第三十話
武田晴信が再び動くまでそう時間はかからなかった。
義秀としては、もうしばらく巣に籠っていて欲しいのだが、虎は穴から出てきてしまった。
未だに同盟は成っていない。
北条と上杉は北関東の支配権を争っている。
虎が動く、と報を受けた義秀は即座に兵を動かした。
高天神城を中心に迎撃の態勢を整えると白河国親と松平家康を送り込んだ。
武田の軍勢は信濃から攻め入るものと甲斐から来るものの二つに大きく分けられ、それが遠江、駿河に向かってくる。
三河、遠江、駿河三国の兵を集め、一万五千ほどで武田に対する構えを取り、北条からの援軍も一万数千。
一方の義秀は武田義信と共にニ千の兵を連れ、三河から信濃へと向かう。
義秀は先に内応を誓った信濃の武田側の城に入った。
そして、飯田城主の秋山虎繁と相対する形になっている。
迎え撃つ武田兵が五千ほどなのに対して、連れているのは二千。
加えて、地理にも疎い。
不利な要素が揃った状況下で義秀は余裕を保ったまま評定を開いていた。
参加者は今川治部大輔、武田義信、井伊直虎の三人だ。
「さて。
どうすべきか
秋山伯耆守と一戦交えるのは避けたい。
ここらで一手打たなければならん。
案はあるか、直虎」
話を振られた直虎は考える素振りを見せた後、地図の一点を示した。
「飯田城を孤立させましょう。
信濃は実質高遠城の諏訪勝頼が支配権を持っています。
彼を寝返らせることができれば、動きましょう」
しかし、この意見を潰したのは義信だった。
「無理だ。
彼は私のあと、後継者として指名を受けている。
寝返る利益がない。
調略をするのならば、木曽義昌の方が良い。
あいつは損得で動く。
私を切り捨てた武田に身の危険を感じている。
領土を認め、加増を約束すればこちらにつく」
「では、まずは木曽義昌。
他に北信の海野と大井は動かせる。
先に説得済みだ」
「竜芳が?」
海野氏の当主は武田晴信の次男で竜芳という名の盲目の男だ。
「正確にはその下。
目の見えぬ出世が叶いそうにない者より義信殿にかけるらしい」
「父に陥れられ、殺されそうになったところを友人に救われ、父の家臣の一部も自分を慕ってくれる。
この時世になんと嬉しきことかな」
「そう思うのなら、早く甲斐を手に入れることでしょう」
義信に微笑み、次は何か言いたげにしていた直虎に向く。
「何か思いついたか」
「小山田はどうでしょうか?
彼らは武田の傘下というわけではなく、同盟関係に近いものがあります。
それゆえに、こちらにつく方に利を見れば動くのでは」
その提案に頷く。
「かもしれんな。
俺は信濃全土はいらんのだ。
北は誰にでもくれてやる。
南半分さえ手に入れば充分。
美濃攻略の足場が欲しい。
故に飯田城と高遠城を落とせば、十二分に用は済む」
「承知しています」
「ならば、良い。
北の土地を取引材料に交渉を始めろ。
信濃、甲斐に噂を流してある。
武田晴信が大粛清を始め、元来の領主層を潰しにかかる、という噂だ。
現に嫡男を誅殺しようとし、家中でも功績大きかった飯富虎昌でさえも狙われたのだ。
不安を抱くには十二分。
晴信の意に合わない者は消される。
それを避けたければ、俺に味方すれば良い」
義秀は扇を広げて、口を隠す。
「俺は武田晴信を排除できれば、それで良い。
武田を潰すつもりではない。
俺につくのであれば、皆許そうではないか
彼らは義信殿の手足となるのだからな。
しかし、敵となるのなら血の一滴残さずに絶やす」
井伊直虎は無言で頷く。
「義信殿、少し外してもらってもいいだろうか?
直虎と二人で話したいことがある」
「承知した。
私は虎昌と共にいるので、何かあれば伝令を。
では、失礼」
義信はそう言って、陣幕を後にした。
それを見送ったあと、義秀は普段と違って優しく微笑みながら、直虎の方に身を乗り出した。
「直虎、子を欲しいと思ったことはないか?」
突然の問いに直虎が困惑の表情を見せる。
「……子供ですか?」
意味がわからないといった様子で、問い返す直虎。
「そうだ。
このまま独り身で老後を見る子供もいないのでは寂しいだろう
少し前に謀反の罪で処刑された井伊直親の子供を俺が預かっている。
名を虎松というんだが、お前が育ててはみないか?」
「私が子育てを……」
「そうだ。
子供はいいものだぞ。
実にいい。
景色が変わる」
「は、はぁ……」
「元々はお前の縁談を俺とお前の家の家臣たちとで相手を探してたんだがな。
直虎、今27だろう。
婚期を過ぎつつある上に男に混じって兵を率いている女を貰いたいっていう奴がいなくてな。
いないわけじゃないんだが、どうにも気に入らん奴らばかりでな。
無理にやらせても困るし、虎松が成長するまでの中継ぎとしての井伊家当主を任せるに足りる人材がいない。
だから、養母として虎松を育てて、もらおうかと」
「失礼ながら、私はこうして一軍を率いています。
井伊谷に戻ることも少なく、年の多くは戦場にある身。
それが養子をとったところで私は彼と関わること少なく、子を思うのなら殿の元で乳母を決め、育てる方が良いのではないでしょうか?」
「虎松は井伊家を継ぐ身だ。
出来るだけ家臣と多く過ごさせておくべきだと思っている。
だから、俺はお前に頼んでいる」
「しかし……」
「面倒だ、承諾以外の返事は認めん。
育てろ」
「……はい」
「なんだ?
