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戦国物語  作者: 羽賀優衣
第二章 復讐
32/41

第三十二話

斎藤道三には三人の弟子がいる。

一人は東海の王、今川義秀

一人は尾張の傑物、織田信長

最後の一人が明智光綱の子明智光秀。

少しだけ少し時間を戻り、焦点を彼に当ててみよう。


光秀の父である光綱は幼い頃に死んでいる。

代わりに、父の弟であった明智光安が養父となっていた。

明智城主であった光安は長良川の戦いにおいて斎藤道三につき、見事勝利した。

この戦だけでなく、その後の敵対した国人討伐でも瀬名秀政に戦功第一を奪われた光安は早くから斎藤利治に接近して、瀬名の追放を計画していた。

また、光秀も道三を師と仰ぐ仲間を快くは思っていなかった。

秀政は美濃の名家であり、道三の正室の実家である明智家の出である自分のことを常に馬鹿にしていたような節があった。

実際、今川一門である秀政は足利一門に相当するわけだから、美濃の名家は見劣りするわけだが。

しかし、明智家は前美濃守護の土岐氏の血筋であり、土岐氏は室町政権において時折侍所の長官を担当する家の一つでもあった。

つまり武家としては、日本有数の名家である。

当然、光秀がそれを誇ってもなんら不思議ではなかった。

旧体制的なプライドを根底に抱く彼が、突然湧いたかのように美濃に現れ、瞬く間に信頼を勝ち取り、出世した男をよく思えるはずがない。

ましてやそれが年下であれば尚更だ。

一方の秀政は光秀のことを知ってはいたが、興味はなかった。

若くして生え際が後退している男というくらいの印象しか抱いていなかった。

もちろん、動向は気にかけてはいた。

仮にも道三の弟子なのだから、何をしでかすかわかったものではない。

警戒しておくに越したことはない、と考えていたからだ。

しかし、それを一切態度には出さなかった。

むしろ、煽った。

自分が美濃を出るきっかけにするために利用した、と言ってもいい。

そうとは知らずに、父子で揃って、瀬名秀政の追放を企てたわけだ。

実行したのは、斎藤道三の死後。

道三存命中はおそらくどうやっても瀬名を失脚させることはできない、と踏んでだ。

道三だからこそ許した事案を幾つか掘り返し、利治に一つ提案した。

まずは、瀬名を美濃の中枢から取り除くべきだと。

そして、実行。

結果、瀬名秀政は手勢を連れ美濃を去り、駿河へと下っていった。

どうして駿河なのか、今川義元の旗下に入るつもりなのかくらいにしか考えなかったが、後々考えればこの時点で瀬名秀政の目論見どうりだったというわけだ。

邪魔者が去った美濃は割れていた。

表面上は斎藤利治が国をまとめているが、実際は長井道利、明智光安、安藤伊賀守、稲葉一鉄の4人の大領主がそれぞれ強い影響力を持ち、互いを牽制しあっている状況にあった。

その中で最初に動いたのが安藤伊賀守。

何を思ったのか、自ら長井道利に協力を申し出た。

更には安藤に説得された稲葉も長井側につき、明智光安は一気に美濃での立場を失う危機に陥った。

そして、ありもしない噂を流され、明智光安は謀反を企てたとして、討伐軍を出された。

光安は討死、光秀は国外へと逃げた。

邪魔者がいなくなった長井道利は斎藤利治を暗殺し、傀儡である斎藤龍興を当主に祭り上げ、すべてを裏から牛耳るようになった。



一方の光秀は美濃を追われ、最初は縁を頼って駿河に落ち延びようか迷っていた。

しかし、その道中で明智家没落が全て秀政の手の上で行われていた事に気付き、行き先を変えることになった。

母方の実家である若狭武田氏を頼って越前の朝倉氏の元へと向かった。

朝倉家の当主朝倉義景は変わった男だった。

弓馬よりも絵画を好み、孫子よりも源氏物語絵巻を尊いものとするような芸術をこよなく愛する男だった。

そんな男を棟梁としている家ならば、文武に長け、礼節に詳しい自分は重用される筈だと確信していた光秀だったが、越前一乗谷に着き、数ヶ月と過ごす内に悟る。

越前は朝倉一門が権力を掌握していて、余所者が入り込む余地など元からなかったのだ。

更に、出る杭は打たれる。

多才であった光秀は疎まれた。

彼自身が社交的でないことも一つ、奥方が美人であるのも一つ、万事に長けていることも一つ。

様々な理由で迫害を受け、長い滞在すべきではないとわかってはいたが、行く宛はない。

越前を離れるとなれば、収入源が無くなる。

ただでさえ苦しい家計を圧迫するのは忍びなかった。

光秀一人が耐えれば良いだけのこと、そう思って家族のために働いたが、限界はある。

ストレスで髪は更に後退し、体調を崩しがちになってしまった。

神は信じるものを救うというが、実際どうなのだろうか

明智光秀は仏を信じ崇拝した。

そんな男に機会を与えたと見るべきか?

