序
三章の開幕です。
よろしくお願いします。
全力で疾駆する。
朝のさわやかな時間を全て無駄にするかのように、汗を滝のように流しながら、木々を踏んで全力で和仁は山を駆け下りていた。背に負う少女は彼の愛する少女。赤霧瑞葵。和仁の背に顔を埋めるような体制で彼女は必死に彼に掴っていた。
「あのさぁ!! お前なんで俺が屋敷に着いたとき、まだ寝てたんだよ!?」
「仕方ないでしょう。あのメイド、自分は学校に行かなくてもいいからって、私の事を起こす気がまるでないんだから……」
「今まで、普通に起きてたじゃないか!!」
「起こしてくれと頼んでおいて、当然の様に無視されるとは流石に思って無かったのよ。一応雇い主だというのに、雇い主に対して一切の敬意を見せないあたり流石よね、貴方の師匠」
「え、エキセントリックなだけだから」
完全に声が震えた和仁に対して、瑞葵は体を更に彼に寄せる事で答えとした。
むにゅりと何かが潰れる感触が和仁の背に押し付けられる。らしからぬスキンシップにちらりと目線を瑞葵に向けると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「師匠の瑕疵は弟子が修める。当然よね?」
「……わかってるよ」
そう言って、和仁は更に足を速めた。
現在時刻は7時32分と少しを回ったところ。
彼らの通う学校まで直線距離で30キロに満たず。
間に合うはずのない距離を全力で疾駆する。
無茶無謀は言うまでも無く。
されど、彼のその身は人ならざる者をして、慮外の領域にある。
間に合わぬはずなど……
「それで、結局遅刻かい?」
「やかましい。一限の途中で飛び込めたあたり俺の健脚を褒め称えろよ」
「そもそも毎日赤霧さんを迎えに行く君が悪いんじゃないか。彼女の事を放っておけば、君が学校に遅刻する理由は無くなるのに」
一限目を半分死んだような状況で受けた休憩時間。
和仁は机に突っ伏して疲れを吐き出していた。
そんな彼に話しかけてきたのが、彼の右隣の席に座っている少年だった。
いや、少年と呼ぶには語弊があるか。何せ肉体的には完全に女性である。如何にその身に男子学生用を纏おうと、その肉体的特徴を隠し通す事は出来ない。如何にその言葉遣いを男性のそれに合わせようと、その声の高さは男性的ではない。
それでも、彼女は自身を男性と定義している、そういう少女。
名を、織宮肇。
和仁の数少ない友人である。
「そうは言うがな、俺だって好きで迎えに……行っているわけだが、それでも言い訳位はあるかもしれないだろ?」
「言い訳と言っている時点でナンセンスだ。人の恋人を悪く言いたくは無いけど、赤霧さんは良くはない」
「ああ、知ってる。お前より遥かにな」
「そうか。なら、これ以上深くは言わないが……別れる決断は早めにな。フリーになったら教えてくれ」
「なに? お前、俺と付き合いたいの? 残念だけど、ホモは駄目です」
「ばっか。あの美人さん、フリーなら口説かないわけなだろ?」
らしい言い草に和仁は苦笑した。
それと同時にチャイムが鳴る。二限目の授業は何だっけとクラスの隅っこに貼ってある時間割を探すと、隣から肇が和仁に伝えた。
「次、歴史ね」
「昼寝タイムか」
「真面目に受けろよ。それじゃあ、何のために学校来てるのかわかんないぞ? まじで、赤霧さんの送り迎えだけか?」
「否定はできないかもなぁ」
ちなみに和仁が寝ない授業は技術、家庭科、体育位なものである。それで、全く赤点を取らないあたり、もしかしてこいつは天才の類なんじゃないかと、肇は考えたことがあったが、彼の言葉を聞いてそれを間違いだと思いなおしたことがあった。
「前の奴の動きを見れば、書いてる文字位読み取れるのでセーフ」
「それをカンニングと言うんだよ、馬鹿」
「でも、絶対に証明できないカンニングは技術ではないだろうか?」
「一理はあるけど、勉学という意味では間違っている。勉強はテストの点を取るためにやるんじゃなくて、あくまで自分の学力を高めるためにやるものだ。テストはあくまで自分の実力の確認だろう? カンニングしてて意味がない」
「能力値を図るって意味なら、俺の観察眼だって考慮してくれてもいいじゃないか」
