序
5年位前に書いた作品です。
お蔵入りしておくのももったいないので、改稿して投稿します。
楽しんでいただけたら。
ちなみに、完結しているのでチェック終わり次第、随時投稿します。
呻くような暑さが身を包む。
吐く息すら肺を焼くかのような感覚に、うんざりしながら登り道を登り続けていた。
額を伝う汗はそれこそ滝の様である。何度ぬぐっても次から次へと流れ落ちるそれを、飽きることなくぬぐい続ける。拭ったタオルの不快感に顔をしかめた。
周囲に民家の影もない山の中。
舗装されている道路なのに通る車は一台もない。
ド田舎。というよりもただ単純に山奥なだけだと、歩いている少年、三上和仁はそう思った。
ミンミンとセミの鳴き続ける声が聞こえる。それが一層暑さを引き立てているようで、和仁は嫌になったが、それでも最早日課にも近しい頻度で登る山道を、ただ淡々と歩いている。
ふと、彼が視界を上げると、無限に続くかと思われた坂道は、遂にその先に蒼い空を映しだしていた。雲ひとつない、快晴だった。普段なら、もしくは海水浴にでも行く日ならば頬を綻ばせるであろうその天気も、山を登っている間はただひたすらに恨めしい物でしかなかったが、こうやって登りきって見れば、成程、なかなかどうして心地いいものだ。
そんな、勝手な自分の感想を自分自身で苦笑しながら、坂から見下ろす場所にぽつんと立っている屋敷を見下ろしながら思う。そしてもう一度汗をぬぐって、再び目的地の屋敷に歩み寄る。
一歩近付くだけで。少しばかり奇妙な屋敷だと思う。
二歩近付けば、その違和感の正体に気がつく。
そして門の近くにまで至れば、その異様さにしばらく言葉を失う。
それほどまでにその屋敷は大きかった。
大きな、洋風の屋敷。
最早城と呼んだ方が近いのではないかというほどに大きなその屋敷は、生憎だが周囲の風景と調和していない。自然破壊の権化のような威風を持っている。なのにご近所で噂になるでもなく、ホラースポットにでもなるでなく、ごく普通に受け入れられていた。
その事について館の住人に訪ねれば、その住人は小さく苦笑して言葉を濁した。その意味を和仁は知らない。が、何にせよ碌でもない事だろうと辺りをつけていた。その程度には、この館の主たる少女の事を理解しているつもりだったし、事実としてこの館の主は、性格の悪い奴でもあった。
屋敷の門に手を触れる。
重厚な鉄の門扉。夏の日差しに照らされてなお、ほんのりと冷たく感じるその扉を軽く力を込めて押し込むと、その厚さに見合わぬ手応えと共に扉が開いて行く。軋むような音が聞こえるというのに、その手応えの軽さが妙に不気味ではあるが、慣れとは恐ろしいものだ。和仁は特に気にした風もなく、先ほどと変わらない歩調で屋敷の敷地内へと入って行った。
同時に、屋敷の玄関。その扉がゆっくりと開く。
中から現れたのはこの日本において、まず目にすることはないであろう人種、メイドだった。そのメイドを見て、和仁は僅かに目を細めた。
「お待ちしておりました和仁様。お嬢様がお待ちです」
「……ん、ああ。ありがとう」
「ご案内いたしますのでこちらへどうぞ」
見慣れないメイドの少女。
その容姿は美しいと呼ぶに足る。
まさしくもって鴉の濡れ羽色と呼ぶにふさわしい艶やかな黒髪は腰まで延ばされ、僅かに吹く風を捉えて毛先だけかすかに揺れ動く。大きな瞳は黒曜石にも似た輝きをたたえ、どこか吸い込まれそうなほどに深い。色は白く、日に焼けた痕跡すら見出すことはできず、メイドをやっているようには見えない。それこそ、深窓のお嬢様、と紹介された方が、遥かに納得するだろう。
その少女が先導するように歩きだす。
それに僅かに遅れて和仁も、彼女について行った。
無言が二人の少年少女の間を支配する。
重苦しい空気と言い換えても良かったが、その空気を和仁はあえて無視した。
「こちらで、お嬢様がお待ちです」
「ああ。どうも」
言って躊躇うことなく部屋のノブに手をかける。そして開ける前にここまで案内してくれた少女の方へと視線をやって一言。