1665年。

足利第13代将軍足利義輝が三好家の者によって殺害された。

加えて、越前朝倉の元に義輝の実弟、足利義秋が逃げ込んでくる。

幕府というものに対し、崇拝に近い念を持つ明智光秀は気付いた。

当然、野心がある。

だから考えるのだ。

ここで、義秋に私を売り込み、我が力で将軍まで持ち上げれば一国の大名をもはるかに凌ぐ地位を得られるのでは?

果たしてそれができるのか

できる。

蝮の教えに生まれ持った天賦の才。

この光秀に不可能などあろうか、いや、ない。

そう。

ない。

叶える事はできるのだ!

自分を馬鹿にしてきた屑どもを見下ろし。

苦労をかけた妻を労わり。

明智家を再興する。

これは私の才を埋れたままにするのを惜しんだ仏による邂逅に違いない。

天は私を知っている。





足利義輝が殺害されたいう報は各地を巡った。

尾張にも駿府にもだ。

偶然にも、尾張を訪問中だった義秀は一報を受けて、ほくそ笑んだ。

眼前では、相撲を取る男たちが今か今かと自らの出番を待っている。

織田今川が合同で開催した相撲大会に視察に来ていたのだ。

ここにいる男たちの中で屈強なものはそれぞれの家に召し抱えられる。

人材補充の意味合いも含んだ相撲大会。

さて、将軍が殺害されるというのは、天下が動く兆しだ。

だが、三好の没落はこれから始まるだろう。

将軍殺害の実行犯は松永弾正だと聞く。

道三に匹敵する怪物を養っていては、いずれ食われる。

もう先は長くない。

「上総介」

並んで相撲を見物していた織田上総介信長に問いかける。

「なんだ?」

「どこが真っ先に動くと思う?」

「織田か今川、上杉のいずれかだろう。

越前に将軍の弟がいるという話は聞いているが、義景は上洛をする気はないと見ている。

すると、越前を離れた足利義秋が次に滞在する場所次第で変わる。

そのまま北上し上杉を頼るか、南下し織田と今川に来るか」

「ふむ。

では、先に美濃を手に入れた者が制するな」

「だろう。

俺らのどちらが美濃を手にすれば、天下は望める」

「一応言っておくが、美濃を譲る気はないぞ」

「俺にもない。

あと、一年以内に稲葉山を落として見せよう」

「大きく出たな。

稲葉山を陥落させるのは容易ではあるまい」

「しかしな。

面白いやつを拾った。

おい、猿!来い」

そう言われると、しわくちゃの気品も何もない顔をした小男がすぐに姿を現す。

「こいつだ。

猿のような面白い顔をしておる」

「確かに猿だな。

で、お前。名は?」

義秀は猿に訊ねる。

猿は仰々しく姿勢を正して、低頭し、名乗った。

「木下藤吉郎にございます」

「木下藤吉郎。

ふむ。覚えたぞ。

上総介が一目置くのであれば、何か面白いものを含んでいるのだろう。

その名が轟くようになるよう精進するが良い」

頬杖をつきながら、目の前の男を観察する。

人懐っこそうな顔をしている。

人を誑かすのがうまそうだ。

「ところで、治部大輔。

俺はこの後の祭りで舞うぞ」

お前は何をする」

「聞いていないぞ。

てっきり観客に徹するものかと思っていたが」

「馬鹿か。

民を労う祭りだぞ。

俺がやらずして誰がやる」

「はっはっは、そういう考え方は実に好みだ。

そうだなぁ。

俺も幸若舞をやるとするか。

化粧をすれば、そこらの娘よりも美しいぞ、俺は。

客を目を全て奪うやもしれんが、構わないか」

「舐めるな。

俺とて負けはせん。

踊りに関しては一家言持てる」

「言うたな?