「それを、行かせる職に就くならそれでいいと思うけど、君は将来そんな職に就くのかい?」
「将来……ねぇ」
「そろそろ考え始めなよ。高校生。まだまだ子供と言っても、大人に成るまでの時間はあまり残されていない時分ではある。僕だって、そろそろ折り合いを着けなきゃならないしね」
寂しそうにそういった肇の横顔には、憂いは見える。
だが、それに突っ込むようなことを和仁はしなかった。
歴史を受け持つ教師が教室へ入ってきたのも、もちろんその理由の一つだったが、何より彼女の横顔に不吉なものを感じ取ったためだ。それだけではあるが、彼女の抱える問題の根の深さが、この場で問いただしていい様なものではないことを和仁は理解していた。
「放課後、時間はあるのか?」
「ほんと、普段は鈍いのに、こういう事ばかり鋭いんだから」
「茶化すなよ。それで、答えは?」
「あるよ」
「なら、放課後はお前に付き合うよ。何を抱えた? それとも、何を捨てたのか、久々に友人同士の語らいといこうや」
「うん。楽しみにしてる」
そういいながら、肇は次の授業の為の教科書を机の中から取り出した。
それを横目で見ながら、和仁は再び机に突っ伏して、お昼寝の態勢になる。
「ああ、赤霧さんは遠慮させてくれよ? 男同士の語らいに」
「女子は不要ってか? 解ったよ、昼休みにでも伝えて置くさ」
肇の言葉にそう返して、和仁は瞼を閉じた。
瑞葵は納得してくれるのかという不安はあるが、催眠音波よりも確実に彼を眠りに誘う歴史教師の声の誘惑に勝てるはずも、勝つ気さえなく、深い眠りの底へと落ちて行った。
そして、昼休み
「当然認めない」
「えー」
学校の屋上。
本来なら生徒立ち入り禁止の場所で、当然のように弁当を広げながら、今日の予定を瑞葵に告げた和仁だったが、彼女は彼の言葉を聞くなりにっこりと笑って、先の通りの答えを返した。にこやかな笑みだが、目は全く笑っていない。漏れ出る鬼気が目に見えるようだ。
「って、抑えろ、なんか見えるぞ」
「っと、私としたことが、ちょっとばかり強く魔力が漏れちゃったわ」
「魔力って漏れても大丈夫なのか? 人体に影響ない?」
「大丈夫よ。魔力なんて言い方をしているけど、東洋風に、あるいは貴方達武人風に言えば、これ氣だもの。精神由来か肉体由来かの違いはあれどね。そして大気中にも幾らかの魔力はある。普段から多かれ少なかれ浴びているものだから、この位漏れても問題ないわ」
「コンクリの床黒ずんだけど?」
「直下だったから、少し派手に染まっただけ。見た目以外に問題はないわ」
瑞葵はそういうが体には悪そうだ。
そんな感想を和仁は抱いた。そんな彼を瑞葵は目で制した。
これ以上は問い詰めても答えないだろう。目に見える被害はなさそうだし、これ以上空気を悪くする必要も無い。そう割り切ると彼は手に持った弁当に箸を伸ばした。
「それで?」
「それでって?」
「惚けないの和仁。あなた、織宮さんと出かける気なんでしょう? 二人きりで、仲睦まじく」
「気持ちの悪い言い方をするな。あれは男だ」
「見た目はどう見ても女。性別だってどう見ても女。その中身だって男と言い張っているのは彼女だけ。どうして恋人の私が二人きりを許すと思えるのか、私には理解できないわ。同席位させてほしい。そう思うのは当然でしょう?」
「あいつにはあいつの事情があるんだろうさ。お前がいたら話せない。その気持ちは俺にもよくわかるからな」
「呆れた彼氏さんね貴方。直接言わないとわかってくれないの? 私、嫉妬しているの。それとも懇願しなければ、頷いてくれないのかしら。どうか、私を捨ててあの人と二人きりになんてならないでって」
瑞葵の言葉に和仁は頬を掻いた。
そして、進めていた箸を一旦おいて、瑞葵に向き直る。
いつもの余裕めかした表情。なのに、口元が僅かにゆがんでいる。その感情を読み取ることは和仁にはできなかったが、いつもと違う雰囲気が和仁の口を重くした。
それでもだ。
それでも、和仁は肇と約束している。
男同士の語らい。男同士の約束に嘘を突く事は出来ない。だから……彼女を泣かすことを承知の上で、和仁は言うしかなかった。
「悪い。それでも、俺、あいつの友達だから」
