。頑固親父を拳で説得するのに幾分か。お姫様を救い出すのにも数分。・・・・・・なら、そろそろ仕上げないと間に合わないね」
「は? 師匠。いったい何を?」
「うん? 言っただろう。仕上げだよ。仕上げ」
そう言いながら師は拳を軽く振って構えをとった。それに即応するように構えを取れたのは、間違いなく今まで鍛え上げてきた武芸の賜物だ。そんな自身の弟子の成長に頬を綻ばせながら、師の女性は緩やかに、そして苛烈に一陣の旋風へと化した。
初段の早さは慣らしの一撃だ。
だが、その威力は必殺を以て余りある。
受け流して尚手がしびれ、その余波だけで、先ほど斬られた頬の傷が開く。
慣らしを受け流し本命に備える。
感覚が加速し、音は小さく、なのに鮮明に聞き取れ、光の速度ですら感じ取れるかのような全能感。その感覚加速の中で、唯一普段と同じように動くのは互いのみだ。
風斬り、頸絶ちに来る一撃をかすかに体勢を沈ませるだけで回避して、沈み込んだその体勢をバネとして利用。そのまま師の頭をかちあげる。
だが、攻撃後の隙を抜いたにもかかわらず、師はすり抜けるように回避した。
打ち抜くそのタイミングで一瞬だけ後ろに身を反らす。その反動を利用して上半身を元に戻し、その勢いのままに勢いを失った右腕を折りに来る。
手首を回して打ち払う。と同時に奥襟をつかもうとした。
嫌な予感が背筋を冷やす。
下より迫る一撃。弾かれた際に放たれた一撃。弾かれることすら計算に入れて放たれたそれは、並みのブロックなら打ち砕き、そのまま肋骨を粉砕する程の威力を秘めている。まさしく達人が振るう一撃だ。
ならば、その一撃を見て取っただけで威力を察し、即座に飛びのいた和仁の眼力、技量もまた、達人のそれに比肩しうるものである。飛びのく際の回し蹴りが、軌道を変化させた師の一撃によって相殺されたことにより、その事実を一層引き立てる。
距離を取って呼吸を整える和仁。
かたや、彼の師は呼吸を乱すことなく、ただ見極めるように眼を細めてゆく。
「うん……よく、鍛えている」
「自画自賛っすか? 師匠」
「いや、君に対する称賛だよ。私は君の才覚を見誤っていた。間に合うかどうかぎりぎりだと自分をだましだまし、今まで教えて来たけど、結果として君はこれほどまでに余裕を持って間に合って見せた。その点においては私の不覚。誇っていいよカズ。私を見誤らせたのは、あの小兵以来だ」
そういって彼女は小さく笑って見せた。
感情を見せる事がほとんどない師の笑顔。それを見て和仁は小さく眉を跳ねあげた。武芸に触れている際は、基本的に感情のほぼすべてを隠し通す彼にとって、それは異例なことだったが、それほどまでに彼の驚愕は大きかったという事だろう。
「そりゃ、どうも」
「だから、君には全てを見せよう。君だけに見せるとっておきだ。あの小僧にもくれてやらなかった奥伝。ここで学んでいきなさい」
大気全てをつかみ取るように大きく手を一度だけまわして、後に合わせた。
鬼気が周囲を覆う。大気全てが師の覇気で覆われているかのような錯覚。殺意、敵意、それら全てを押しとどめて、ただ純粋な闘志のみが和仁を襲う。
並みの人間なら気を失う程の気迫を前に、和仁はただ呼吸を整えるだけで迎え撃つ。
これより放たれる技は奥伝。彼が知りえない秘奥中の秘奥。今までに彼がそれを見たことはない。故にどうしても体が震える事を止める事が出来ない。
武術家としての心が歓喜に打ち震えた。
唯我の構えを解いて独尊の構えに移る。
攻める事のみに特化した唯我の構えから、防御に特化した独尊の構え。拳を作らず、全てを抑え込み、受け流すための構えを持って、自らの師に相対する。
「風雨流 天塚夜月」
「師匠?」
不意に流派の名と、自身の名を宣言した師に問いを返すと、彼女は僅かに苦笑して、もう一度気配を締める。そこから飛ぶのは叱責だったが、そのうち半分は自身に向けたものだろう。苦笑が噛み殺せていなかった。
「名を名乗るんだよ。武門の礼儀だろう、たわけ」
そういって闘気を収束させていく師に小さく礼を返して、和仁は師に言われるがままに自らの流派を名乗る。
「風雨流 三上和仁」
それは師が彼を認めたが故に名乗れるものに他ならない。
和仁は知らないが、奥伝の伝承、武術の皆伝。その二つの意味を彼らの名乗りは意味する。正当なる後継者の証。そんな大事なことを彼の師はさらりとさせる。
今ここで、和仁は初めて流派の名を名乗る事を許され、そして夜月の名を知った。
彼が武門の道に入って12年。
その馴れ初めを既に和仁は覚えていない。
彼にとって武術とは、いつでもすぐそばにある物だった。故に……
「我が流派が奥伝。その全てを、君に見せよう」
闘気が高まる。
されど敵意も殺意も無く、ただ自身の全力を引きだすことだけに終始する。
それはこれまでの修行と全く同じく。そして、今回の修行に置いても変化なく。ただ、師が放つ絶招を受け切って完成とする。
心は沸き立つがごとく、吐く息全てに業火の火種が混じるかのようで。
なのに意識はただひたすらに冷えていく。思考は研ぎ澄まされる。刹那の瞬きも許さないほどに、世界が停止したかのようにすら感じられる。その極致に合って、ただ二人、向かい合う。
言葉は無粋。
ただ、己の技に込めた全霊が全てを語る。
山のふもと。
人の気配の無いその場所で、師弟の最後の時間が幕を開けた。
残された時間はわずか。残された技もまた同じく。
その全てを叩きこめば、それで彼女の役割は終わり
。
その全てを刻みこめば、それでやはり彼の役目も終わり。
節目の時。
終わりの始まり。
全てが、定められたレールの上を疾駆するがごとく、一つへと集結していく。
それが定め。それが運命。それが神話。
それでも、と、師である彼女はかすかに思う。
それでも、今の関係を少しでも味わっていたいと……
そんな、馬鹿馬鹿しい考えは、砕けて消えた。
陽が落ちるまであとわずか。
これより先は師は無粋。
何せこれから先は、吸血鬼の時間だ。