ならば、どちらが盛り上げるか競うのはどうだ?」

「よかろう。

祭りの客にどちらが良かったか投票させ、上位の方が勝利ということで良いな」

「罰を加えよう。

敗者は勝者の個人的な依頼を聞くということで」

「面白いではないか

それでは、しばし退出させてもらうぞ。

準備もあるからな」

「良いだろう」

上総介の承諾を得て、義秀は立ち上がった。

相撲会場をあとにし、周囲の雑踏を眺める。

後ろで、「猿!俺が踊るにふさわしい舞台を用意せい!」という声が聞こえる。

織田上総介はいい男だ。

男色の意味ではなく、友としてだ。

常にこちらの上手に立とうとする。

相手次第では機嫌を損ねるだろうが、俺からすれば楽しい事この上ない。

しかも、自分の持つ札を存分に見せつけてくる。

例えば。

次の舞の舞台次第であの木下藤吉郎という男の器量を見れる。

それで俺が見る事を知って、あえて聞こえるように言ったのだ。

自分の部下の優秀さを見せつけようとする。

幼少期に爪を隠していた鷹は成長して爪を全面に押し出して威嚇する事を覚えたということか

しかし、織田上総介の元には優秀な人材が多い。

ここで行われている相撲大会は今川領、織田領の双方からの参加者が集まっている。

事前に領内からの参加者の名簿を作り、担当者の渡してはおいたものの、運営に関しては文句の言いようがないほど淀みない。

会場の周囲には出店が所狭しと並び賑わっている。

大規模な商業街が出来上がっている。

元々、犬姫を通じて両国間のわだかまりを無くす為に合同で祭りを開くことを計画していた。

それがこうして成立したのだが、想像よりをはるかに凌ぐ。

祭りの中の一つのイベントとしての相撲大会。

他にも、各地から人を呼び、余興が多い。

それを一目見にやってくる人々は一体どこから湧いてきたのかと問いたくなるほどだ。

だが、何よりも一番不思議な事はこうして雑踏に埋もれると様々な方言が聞こえる。

尾張、駿河、甲斐は勿論の事。

かつて一度だけ馬を買いに行った奥州の方の言葉もあれば、京言葉も耳に入る。

どこまで宣伝したのか?

日本全国津々浦々道の届くところまでかもしれない。

しかし、この祭りによって、今川義元を破ったことで全国的に知名度が急上昇した織田信長という男がただの運が良いだけの男だけではなく、こうして国を動かせる力を持っているという天下に堂々と名乗りを上げることにだろう。