「それと、そんな風にお嬢様っぽいふるまいもできたんだな。驚きだよ瑞葵」
その言葉に、メイド服の少女は先ほどまでの大和撫子の見本めいた笑みを、妖気香る、嘲りに似た微笑に変化させた。
「……ふん。つまらないわ和仁。少しくらいは驚いてくれてもいいのに」
「いや、驚いたさ。だけど、それよりも遥かに笑いの方が勝ってな。かみ殺すのに必死だったよ」
「嫌な人。本当に嫌な人ね。……それで、いつから気付いてたの?」
「いつからも何も、最初からだ。お前、流石に武術屋の感覚舐めすぎだって。容姿を変えようと、体つきを変えようと、呼吸と気配で気がつくさ。見た瞬間にな」
「そう。それは無駄な事をしたわ。今度からは気配と呼吸感覚もいじっておきましょう」
言って、指を軽く鳴らす。
すると、瞬きの間に黒髪黒眼の少女は金髪蒼眼へと変化した。
スレンダーだった体系も、見る間に成熟した妖艶と呼ぶにふさわしいそれに代わっていく。
後に残ったのは先ほどまでのメイドの少女と対極に位置するような容姿の少女だった。
対極というよりも、同じ究極における別解答と呼ぶべき容姿の少女。人間の姿形に解答例をあげるとするならば、目の前の少女こそがその解だ。
長い金髪は黄金を溶かしてそのまま糸に束ねたかのようで、蒼い瞳は何もかもを見透かすのではないかと錯覚するほどに透明で、同時に深い色を湛えている。その肌は、特上のシルクすらもくすんで見えるのではないかという程に、白くそしてきめ細やかだ。
彼女の名を、赤霧瑞葵。どこからどう見ても日本人には見えない、正真正銘の日本人である。
「それで、一体何の用なんだ?」
瑞葵の部屋に通され、彼女自身の手で入れられた紅茶をがぶがぶと続けざまに三杯飲みほして、ついでと言わんばかりにクッキーに手を伸ばしながら和仁はそう聞いた。
そんな和仁の傍若無人な態度に眉をひそめることすらなく、瑞葵はテーブルの対面で優雅にカップに口をつけた。そしてその口を付けたカップを無造作に和仁に向かって投げ渡した。
当然。カップの紅茶は宙空にぶちまけられたが、その中身を見事に和仁は投げ渡されたカップで掬いあげて見せた。一滴さえ零さないその絶技を見て瑞葵は目を細めた。
「……冷たいのが呑みたいなら最初からそうしろよ」
「馬鹿ね。そういうのじゃないわ。いつものように、献血を願ったのよ」
「だったら、口で言え。たく……。くそ暑い中で余計な運動させるなっての」
そういって和仁は瑞葵に向かってカップを放り投げた。無造作に投げたように見せたそれは、寸分の狂いなく当然のように瑞葵の前に収まった。それを無視して、瑞葵は身を乗り出した。
「献血は?」
「解ったよ」
言った瞬間、瑞葵が和仁の科に向かって手を伸ばす。それを彼は嫌がるそぶりもなく受け入れる。
瑞葵の指が和仁の頬をなぞるように動いた。
その指の軌跡に僅かに遅れて赤い血液が滴り落ちる。
それを瑞葵は小指でからめ捕ると、掌で軽く弄ぶように揺れ動かし、そのまま紅茶へと滴らせた。紅く波紋が広がる。そしてその波紋が収まるころには、瑞葵は既に先ほどの体勢に戻っている。また、その頃には和仁の頬の傷跡は跡形もなく消え去っていた。
「……相変わらず便利だな。それ」
「そうでもないわよ。これくらいの事なら絆創膏と注射器があればできるし」
そう言いながら冷めた紅茶に口を付ける瑞葵。その頬はいつもの皮肉めいた微笑ではなく、純粋な笑みを形作っている。口に合ったらしい。
「それで、何の用だよ。これでも俺は忙しいんだ。まさか、お茶がしたくて呼んだわけじゃないんだろう?」
「ホントせっかちね。もう少しゆっくりと会話を楽しむ事を覚えたら?」
「急いでると言っただろう。今日は師匠にも呼び出しをくらってるんだ。待たせるわけにはいかないんだよ。うちの師匠。怒ると容赦ないのは、お前だって知ってるじゃないか。用事が終わった後……そうだな、夜ならもうちょい相手してやれるぜ」
