第三十三話
明智光秀は越前に戻り、早速動き始めた。
上杉だ。
頼るのは上杉がいい。
謙信に野望はない。
彼なら、将軍を崇め、いい道具になる。
そう言ったが、伝手がなかった。
逆に織田上総介には縁があった。
正室の濃姫を光秀はよく知っている。
だから、織田を頼るのはどうかという案も出た。
それは、力不足であると廃案。
結局、一番有力なのは、今川。
次いでは毛利。
光秀個人としては毛利元就の元に仕官しようとして断れた経歴がある。
個人の感情で決めるのは良いとは言えないが、毛利は望ましくない。
今川は一番危険と主張し、その理由を説いた。
そして、義秋の理解を得ることができ、堂々と上杉を訪問することになった。
尾張での祭りを終え、駿河に戻った義秀を驚かせたのは、武田義信だった。
信濃の三分の一ほどだった領土を恐ろしい早さで広げていた。
しかも、戦わずしてだ。
何より驚いたのは、武田勝頼を説得して味方につけたことだ。
不可能だと思っていたが、やって遂げた。
それからは早い。
信濃を瞬く間に統一し、甲斐の内応者をうまく活用して、勢力を広げている。
困るのは武田晴信と今川義秀。
義秀は想像以上の早さで成長していく武田義信を脅威に感じつつあった。
これは敵にすべきではない。
早いうちに手懐けておかなければ。
もしくは殺処分だ。
「光隆、国親を呼んで来い」
しばらくの間、別行動をとっていた無二の親友を呼ぶ。
暫くして、白河国親がやって来た。
「お呼びでしょうか?」
「おう。
呼んだ呼んだ。
いや、随分と雰囲気が変わったな」
国親を見て、嬉しそうに言う。
「大軍を率いた経験はお前を見事に成長させた」
戦場で慌てず、的確に指示を出していたという報告を受けている義秀はそれは間違っていなかったと確信する。
老練の武者に似ている。
悟りを開いているみたいにも思える。
「大軍を率いてどうだった?
武田晴信は強敵だったろう」
「おそらくですが、北条の援軍が無ければ、負けたでしょう。
改めて未熟さを認識させられました。
一時は馬場勢に本陣まで迫られ、命の危機を幾度か感じました。
その度に援軍の北条綱成殿に助けられたのですが」
「それは良いことだ。
綱成殿がお前のことを褒めていた。
『実に見事な気持ちのいい若者であった。
その年に似合わぬ冷静さは素晴らしい。
指示も良かった。
ただ、惜しむべきは敵が悪かった。
武田勢は決死の勢いであった。
これは治部大輔殿が信濃へ攻め込んだ故に急ぎ帰国の必要があったからだ。
しかし、それを妨げる動きをした我らを追い返さねば戻れぬ。
ので、敵は死を厭わない猛者ばかり。
そうでなければ、わしらが居らずとも白河殿の器量ならば勝てたろう。
今後、何か困ったことがあれば、存分にわしを頼るが良い』だそうだ。
随分と気に入られたな」
「陣中で幾らか話したところ、意気投合しまして。
綱成殿は氏康殿が幼い頃からを支えてきたそうです。
共通するところが多かったのでしょう」
「ふむ。
確かに。
俺もお前にかれこれ10年近く迷惑をかけているな。
その礼ではないが。
今後暫くは対武田の軍事行動をお前に託す。
もし仮に兵を一万五千与えたら、甲斐を取れるか?」
「厳しいかと」
「即答するな。
少しは考えろ」
「言われるまでもなく、これまで幾度も考えはしました。
が、武田晴信を相手にして勝利を確信するというのは中々に難しい事です。
ただ、何よりは武田義信殿を担ぎあげている以上、当家が必要以上に領土を奪いますと、不和が生まれるのでは」
「わかっている。
俺が欲しいのは、甲斐一国ではない。
武田晴信の身柄だ。
幾らか聞きたいがことがある」
「母君の事ですか?」
「そうだな。
それだけじゃないが、それもある」
幾ばくか。
まぁ、たいしたことじゃないけれど。
「殿。
私ではなく、殿自らが甲斐を攻めるのがよろしいのでは?」
「確かに、俺が武田晴信を破ったとなれば、名は上がる。
お前が戦果を上げ続けている事もいずれは俺の不信に繋がるかもしれない。
だが、美濃攻めは俺が行った方が簡略化される。
美濃での俺の名はうまく使えば簡単に国主を脅かすものになる。
甲斐を落として、次は美濃。
それでは、織田に遅れを取る。
美濃を取られたら、京へ行く道が狭まる」
「しかし、それでも甲斐攻めは殿がなさるべきでしょう。
甲斐の虎を相手にするのは、殿であるべきです」
強く語る国親に幾ら言葉を並べて正論を吐こうが通じないことは良く知っている。
「わかった。
甲斐は俺がやろう。
やるのなら、全力でだ。
全軍を率いて今川の威勢を見せつける。
それでいいな?」
「もちろん」
越後を訪問し、上杉謙信と対面した光秀は越前に戻っていた。
結論から言えば、可もなく不可もない。
曖昧な返事で濁された。
将軍に対して敬意を払っているのはわかったが、軍を出すとなるとまた話は変わる。
上杉が上洛するには、越中の国人衆に、加賀の一向一揆、越前の朝倉、近江の浅井を抜かなければならない。
加えて、北条と争っている現状で大軍を派遣することは不可能、という話を聞かされた。
軍派遣の代わりに幾らかの金銭的援助は約束してもらえた。
そのおかげで、これまで貧困に苦しまされていた足利義秋の財は潤った。
が、京の三好を破れる勢力の数少ない候補の一つだった上杉が駄目となるとやはり今川に天秤が傾く。
気に入らない。
何かが仕組まれているようだ。
どう転ぼうと最終的に今川の助けを借りる様になってはいないか
朝倉は上洛の意思がなく、美濃の斎藤も同じ。
甲斐の武田はそんな余裕はない。
尾張の織田では力不足。
伊勢の北畠もだ。
山名や赤松では三好には勝てない。
上杉か今川。
関東の北条は遠過ぎる。
上杉が渋った以上は今川義秀しか頼れない。
だが、それは嫌だ。
どうする?