織田信長にはこれほどのものを用意する財源があり、かつ運営に困らない人を持ち、全国から客を集める伝もある。

尾張は商業、農業ともに発展している国である事、今川に劣りはしないとこうして示す。

いいやり方だ。

悔しいが、いい気分だ。

俺と道三の目は澄んでいた。

あの男は比肩するものなき傑物だ。

否定するものも多くいるだろう。

俺は揺らがない。

織田上総介信長は天下を取るやもしれない。

譲るつもりなど毛頭ないが、子どもじみた対抗心で争おうとも思いはしない。

いずれ決断を迫られる時が来るだろう。

その決断で家の行く末が変わるかもしれない。

不思議な事だ。

「光隆、舞用の衣装を用意しておけ。

幸若舞の百合若大臣をやる」

「はい」

光隆は人混みから頭一つ飛び抜けている。

義秀も高身長だが光隆はそれ以上だ。

体格からして、他の人とは違う。

それゆえにやけに目立って見える。

あんな男が女物を買うのかと思うと可笑しさがこみ上げる。

「さてさて。

俺は久々に葵にでも会うとしましょうか」

鼻歌を響かせながら、軽やかな足取りで安藤伊賀守と決めた茶屋に入る。

人がごった返す喧騒の中、店の奥の個室に安藤伊賀守とその娘である葵はいた。

「実にお久しぶりですね。

老けましたか?」

向かいの席に腰掛けて、安藤伊賀守に話しかける。

「まこと久しい。

しかし、わしももう年だ。

老けるのも仕方ない」

「おやおや、心にもないことを。

未だに現役で槍を持って戦場を駆け巡っていると聞きましたが」

「もう息子に家督を譲った。

今は四季を味わうだけが楽しみの老害よ」

「これまた、わかりやすい嘘を。

で、あなたがわざわざ尾張まで出向いてくるとは何をするつもりで?」

安藤伊賀守は髭を弄りながら、鋭い眼光で義秀を射抜く。

「正直な。

半兵衛を東美濃に置き、わしは西を征す。

取ろうと思えば、美濃を取れるのだ。

今までそうできなかったのはひとえに尾張の信長が大きい。

やつが侵攻してくるおかげで機を逃し続けている。

ゆえに、今日暗殺しようかと思っている」

「上総介をか」

「他に誰がいる。

聞けば、舞台で舞うそうではないか。

わしは美濃で指折りの鉄砲の名人を連れてきた。

狙撃させようかと考えておる」

安藤伊賀守がそう言うと、義秀が笑った。

腹を抱えて、笑い過ぎて咳き込みさせした。

茶を飲んで、一息ついて落ち着きを取り戻す。

「失礼。

あまりに突拍子もなかったもので」

息を吐く。

「老いとは恐ろしい。

随分と目が濁った」

軽蔑するかのように吐き捨てる。

「上総介を殺したところで、美濃は取れないでしょう。

長井道利を甘く見過ぎです。

あなたに世話になった恩がある。

だから、言いましょう。

あなたでは美濃を切り取る事はできないでしょう。

器ではないのですよ。

道三様が築いた国をものにできると思ったのならば、思い上がりも程々にすべきでは?

主君を盛り立て、その褒美として国をもらうことは叶っても自ら宗主になることは夢物語

それに長井道利の信頼を得ているかもしれませんが、他の国人からよく思われていないことを知っているのですか?

詐術を好み、誇る人間は上に立てはしない」

そこまで言うと、茶碗の砕ける音がした。

安藤伊賀守が握り潰した。

手のひらを陶片で切っている。

しかし、それさえ気にならないほど激昂しているように見える。

「どうかしましたか?

まぁ、何にせよ。

織田上総介を狙撃するのなら、俺は今ここであなたを斬らねばなりません。

仮にも同盟相手なのでね。

それに、この祭りは今川も共催しているもので、そんな最中に上総介が死んだら此方としても困る部分が出てくる。

そうですね。

その結果生まれる金銭的被害額をあなたが負担してくれるというのなら、考えはしますが。

どうします?」

薄ら笑みを浮かべて、訊ねると、安藤伊賀守は老体に似合わない力で机を叩いた。

バン、という音が響く。

「婿殿、今川の当主になって些か調子に乗っているのではないか?」

額に血管が浮かび上がっている。

今にも殴りかかりたいのを堪えているのだろう。

「調子に乗っている?

それはあなたの方ですよ。

全く。

店の中に刺客を何人忍ばせました?

おそらく、俺を殺して混乱している隙に武田晴信と共謀して信濃を狙ったという話でしたか?