不服そうだな。やはり夫は欲しいか?」
「是か否かで言えば是ですが、私はこうして殿にお仕えし、その身を捧げることを決めています。
ゆえに子や夫はその邪魔になるのです」
「ははは、そんなに子供が嫌いか?
全く素直に子供が苦手と言えば、いいではないか。
女として子供が嫌いでは困ると思うが」
「子を産むつもりはありませんから」
「勿体無いものだ。
直虎、お前は健康であるし血筋も良い。
母がお前のような活発な女であれば生まれてくる子も溌剌なものであろうに」
「……」
「まぁ、良いがな。
何にせよ、虎松を任せるぞ。
いずれは遠江を井伊家に任せようと思っているからな。
次期当主には立派になってもらわんと」
「遠江を我が家にですか?
それは責任重大な……」
「それほど、俺はお前を信頼しているということだ。
まぁ、いつになるかはわからんけどな」
義秀は
「まぁ、何はともあれ任せた。
虎松を預ける」
そう言って肩を叩いてから、陣幕の外に出て光隆を伴い各隊を見回りに向かった。
途中で伝令の兵が走っているのを見かけた彼は引き止め、声をかけた。
「そんなに急いでどこへ行く」
「殿!こちらでしたか!
駿府の奥方様より文と白河殿から戦況の報告を預かっております」
「文?
どれどれ」
渡された文を見ると書いてあったのは和歌が一つ。
『あかねさす日の暮れゆけばすべをなみ千たび嘆きて恋ひつつぞ居る』
つい微笑みを溢した。
何とも愛らしく思えてくる。
日暮れの頃になると
どうしようもなく
千度も深いため息をついて
ただあなたのことを恋しく思っています
こんな内容の歌を引用して届けられたら、当然嬉しくない訳がない。
更に今以上に張り切って早く敵を蹴散らしてやろうと思える。
ニヤつきそうになる頬を抑え、伝令に訊ねる。
「で、国親の方は?」
「はっ。
順調であり、足止めも成功した、との事です」
「わかった」
一言だけ返すと、義秀は一番端に構えていた武田の陣の横を抜け、人気のない雑木林の中へ入って行った。
そこには、先に信濃に潜伏させていた長身の男が一人待っていた。
「武蔵からわざわざ出向いてもらってすまんな」
「北条の統治が行き届きつつあるせいで稼ぎにくくなっていたところだ。
本拠を変える時期が来ていた」
「そうか。
秋から話は聞いているな」
「文が来ていた。
要は、信濃の武田領を荒せばよいのだろう?」
「そんな簡単にまとめるな。
武田領の民は誰一人として襲うな。
狙うのは武家のみだ。
そして、奪った財の幾ばくかを施せ」
「利益が減る」
「信濃を攻略し終えた後には、お前ら全員召し抱えてやる。
それまでは我慢しろ」
「その言葉違えるなよ」
「当たり前だ。
あと、これを忘れるな」
懐から取り出した狐の面を男に向かって投げる。
「狐か」
「俺と秋からの餞別だ。
白拍子はやれんがな」
「やはりあの二匹の狐はお前らか。
相変わらず神を恐れん奴だ」
「神なんてものは頭の中にしか存在しない。
利用価値はあれども、崇拝する理はない」
「本当に変わらんな。
世の中何が起こるかわかったものではないな。
辻斬り、人攫い、放火。
悪事を共にしてたガキがいつの間にか大名になってやがる」
「悪事というのなら、今の方が悪行だろうよ。
俺の一言で何千と死ぬのだ。
たかが数十人斬った程度は対した悪行じゃないさ」
「生きている規模が違いすぎだろう。
まぁ、いい。
餞別は受け取った。
ついでだ。
稲荷の神使らしく振舞ってやるよ」
「頼んだぞ」
林の中にスゥっと音も少なく姿を消した男を背にして、義秀は陣に戻る。
そして、武田晴信の首を落とす算段を立てながら、口笛を吹いて、兵数で負けている現状を全く意に介さない軽快な足取りでフラフラとあちこちに顔を出し始めた。