情勢が変化するまでこのまま越前に滞在し続けるか
確かにここなら三好の追手がすぐには来ないだろう。
待つか
何をだ?
織田か斎藤のどちらかが勝つのをか?
待ってどうする。
義秋様の上洛を手伝わせる。
難しいことを考えても仕方が無い。
ここは待とう。
もしかしたら期待していなかった種から芽が出るかもしれない。
今川義秀は約二万の軍勢を引き連れ、信濃を経て、甲斐へ侵攻した。
信濃では武田義信・勝頼が八千を率いて合流した。
総攻撃。
まさしく言葉通り。
武田軍を前にして最後の戦評定で今川治部大輔義秀は諸将に述べる。
「今川治部大輔の戦に負けはない。
例え、相手が甲斐の猛虎であろうと我らの前では猫も同然。
何も恐れることはない。
俺が必ず勝利の盃を飲ませてやる。
俺の采配を信じろ。
ただ目の前の敵を倒せ。
すれば、天を微笑む」
国親らが神妙な面持ちで聞いている。
それを見て、義秀は微笑む。
「だが、気負い過ぎるなよ。
まぁ、勝って勝利の美酒に酔おうじゃないか
ついでに美女がいれば尚更良いのだがなぁ」
「また、そんなことを言っていると奥方の怒りを買いますよ」
「なんと!
それはまずい!
皆、今のは聞かなかったことにせい!」
国親に突っ込まれ、焦って誤魔化そうとする義秀の様子に自然と皆の表情が和らぐ。
「全く、帰るのが怖くなってきたな。
だが、帰りを待つ者がいる以上は生きて帰らねばなるまい。
いいな。
無様でもいい。
勝てば良い」
柔んだ空気が一気に引き締まった。
油断はない。
恐れはない。
既に戦は始まっている。
各々がそれぞれの陣に戻り、戦支度を始めた。
義秀も直属の黒備え兵の元にいる。
信濃攻め以降、この兵たちは徹底的に鍛えられている。
難しいとされている馬上槍を習得させ、機動力と突破力に長けた攻めのスペシャリストを集めた部隊となっている。
武田の赤備えに負けてはいられない。
黒備えを見ただけで敵兵が逃げ出すような圧倒的な存在感を放つ部隊に育て上げなければならない。
まだ、その段階までは至っていないが十二分に迫力はある。
敵兵に恐怖させるには足りている。
あとは、その実力を見せつけるのみ。
「お前らは今から獣となる。
ただ肉を喰らう獣にだ。
虎の肉を食いちぎり、骨を砕き、臓をぶちまける。
今より常なる思考は捨てろ。
狂え!
敵兵を殺すことを喜びとする殺人鬼となるのだ!
敵と見れば、迷わず殺せ。
情など捨てろ。
そんなものは犬にでも食わせておけ
冷静に残酷に無慈悲に敵を圧倒するのが黒備え。
尊敬の念などいらない。
恐怖の象徴となれば良い。
憎め。
恨め。
怒れ。
そうして殺せ」
妙な高揚感が漂っている本陣から義秀を連れ出して、国親は問う。
「芦川殿に野盗を率いらせたのは何が目的ですか?」
「あいつらには信濃で人働きしてもらうつもりだったんだよ。
狐騒動を人為的に起こそうと思ったんだが、義信の動きが早かった。
それでも足軽として雇うと言ったんだが。
仕事をせずに雇われるのは、気に入らんと言われたのでな。
光隆と共に落ち武者狩りをやらせる。
このまま武田とぶつかると敗残兵が逃げる道は幾通りもあるが、そこに適当の置いた。
あいつらは専門家だ。
俺が指定するよりも、どこを通るかに関しては鼻が利く。
光隆を行かせたのは、抑えだ。
光隆がいないと、皆殺しにしかねないからな。
俺のかつての仲間なわけだし」
「芦川殿を追い出して、この戦で暴れたいだけではないのですか?」
「違うな。
武田晴信は確実に逃げる。
討ち死なんて事はしないだろう。
しかしな。
逃がす訳にはいかない。
今川兵ではなく、落ち武者狩りに襲われて死んだという脚本が欲しい。
確実に殺すための光隆だ」
「何故です?
殺す必要はないのでは?」
「まぁ、殺すと言っても物理的にではないからな」
両軍の法螺貝の音が響き、馬の蹄が大地に足跡を刻む。
木に止まっていた鳥は逃げ、動物たちは山へと籠る。
斥候の兵の死体に群がるカラスだけは目を光らせて、餌が来ると喜び、鳴く。
白い鎧を纏った男に導かれる不吉を思わせる黒色は獲物を見つけた狼のように牙を剥く。