ま、美濃からの密使は甲斐まで辿り着いていませんがね」

表情を笑みのまま、視線が射抜く。

安藤伊賀守が武田晴信に送った文は既に義秀が手にいれている。

義信が不審な男を捕らえたと言って送ってきた。

優秀な男だ。

安藤伊賀守には悪いが、証拠は上がっている。

「何を言うかと思えばわしがそのような姑息な真似をするわけがなかろう。

第一、婿殿が美濃を取り、領土を拡大した暁には美濃一国を与えると言うから協力するのだ。

婿殿が死んでは意味があるまい」

「そういうことにしておきましょうか。

別に、あなたが何をしようが大局に変化はないでしょうし。

さて、俺は葵と話したいので席を外してはもらえませんか?」

安藤伊賀守は自分の部下と話したいことがあるだろうし、今すぐにでもここを離れたいはずだ。

それに葵を残しておけば、刺客に義秀を襲わせることもない。

「夫婦水入らずで久々の再会を祝いたいのですよ。

そのために葵を呼んだのですから、よろしいでしょう?」

「反対する理由はない。

では、わしは先に戻る」

不機嫌な仏頂面で足音を鳴らしながら、帰って行く。

老いたくない、と改めて思わされる。

安藤伊賀守は時代の流れに取り残されているのだ。

もう世代交代は始まっている。

役者は引退の時期を見極めなければならない。

武田晴信にしろ安藤伊賀守にしろ

何もせず老後を楽しめば良い。

いい例が義秀の父今川義元だ。

出家して仏門に入り、俗世と離れた生活を送っている。

例え息子が何をしようとも口出しはせずに見るだけ。

それで充分だ。

「悪かった。

安藤殿を挑発するような真似をして」

一応は謝罪をすべきだろう。

形だけだが。

「いえ、父は秀政様が大出世されたのを聞き、ならば自分でもと、浅はかにも思い立ったのでしょう。

そのような考えで国をまとめられるとは私も思ってはいません」

「手厳しいことを言うようになった」

義秀は少しだけ驚いて、葵を見た。

「それは秀政様に捨てられ、色々と悩みもすれば性格だって変わりましょう」

義秀の表情が引き攣る。

「捨てるとは言葉が悪い。

それに今は今川治部大輔義秀と名乗っている」

「でも、私にとっては秀政様なのです」

葵はそう言って微笑んだ後、意地の悪い笑みを見せる。

「でも、長良川の時から既に美濃を離れるつもりで私と離縁し、その後も復縁を拒み続けたのですから、捨てられた以外の何物でもないでしょう」

相手の男は痛い所を突かれ、焦っている。

「……いや、あれは禁じられていたからであって」

「言い訳は不要です。

私は知った上で殿をお慕いしていましたから。

それでも、文くらいは欲しいと思ってしまうものなのです」

「い、いやね?

てっきり愛想を尽かされ、他の男に嫁いだと思っていたから俺からの文は邪魔かと。

ま、まぁ、今を見る限りそうではなかったようだけど」

「知らなかったということは、やはり私に興味すらなかったのですね。

私のような面倒な女子を欲しがる男などそうそういるものではありません。

増してや、伊賀守の娘となれば、いつ寝首をかかれるか気が気ではないでしょうに」

義秀が完全に沈黙する。

珍しく項垂れている。

葵は勝ち誇った様子で笑いそうになるのを一生懸命堪えている。

少しして、義秀が顔をあげた。

その顔には諦めの表情が浮かんでいる。

「ならば、駿河にくるか?」

そう言うと、ぱぁっと葵の表情が変わる。

「ええ!

そのお言葉を望んでいたのです」

嬉しそうに義秀の手を両手で包んだ。

「全く。

女には敵わん」






明智光秀は尾張に来ていた。

視察だ。

現時点で織田信長はどの程度の人物かを見ておくために来ている。

より騒がしい方に向かって人の流れに乗り向かう。

着いた先には、地面より少し高いところに能舞台が作られていた。

屋根がなく、青天井のもとで舞う場所だ。

今、麗しい女が舞っている。

この曲目は敦盛。

音が響く。

おそらくは周囲の壁の位置が計算されているのだろう。

木材が良いというのもあるかもしれない。

大量の観客が立ちながら息を呑み、ただ一途に見つめて、耳を済ましている。

なるほど。

光秀はすぐに悟った。

必要以上に作る必要はないのだ。

これだけで充分足りている。

これは祭りだ。

終われば、片付けねばならない。

巨大な能舞台に観客席を築いたとしてもその後使う機会がなくては意味がない。

ならば、これでいいのだ。

観客席は下が土であるわけだが、きちんと敷物があり、能舞台の近辺には簡単に片手で飲み食いできるものが集中して販売されている。

見ながらでも、食べられるようにという配慮だろう。

中々に親切だ。

それにしても。

敦盛を舞う女は実に精錬された動きをしているが、どこか違う。

何だ、この違和感は。

そうだ。

女がやるにしては力強い。

武術の嗜みを持った男が舞うとああなるのではないだろうか?

「申し訳ないが、あの方は何という名なのだろうか?」

光秀はそばにいた客に訊ねる。

「おう。

ありゃあ上総介様よ!

この後にゃ、今川様も控えておるらしい!」

上総介?

今川?

上総介というのは織田信長の官職ではなかったか?

では、あれが織田信長だと?

まさか。

冗談も大概にして欲しい。

「嘘を言うな。

上総介様があのような姿で踊るわけなかろうに」

「ん?

おめえ、他国のやつか

なら、仕方ねえわな。

でも、あれは上総介様だぞ」

信じ難いが、偶然話しかけただけの男が嘘をつくとも思えない。

じゃあ、あの女子が信長。

いや、女子ではないのか。

遠目で見れば、わからんものだ。

しかし、道三様が見込んだ男が女装趣味とは…………

瀬名秀政も女のような顔立ちをしていたし、道三様の好みか……?