「……吸血鬼を夜遊びに誘うのはあなたくらいのものよ和仁」
「別にいいだろ。吸血鬼と夜遊んじゃいけません。なんて、学校で習ってないしな」
和仁の言葉に瑞葵は苦笑を返した。そしてもう一度カップに口を軽くつけて、そのままテーブルの上に置いた。カチャリと陶器が触れ合う音がした。その音が鳴りやんだころに、瑞葵はゆっくりと口を開く。
「しばらく、ここには来ないでくれないかな、和仁」
「それはまた、随分と急な話だな。それで、その理由は?」
「知らない。でもまあ、どうせ碌でもないことよ」
「知らないのに碌でもないのか?」
「ええ。何せお父様からのご命令ですもの。碌でもない事に決まっているわ」
そう言いきると、瑞葵は窓辺に近付いて、カーテンを開いた。薄暗い部屋の中に急に光が取りこまれ、一瞬。和仁の眼がくらむ。そして同時に、現状を認識して乱暴に立ち上がった。
派手な音がして椅子が倒れ込む。
その事を一切気にすることなく、駆け出そうとして、
「大丈夫よ和仁」
瑞葵の言葉によってその動きを急停止させた。
「……大丈夫ってお前」
「大丈夫よ。ほら、灰になっているように見える?」
言いながら瑞葵はその場で一回転をして見せた。
長い金髪がその回転に合わせてたなびき、日光を反射してその輝きを増している。
息をのむほどに美しい光景だった。
だが、和仁が息をのんだのはその光景故にではなく。
吸血鬼の少女が。
太陽の光に触れて焼け焦げ、灰へと還るはずの少女が。
それ故に閉じ込められていた少女が、あまりにもあっさりとその前提を覆した現状故にだった。
「……お前、いつから?」
「さあ? いつからかな。結構前から、こうだった気もするけど……」
「そうか。……いや、でも、それはめでたい事なんじゃないのか?」
「さてね。お父様の考えていることなんて解らないわ。ただ、しばらく人と会うことを禁じる。それがお父様の決定。これでも、一族の決定には従順なのよ私」
今更言われずともそんなことは知っている。普段奔放にふるまう瑞葵だが、その奔放さも、あくまで定められた枠組みの中の奔放さだ。人として常識にかけているところもあるが、それもこの屋敷から出る事を許されていないが故の非常識。許されていない事をかたくなに拒み続ける程に、彼女の中の掟は厳しい。頑固、というよりは、掟に逆らうという感情自体が存在しないかのように。彼女は自らの意思で、この閉じられた檻の中から出ようとしない。それが、運命であると諦めているかのごとく。
その在り方が、和仁は好きじゃない。
直球に言ってしまえば嫌いだ。
空を舞う鳥が空の広さを知る事もなく、海を泳ぐ魚が海の深さを知る事のない、そんな様は彼女に似合わないと和仁は切に思う。だが、
「まあ、解ったよ。じゃあ、しばらく俺はお前に近づかない。必要があったらまた適当に呼べ。俺は携帯は持ってないけど、蝙蝠飛ばすなり手段はあるんだろう?」
「……ええ。ありがとう和仁。愛してる」
「はは。いつも通りに適当な言葉をありがとう。だが、あんまりそういう事を言うもんじゃない。いつか、本気にするぜ?」
「ふふ、鬼を御せるようになってから出直してきて欲しいものね、和仁」
そう言って笑う少女の微笑は、普段のシニカルなそれとまるで違う。透き通っていて、ひどく儚く見える。その笑顔に和仁の心は小さく脈を挙げて、それでもそんな事をおくびに出す事もなく、部屋の入口へと踵を返した。
蝉の鳴き声がとたん耳を覆う。
うるさいぐらいの蝉しぐれは普段よりも大きく、強く聞こえて。
だからこの胸の鼓動は聞こえない。
聞こえなかった事にして、その場を立ち去って行った。
「それで、お前の心をくれるのならいつでも……」
そして聞こえないことを願う。
とてもうるさい蝉の声に紛れることを願って。だが、本心ではきっと届いてくれることを願って。いつかきっと、話してくれることを願って。
季節は日が燃える夏の真ん中。
茹るような熱が、頬を染める。そんなある日中の話。