三十九話
義秀は尾張攻めを順調に進めていた。
清洲城を包囲しつつ、伊勢へと繋がる街道を封鎖し、救援が来れない状況を作り出し、降伏させた。
尾張は織田のかつての本拠地だけあって抵抗運動が活発だった。
しかし、商業地である津島が今川に寝返った事で一気に沈静化していった。
一方の美濃は難航した。
岐阜城がどうやっても落ちない。
現在の城主は安藤伊賀守。
近江からの援軍がくる前に落としたいが、どうにもならない。
尾張を平定した義秀が合流し、五万近い大軍で包囲するも降伏勧告には従わない。
ならばと。
城の構造を把握している義秀は長期の兵糧攻めへと切り替えた。
山頂にある岐阜城は水も不足するし、米も収入がない。
籠城には不向きな城だった。
今の今まで難攻不落の名城とされてきたのは、斎藤道三の手腕が素晴らしいものだったと再度改めて認識させられる。
それでも、油断は禁物。
蟻にだって噛まれたら痛いのだ。
「殿。
悠長に構えていては、織田の援軍が来ます」
瀬名氏詮が進言した。
全く同じことを皆が思っているだろう。
「そうだな。
待っているのだよ。
織田と今川。
どちらが上かを決めねばならん」
織田信長は美濃への救援の軍を出した。
自らではなく、先遣隊として滝川一益を大将としてだ。
自分は京都で義昭を監禁し、朝倉浅井攻略の案を練っている。
「殿。
親征なさらないのですか」
最近家臣として加わった明智光秀が一つ訊ねる。
周囲には羽柴藤吉郎、丹羽長秀、柴田勝家といった重臣しかいない。
これが示す所は織田家の主力が京に集まっているという事。
近々総力戦がある。
「その方らには言うが、今川と戦いたくはない。
確実に負ける」
「何を弱気な事を仰るのですか」
光秀が嗜めるが信長は首を振る。
「お前は知らんのだ。
あいつは今川義元だけではない、武田信玄、北条氏康もが認めた傑物だ。
そんな男が五万もの兵を連れてやってきている。
我が方が今、美濃に向かわせられるのは一万が限度。
それ以上を出しては、京を奪われる。
講和だ。
早く講和をせねばならん!」
信長はバンと机が割れそうなほど強く叩く。
義秀も和睦を望んでいた。
口では京を目指すと言いつつも、避ける方法を模索している。
しかし、和睦の使者が幾度か訪れるがいずれにも会わずに追い返している。
最も自分に有利な条件での講和。
美濃を制した後に停戦するのが良い。
「国親、安藤伊賀はまだ降伏しないつもりなのか」
「そうでしょう。
殿を毛嫌いしているようですし」
「全く。
いつの間にそんなに嫌われたのやら」
地図上の駒を動かしながら、国親との会話を楽しむ。
義秀の袖から見える白い手が黒い碁石を掴む様子がどうにも艶かしい。
「よし、この通りに布陣させろ。
中の兵糧もそろそろ無くなるだろう。
そろそろケリをつける。
援軍が来ているという話もある事だしな。
まずは、この矢文だ」
置いてあった文を国親に渡す。
「これと同じものを百作り、城内に」
「はい」
その後で決着だ。
しかし、噂によれば織田の援軍は織田信長が軍を引き連れてやってくるらしい。
その数は3万に達するとかしないとか。
それまでに岐阜を落としてしまいたい。
総力戦をすれば、こちらの計画に大幅なズレが生じてしまう。
被害は少なく、美しく勝つ。
目を閉じて、その時を待っている。
策は万全。
後は、獲物を待つのみ。
詳細な敵軍情報が手中にないのは恐ろしいが、ある程度は予想がつく。
繊維を一本一本組み込んで行けば、布が出来上がるように。
情報を重ねて、考え、敵を予測する。
織田上総介がどう考え、どう動くのか。
俺が彼の状況にあったらどの駒を動かして、局面を切り替えるのか。
今更ながら、彼の窮地を思っては少々同情する。
包囲網の中で一番の脅威であるのが今川。
その今川の当主は自分。
一応は目的を共にする同志であったはずなのに、こうして彼を追い詰める一手となるとは皮肉だ。
増してや、織田が飾った足利将軍の義昭の盤上に居ると思うと吐き気がする。
人の思惑を壊すのはとても楽しい。
だからと言って、家の方針を変えるわけにもいかない。
これは俺からの試練だ。
織田上総介が王手をかけられた状況からどう切り返すのか。
その答え次第で俺の動きは変わる。
滅ぼすか再度同盟を結ぶか
思考の世界に沈んでいた義秀を国親が肩を叩いて引き上げる。
「布陣が完了致しました」
それを聞いて気が昂ぶったのか頬が僅かに紅潮している。
「矢文は?」
「既に城内に」
「よろしい。
では、太鼓を鳴らせ。
これで美濃は終わりだ」
太鼓の音が戦場に響き渡り、一気に戦況が動く。
この瞬間、包囲していた軍勢が、岐阜城内の兵が、そして織田の援軍も動いた。