それならば、私が後継者に選ばれないのも納得が行く。

我が師には見る目がなかったのかもしれないな。

「おや?明智殿ではないか?」

ふと声をかけられた。

振り返ると、安藤伊賀守が立っている。

気さくな笑みを浮かべて、再開を祝う握手のための手を差し出している。

よくもぬけぬけと顔を出せるものだ、と思いながら光秀は手を握る。

「久しぶりにございます。

息災なようで何より」

元といえば、この男が長井道利側に降ったことが元凶なのだ。

仇みたいなものだが、それを相手に見せつける意味もない。

「安藤殿はどうしてここへ?」

「今川治部大輔殿に会いにな。

明智殿は?」

「私は越前に居ました所、尾張で祭りがあると聞きまして」

今川治部大輔!

瀬名秀政が来ている!?

では、織田上総介の次に踊るという今川殿とは織田家に嫁いだ姫ではなく、当主本人なのか!?

もしも、そうならばこれは実にいい機会なのではないだろうか

「越前か…………」

安藤伊賀守は何か思い当たる節があるかのようにこぼす。

「そう言えば、治部大輔殿は随分と変わっておった。

近々、足利将軍を担いで、上洛を目指すそうだ」

「それはまた。

私も是非お会いしたいものです。

かつては共に学んだ朋友。

道を違えましたが、もし上洛をするのなら、天下の覇者となるのでしょう。

今のうちに挨拶くらいはしておきたいのですが、取りついでがもらえませんか」

「それは厳しい。

わしとて彼に会えたのは娘が居たからこそだ。

今のやつはわしごときには興味などないようでな。

全く、随分と出世したものよ」

光秀は表情に出さず心の中で毒を吐く。

興味がないのは私とて一緒だ。

お前が瀬名秀政と繋がりを持っていなければ、人のいないところで斬っている。

「そうですか。

残念ですが、仕方がないこと。

いま、治部大輔殿は何処におられるかわかりますか?」

「今頃は舞台裏で幸若舞の支度をしているだろう。

次は彼だ」

「では、会うのは厳しいですね。

ゆっくりと話したい事があったのですが」

やはり次に舞うのは瀬名秀政。

素晴らしい。

絶好の機会だ。

養父の仇の一人。

私の出世の邪魔になりかねない男だ。

足利義秋が彼を頼ると決めてしまったら、私は出世できないだろう。

というよりも、彼の力を借りるなど真っ平御免だ。

しかし、今川に向かう事が可能性が一番高い。

何せ足利一門なのだ。

加えて、本人に上洛の意思がある。

足利将軍を担ぐと言ったが、それが義秋であれば良い。

しかし、近頃京では、足利義輝には二人の男児がいたと噂になっている。

一人生後間も無く没したが、もう一人はどこに生き延びているという。

が、実際のところ三人居た。

一人は先ほどの通り幼少期に亡くなり、もう一人は三歳で丹波へと逃げ延び、三人目は妾の腹の中にいた。

その三人目の母は讃岐へと落ち延びたらしい。

そして、ただ一つの心配事として義秀は丹波へと使者を送ることが増えたらしい。

ということは、義秋ではなく、幼い義輝の子供を推すのだろう。

ならば、義秋が将軍になれる確率が一気に下がる。

それを妨害する術は幾つかある。

義秋を推させるのが一番だが、それは私が嫌だ。

だが、ここで殺せるのならば、それ以上はない。

ならば、すぐに行動を起こす。

「安藤殿、私はこれで一旦失礼致す。

少々用事ができた」

「おぉ、そうか。

ではな」

光秀は安藤伊賀守の姿が見えなくなるところまでゆっくりと歩き、そこからは走った。

弓ではなく、火縄銃を一つ使う。

自然と頬が緩み、にやけている。

光秀は自分の幸運を祝った。

