唾でも塗っとけばいずれ治るらしい
肌を刺す真冬の冷たい空気から、逃げるように入ったお洒落な喫茶店。
窓際の席から覗ける街並みは、昨晩降った雪がうっすらと積もり、陽光を浴びてきらきらと輝いている。
落ち着いた色調の店内に流れるBGMは、よく知らないけれど心落ち着くクラシック音楽だ。
そんな、僕らのようなごく普通の高校生カップルには勿体ないくらいにロマンチックな雰囲気の中で。
――わかれよう。
そう言われた。
〈唾でも塗っとけばいずれ治るらしい〉
翌日、僕は学校を休んだ。
フラれて間もないうちに彼女と学校で顔を合わせたくなかったし、友人に茶化されるのも嫌だったから。
自宅のベッドに寝そべって、もう何度めかもわからない溜息を吐く。二酸化炭素と一緒に、身体の内側の精気も抜け出ていくような感覚。
「あー……なんでフラれたんだろ、僕」
夜中の間ずっと考えていた自問を改めて呟く。納得のいく答えは未だ見当たらない。
正直、最悪のタイミングだったと思う。
昨年の夏休み明けに彼女から告白されて、キスは幾度かしたけれど、交わったのは一度だけ。……それが原因だったとは、あまり考えたくない。
午後の授業をサボってふたりでカラオケに行ったりした。クリスマスイヴは、生まれて初めて女子と過ごした。来週のバレンタインデーでは、どんなチョコをもらえるだろう――なんて、興奮気味に妄想もしていたところだ。
そしてその次の春、夏、秋、冬……幸せばかりの未来を頭に思い描いていた。楽しいことしか視界に映らなかった。
そんなときに、別れ話を切り出された。
「いっそ死にたいかも……」
一切の前触れなく天国から地獄に突き落とされた気分だった。
どうして今だったんだろう。最初から僕を絶望させようと仕組まれていたのかとまで勘繰ってしまう。
ふと、枕元のスマホを手に取って、彼女とのメールの履歴をぼんやりと眺めてみた。
気恥ずかしくなるような、カラフルな絵文字や顔文字。思えば会ってもメールでも、僕たちは一回も喧嘩をしていなかった。少なくとも僕は、彼女と話して気分を悪くすることはなかったから。
何気のない、代わり映えもないふたりの日常。もしかしたら彼女には、少し退屈だったのかもしれない。
「……でも、勝手な話だよな」
脳裏に彼女の姿を浮かべ、唇を尖らせる。
放課後の教室で「ずっと好きだったの」と告げられた。つきあってほしいと頭を下げられ、異性に縁のなかった僕はふたつ返事に快諾した。そして昨日、告白から半年も待たずに彼女にフラれた。理由だって聞かされていない。
――そうだ。考えてみると理不尽な話じゃないか。苛立ちが募り、半ば無意識に両足をばたつかせた。ベッドの角に踵をぶつけてしまい、しばし痛みに悶絶する。
「くっそ……」
そんなにも鬱屈とした気分なのに、彼女を恨むことは、胸にこびりついた未練が邪魔をする。
やり場のない怒りとか悲しみを振り払いたくて、今度は少し控えめに足を動かす。けれど、いつまで経っても胸の暗雲は晴れず、むしろその勢いを増すばかりだった。
「ああああああもう! なんなんだよお!」
叫びながらベッドを転がってみても、状況は変わらない。
よくテレビやネットで「恋愛ごとでできた傷を癒すには、新しい恋を探せ」と言うけれど、その“新しい恋”を探す気力がない人間はどうするのだろう。ずっとむしゃくしゃした状態で生涯を過ごせって言うのか。
枕に顔全体を押しつけて呻いていると、スマホに着信がきた。
ほんの一瞬だけ彼女を期待して飛びつき、すぐに落胆する。クラスの男友達からのメールだった。ちらと時刻を確かめると、もう学校では昼休みの時間だ。
『今日いないけどどうしたん?』
そういえば、教師にも欠席の連絡を入れてなかったな。母親に、熱が出て頭痛もすると嘘を吹いたくらいだ。
少し考えてから、適当に文字を打ち込む。
『風邪』
数分と待たずに返信が来た。
『ふーん……
嘘つけ
おまえフラれただろ( ・´ー・`)』
思わずスマホを壁に投げつけた。存外鈍い音がして床に落っこちる。流石に慌てて拾い上げると、幸い目立った傷はないみたいだ。
ちくしょう、明日学校で覚えてろよ、と毒づいて――不意に、明日は学校へ行こうと考えていた自分に驚いた。
さっきまで、まるで世界の終焉にでも遭遇したくらいの絶望感に苛まれていたのに、そのことはすっかり頭から抜け落ちていた。
「……なんだ、意外と大したことないじゃん、フラれるなんて」
拍子抜けしたように呟くと、自然と口角が持ち上がった。
新しい恋を探せとか、過去は全部捨てろとか、そんなの必要なかった。無駄に難しく考えなくてよかったんだ。
もちろん明日彼女と出くわしたりしたら複雑な心境になるだろうが、それだけだ。過剰に沈み込んで引きこもっていても仕方ない。
そう気づかせてくれた友人には感謝だが、それとこれとは話が別だ。教室に入ったらまず一発ぶん殴ってやる。
――まあいい、とりあえず昼飯にしよう。気晴らしにラーメン屋でも行くのも悪くないかな。
鼻歌混じりに起き上がって壁にかけてあるダウンを着込み、僕は部屋の扉を開けた。
読んでいただきありがとうございます!
作中で主人公は「正直、最悪のタイミングだった」と愚痴っていますが、たぶん男はいつフラれても同じように考えると思います。
そろそろ「女々しい」と「雄々しい」は言葉の意味を交換するべきですよね。
同じような立場の女の子が主役のお話とかあったら読んでみたいなあ。