岐阜城から援軍に向けて文を届く。
未だ城は健在。
援軍と挟み撃ちにすべし。
織田の援軍の指揮官である滝川一益は兵数で劣る現状を嘆きながらも、背後を突かんと馬を走らせる。
岐阜は不落。
今ならば、今川を破れるやもしれない。
僅かに見えてきた光明に向かって駆ける駆ける。
織田の天下のために。
今川の総大将である今川治部大輔は一人笑う。
腹を抱えて、息も絶え絶えに笑い続ける。
先ほどの吐血で少しばかり汚れた袖を天に掲げて、恍惚の表情を浮かべている。
ここ最近、肌は白くなり、体重も減り、咳も酷くなっている。
時折、血の混じったものまで出る。
しかし、その目にはいつになく強い光が灯っていた。
「まさか俺が労咳にかかるとは。
だが、不思議なものだ。
かつて、今ほど頭が冴えている時はなかった。
今ならば、天を一つにできよう」
滝川一益が長良川に着いた時。
霧が出ていた。
天は我らに味方した。
奇襲の好機なり。
おそらく、川を渡った先に今川軍がいる。
城を包囲する形であるならば、本陣は後方。
即ち我らの近く。
安堵の息が少しだけこぼれる。
重圧から少しだけ解放されたようだ。
後は、殿の言いつけを守るのみ。
全軍に突撃の指示を密かに出した瞬間。
唐突に銃声が鳴った。
前方からではない。
左方を除いた三方向からだ。
姿が見えない敵に囲まれている。
銃声と味方の悲鳴だけが聞こえてくる。
少しして霧が晴れ始めた。
「…………やられた!」
正面に白河国親の旗。
右方に瀬名氏詮。
後方に松平の旗が見える。
囲まれている。
奇襲するつもりが奇襲されたのはこちら。
動きが読まれていた。
しかし、どういうことだ?
岐阜城は?
こちらの動きと呼応するのではなかったのか
それにしても、今川治部大輔が見えない。
噂に聞けば、最前線に出てくると聞いたのだが。
探してみれば、あった。
伝令が伝えてくれた。
ちゃんと考えて今川の旗が立っている。
織田家の城であるはずの岐阜城に。
「謀られた!」
城は既に落ちていた。
引きずり込まれた。
罠であったのだ。
岐阜城からの文は今川が作った偽物。
後は、その文を信じた我らがここに来るのを待ち伏せる。
「撤退だ!
退くぞっ!」
我先にと馬首を返す。
勝ち目はない。
ならば、逃げるのみ。
「追わずとも良い。
見逃してやれ」
岐阜城に居る義秀は滝川一益たちに関する指示を戦況を見ずに伝えた。
聞かずともわかる。
どうなっているのか、想像に難くはない。
外に安藤伊賀守を筆頭に安藤一門の首が並べられている。
城内の兵が裏切り、殺した者たちの首だ。
義秀は矢文に城主とそれに連なる一門の首を差し出せば、命は助けると書いた。
そして、それを城主ではなく城内の密通者を使い兵卒たちの間で広めた。
その結果がこれだ。
「無様。
無駄な意地を張るからこうなるのだ」
安藤伊賀守の首を烏が集まっているところに投げ捨てる。
「岐阜の城で義父の首を取るとは皮肉がきいている」
そう言って一人笑って城内へと戻って行く。
今川全軍が岐阜に入城して、一月もしないうちに、織田が朝倉に壊滅的な打撃を与え、滅ぼしたという報を受けた。
「なるほど。
本隊が来なかった理由はそれか。
ふむ。
各個撃破が狙いか。
浅井ももう長くはないな。
では、そうだな。
朝廷と将軍双方からの依頼という事にして、織田と停戦し、同盟を結ぶ。
条件は
足利義高を将軍と認める。
京都に今川屋敷を築く事を認める。
織田今川間の関所の撤廃。
こちらからはそうだな。
近畿、中国の領有権を織田のものとしよう。
今川は今後一切西には手を出さない。
こんなところでいいか。
家康。
お前が織田の取次だ。
朝廷の働きかけは氏詮。
将軍には国親が。
では、各々。
任せたぞ」
一方的に告げて、そそくさと奥へ引っ込んでしまう。
あまりに急な決断に一同唖然がする。
異論を述べる間もなく、去られてしまってはどうしようもない。
互いに顔を見合わせて、話し合いが始まる。
よくある光景だ。
結局、いつも同じ結論になる。
従う。
それだけだ。
義秀は病状を誰にも伝えてはいない。
今の所は主治医しか知らないはずだ。
ここで崩れるわけにはいかない。
今、伝えれば全体が揺るぐ。
講和がなり、安寧の時に知らせよう。
北条討伐まで体が耐えてくれるかはわからない。
後継者を決めなければならないな。
国親か
息子か
家康か
正直な話誰でもいい。
俺が死んだ後にどうなろうが関係はない。
俺の自己満足の為にやっているんだ。
だから、死んだ後に達しても意味がないのだ。
「40までは生きられないだろう。
そうだなぁ。
どうせなら、やりたい放題やろうか」
咳き込みながら、笑う。
何もかもを巻き込んで暴れてやろう。