足利義秋と出会ってから自分に風は吹いている。

今日だって、幸運なことに私は道三様の元で火縄銃の扱いを学び、常に一丁宿に置いている。

元々といえば、自分を売り込むのに必要な道具だったが、今も癖で持ち歩いているのだ。

走り、部屋に戻り、包みに入った銃を担ぎ、先程の能舞台が視界に見える場所をぐるりと回る。

どこもかしこも織田か今川の兵が民衆に気付かれないように紛れながら警戒している。

やはり暗殺は警戒されている。

しかし、この私にとってはこの程度の警戒網を破るのは難しいことではない。

一周した後、狙撃場所を決め、周囲にいる兵を音もなく斬り捨てる。

死体を片付け、太い木の影に隠れる。

舞台までの距離はおおよそ30mほど。

光秀は朝倉義景の前で鉄砲の技術を披露し、45mほど先の的に的中させたという。

彼からすれば、この距離も必中なのだろう。

目を瞑り、深呼吸。

気持ちを落ち着かせて、構える。

既に火薬はいれてある。

後は、今川治部大輔が出てくるのを待つのみ。

舞台上には誰もいない。

織田上総介が自分の演目を終え、裏に戻り、小休憩を取っている。

これが終われば、次に来る。

再び、目を閉じ、耳を澄ます。

観客が湧けば、それは始まりだ。

万が一に邪魔が入っても困る。

足音にも気を付けねば。

光秀はもう一度頭の中で確認をする。

宿は既に引き上げてある。

馬も用意した。

撃ち、外そうが当たろうがすぐさま逃げる。

一発目を外したら、次の弾を準備し終わる前に裏に逃げ込まれるだろう。

二回目はない。

一度だけの機会。

外しはしない。

とても長い一分ほどの時間を過ごし。

美しく着飾った女が出てくる。

先程の上総介にも思ったが、こいつらは何故こうも女より美しいのか

百合若大臣を舞う姿は、まさしく女子のよう。

言われなければ、あれを男とは思わない。

現に光秀は迷っていた。

あれが本当に瀬名秀政なのか

それがわからなかった

話を聞く限り瀬名秀政なのだろうけれど、目が疑う。

もしも、違った場合、光秀は罪のない女を撃ち殺した事になる。

光秀と瀬名秀政こと今川義秀の立場が逆だったら、彼は迷いなく撃っただろう。

違ったら違ったで次の機会を狙えばいい、とでも言って平然と顔色一つ変えずに引き金を引くはずだ。

そう考えて、光秀は大きく息を吐く。

「ここを逃すのは愚か。

今狙わずしていつ狙う」

自分に言い聞かせるように呟き、再度火縄銃を構える。

目標を定め、タイミングをはかる。

舞台で舞う者は意識してか、袖で体を隠すようにして動いている。

本来なら、股間を狙うのが最善だ。

逸れても、両横には大きな血管があり、当たれば出血多量で死ぬ。

しかし、しかし、絶え間無く動く的を狙うのは難しい。

動きが不規則なのだ。

だが、一点を狙う。

そこに相手が入る時に撃つ。

来い。

来い。

もう少しだ。

あと一歩。

そうだ。

よし!

光秀は引き金にかけた指を動かした。

その瞬間、舞っていた相手が光秀の方を見て、気味が悪い笑みを浮かべた。

その目は獲物を見つけた猛禽のようにも見え、二人の目が合った。

光秀は動揺した。

気付かれている。

しかし、今更止められない。

引き金は引かれ、火縄が火皿に落ち、そこの火薬が爆発しそれが銃底の火薬に引火爆発し、弾丸は発車される。

ただ、動揺はそのまま現れる。

ぶれた。

弾丸は目標の袖を射抜き、闇に消えて行く。

外した!

光秀はそう思うよりも先に馬の方へ駆け出していた。

早く!

早く逃げなければ!

急げ、既に追手が出ているはずだ!