「向こうは、そう思って無いかもしれないのに? あなたみたいな単純な人、すぐ女の子に騙されるんだから……」
「あいつの事を女の子扱いしてほしくはないけど、例えばもし俺があいつに騙されたとして……それでも、ほら思っちまったんだから、仕方ないよな?」
「……聞きたくないけど、聞いてあげる? どう思ったの?」
「あいつになら、騙されても、仕方がないってさ」
それは和仁だけが思っている事なのかもしれない。
だけど、彼はその思いを自分でも驚くほど大事にしていたらしい。
それは、彼に友人が少ないことも関係しているだろう。だけど、少ないながらにその関係は深い。少なくとも、騙されたとき、あいつに騙されたのなら仕方がないと、あきらめがつく程度には、彼は友人の事を大事にしていた。
「それは、恋人よりも大事なのね?」
「方向性が違うってことさ」
そういって、和仁は瑞葵の頭を撫でた。
嫌がるそぶりさえ見せず、和仁の手を受け入れる彼女に、彼は少し頬が熱くなりかけていることを感じ取った。恥ずかしいことをやっている自覚。それが顔に出る前に手を引っ込める。そして再び弁当へと取りかかった。
「……早く帰ってきなさいよ。今日は貴方の好きなカレーにしてあげるから」
「昼も晩も悪いね」
「別に、どうせもうすぐ朝も一緒になるんだし。練習よ、これくらい」
常の冷静さを取り戻した風に瑞葵はそういって、自身の発言がいかに恥ずかしいのかに思い至って今度は顔を逸らした。耳まで真っ赤にしている彼女を見て、和仁は久々に思う。
「相変わらず、かわいいよな、お前」
「うるさいな。知っているわよ」
冷徹、冷静、その悪魔的美貌。勉学優秀。運動神経抜群。そして、深窓の令嬢。誰もが羨む層素を、彼女は高いレベルで保有している。
それら故に、彼女はこの学校で孤立している。
いや、孤立というのは間違いか。
彼女は孤立しているのではなく、ただただ孤高なのだ。
他の何かを必要としない程に、彼女は強く完成しているが故に他者を求めようとしない。それが傲慢さとなって、見えない境界線を彼女の周りに引いているのだろう。そしてそれを彼女は是としている。しかし……
「瑞葵。友達は出来たか? 飯はありがたく頂くけどさ、友人の一人や二人、作っとかないと、卒業した後しんどいぞ?」
「必要ないわ。外にたくさんいるもの」
「お前の地位と身分を知らない友人ってのも、俺は作ってほしいんだけどな」
「その地位に、貴方がいるのでしょう? なら、他には……」
そう言って瑞葵は和仁に肩を預けた。
弁当は食べ終わっていたから、特に邪魔だとは感じないが、彼女のその在り方に対して和仁は危惧を覚えていた。最近知り合った天狗の少女が、あるいは自ら武芸の師が、その在り方を変えてくれないかと期待しいるが、どちらも変わらないことを肯定する妖怪だ。変えてくれと願うには少し向かない。
依存には遠いが、独占欲には過ぎている。
断絶はしていないが、溝を開けてはいる。
日の下に長く出れない時は目をつぶっていた。普通の交流を望むべくは無かったから。しかし、今なら……
「ま、それも含めて、要相談かね」
コミュニティを築く能力という意味では織宮肇という奴は、この学園でもトップクラスだ。その優れた美貌、そして障害ともいわれてしまう性格の在り方が前提に会ってなお、多くの友人がいる。八方美人という訳ではなく。誰かに肩入れするでもなく。男子に媚びるでも、女子に諂うでも無く。クラスの中心に収まっているのは、彼女の才能と呼ぶしかない。あの才能を和仁は持っていない。瑞葵など言うまでもない。
だから、肇が瑞葵の友人になってくれればと、最初は思ったのだが……
「和仁?」
「何でもない」
「そう」
この二人、どうしてかとても相性が悪いのだ。そんな二人を無理やり友人には和仁は出来なかった。
だが触れ合う温もりの中に感じる危うさを、和仁はどうにかしたいと思っていた。
もうすぐ、チャイムが鳴る。
昼休みが終われば今日は六限目の授業で終わり。となれば、放課後までさほど間がない。
瑞葵の事、肇の事思いをはせるべき内容は多く……故に彼は思うのだった。
この状態で授業の事をまで考えろってのは無茶だよな。
もちろん。そんなことはない。