明智光秀はそうやって、自分を叱咤激励し、かつてないほどの焦りの中、尾張から逃げ帰った。





今川治部大輔義秀は何事もなかったかのように踊りきった。

銃声は誰かが撃った祝発だということにすれば良い。

わざわざ祭りに水を指すような真似は好まない。

そう考えて、やった。

舞台裏に下がると、仏頂面の織田上総介信長が待っていた。

「治部大輔、追手は出したが逃げられた」

義秀は汗を拭いながら、それを聞いた。

「そうか。

あの狙撃手は馬鹿だな。

俺を殺す絶好の期を逃がしおった」

「一つ聞くぞ。

お前、気付いていたな?」

「何の話だ」

「狙撃されるとわかっていただろう、と聞いているのだ。

お前の踊りには不可思議な所が幾つかあった。

あれは狙撃を警戒した動きだ。

しかも、狙撃手がいた場所は今川が警備を担当していた場所。

調べたが、そこだけ明らかに手薄だった」

「現場の者がサボったのだろう」

「確かに殺されてはいたがな。

にしても、手薄だ。

お前、もしかして誘ったのか?」

「勘ぐるのは構わないが、俺は自分に命は他の何よりも価値があると思っているとだけ伝えておこう」

「……今はそれを信じるが、何を企んでいる?」

「何も企んでない。

ただ、久々に生きていると実感したがな」

そう言うと織田上総介は呆れたようにため息を吐く。

「…………まぁ、いい。

誰かわかっているのか?」

「誰かは知らん。

ただ、誰の手の者かは予想はしている」

おそらくは安藤伊賀守だろう。

上総介ではなく、俺を狙うことに変更した、というところだろう。

茶屋でも、何人か忍ばせていたしな。

「まぁ、いい口実になった」

美濃を攻める。

安藤伊賀守を討伐する為にだ。

「ところで、どちらが客を楽しませたか競うんじゃなかったのか?」

「狙撃されておいて呑気なことだ。

そんなことを気にする場合でもなかろう」

織田上総介は部下に持たせていた火縄銃を弄る。

「狙撃手もいい腕だろう。

そこそこの距離から外したといえ袖に当ておった」

「確かに。

惜しい腕だ」

義秀は着物に着替え、腰に刀を差し、柄を握った。

「まぁ、狙われるのは慣れている。

だから、そこの草むらに潜んでいる男。

出ておいで」

義秀が言うよりも早く、上総介は火縄銃を構えている。

いつの間に火薬をいれたんだか……

義秀が素晴らしい早業に感心しつつ、刀を抜く。

「出て来い。

三つ数える」

それまでに出て来い。

一つ。二つ。三つ。

ガサッという音がして、みすぼらしい格好の男が転がり出た。

真っ直ぐに義秀に向かってくる。

撃とうとした上総介を制止し、義秀は楽しそうに笑う。

「名を名乗れ。

名も知らぬ相手を殺しては楽しみも減る」

だらりと刀を提げて、構える様子を見せずに義秀が聞くと、相手は顔を見せずに土下座をした。

「今川様!

お願いが御座います!」

「何だ」

義秀は拍子抜けした。

つまらなそうに刀を鞘に戻し、男の前に立っている。

「うちの子供が病にかかったのですが、医者を呼んではもらえないでしょうか!」

「どこの者だ?」

「はっ、美濃の白海村の者に」

「あそこか。

ならば、俺ではなく竹中半兵衛に言うが良い。

あいつなら工面してくれるだろう。

一応、俺からも一筆預けておこう」

義秀が一旦背を向け、筆を取ろうとした瞬間に男は動いた。

立ち上がりながら抜刀し、そのまま斬りかかる。

抜刀術を収めている男の動きは実に早かった。

が、

「抜くならば、最初からそうするが良い」

義秀は男の刀をのらりくらりと円を描くように動いて受け流した。

「思い出した。

お前、林崎甚介と共にいた男だな。

名を……何と言ったか……

まぁ、たいしたことでもないか。

何の恨みがあって斬りかかる?」

「黙れ。

愛する人を失う苦しみをわかるか!?」

「ふむ。

よくわからん」

刀を身を屈めて避け、そのまま懐に入り込み、下から突き上げるように顎に掌打を放つ。

バランスの崩れたところで軸足を払い、倒し、馬乗りになり押さえつける。

「俺を狙うのなら、より不自然さをなくせ。

後は、刀の腕を磨き直すべきだ。

林崎甚介は陸奥にいる。

そこまでの路銀をやる。

免許皆伝したら、また俺を狙いに来い」

男は唖然としている。

それも当然だ。

義秀は自分を殺しにきた男を見逃し、鍛える機会を与えようとしている。

「なんだ?

納得がいかないか?

何別に対したことではない。

面白くはないか?

俺を殺すために鍛える。

俺はそれを殺す。

楽しいじゃないか。

殺伐とした命のやり取りの中でこそ、生命を感じる。

こうして、立場を得るとそういった機会がなくなって構わん。

ゆえに見逃す。

次は俺を殺せるくらいになって再び来い。

その時は本気で殺しに行く」

織田上総介は今川義秀の評価を改めざるを得なかった。

元よりおかしい男だと思ってはいたが、やはり狂っている。

まるで血を求めて彷徨う狂暴な狼だ。

ただ、抑え込められてるだけはまだ良い方か

「あぁ、そうだ。

名を名乗れ。

頭の片隅に残してやろう」

「……松葉義長だ」

「そうだ!

松葉義長!思い出した。

今度は忘れん。

逃げるなよ。必ず来い。

俺を楽しませろ」


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