第二十八話
今川治部大輔秀政は京へ使者を送っていた。
まずは、正式に治部大輔の任官を受けるため近衛家の当主に賄賂を。
ついで征夷大将軍である足利義輝の元に献金。
実にうまく行った。
今川治部大輔秀政は正式に治部大輔となり、名を義秀と改めた。
彼自身は義輝から一字を拝領して、義政とするつもりだったのだが、周囲の8代将軍と被るのは避けるべき、という意見に押されて義秀と名乗った。
今川の家は没落傾向にあったが、これによって傾きは変わった。
足利将軍の威光を借りて、三河の国人たちを寝返らせる事に成功した。
更には、北条と上杉の一時停戦を仲介し、双方に恩を売ることにも成功した。
今川の家は桶狭間以前と同等の影響力を持つ状態に返り咲いたのだ。
織田が南を松平に預けていることに危機感を感じ始めた頃。
今川軍は三河侵攻を開始した。
西三河は岡崎を中心として強くまとまっている。
屈強な兵士が松平家康の元に集まっているが、東三河を井伊直虎、飯尾義広、本郷長政らの説得で殆ど敵対することなく、手中に収め、敵の喉元へ手を伸ばした。
さて、松平家康。
『元康』という名から義元からもらった『元』の字を捨てて、今川からの独立を再度表明したわけだが、彼は迷っていた。
今、織田と同盟関係にあるが力関係は向こうが有利。
実質的には織田に従属しているようなものだ。
変わって、今川は当主が変わり、体制もガラリと変化し、急成長を遂げた。
元は東海の王であっただけあって、その軍勢は威圧感漂う恐ろしいものがある。
特に松平家康は今川秀政……ではなく今川義秀の性格を知っているから余計にだ。
本当に嫌なやつだ、と家康は思う。
桶狭間に乗じて独立を促しておいて討伐に来るんだから。
大方、面倒な三河者を駆逐しておきたいんだろう。
それに加えて、今川義元は武力で三河を制圧したわけではなく、謀略を働かせた。
そのせいか、三河は反骨精神溢れていた。
今度は武で示しに来たのか。
ともかく。
板挟みにあっている。
松平の成長のためには、織田か今川のどちらかを撃破しなければならない。
どちらに味方しても馬車馬のごとく使われる。
それでも独立を認められる織田の方が良いか
しかし、織田信長が援軍に来るのにはもう暫くかかる。
対して、今川義秀は西三河を無傷で手に入れ、大勢を引き連れて岡崎へ向かっている。
人夫の数が多いから、気を挫くような作戦を考えているのだろう。
腹立たしい。
松平の作戦としては織田の援軍を待つことに決めていた。
他家の力を頼りにするのは癪だが、仕方ない。
援軍待ちの籠城だ。
岡崎で籠り、可能ならば敵を退け、最悪でも援軍到着まで守り切る。
三河の力を見せなければならない。
三河兵は天下一だ。
武田の兵にも上杉兵にも劣るとは思わない。
三河者の面倒臭さと屈強さは他に類を見ないと考えている。
その全力を用いれば、勝てぬ敵など有りはしない。
今川の賢君と噂される今川義秀が相手であれど松平家康は怖気づきはしないのだ。
今川を破った後には北条氏康、武田信玄といった天下の名将が構えているのだから。
今川治部大輔義秀はまず、岡崎城に勧告の使者を出した。
こちらに殲滅の意志はなく、そちらが降るのならば受け入れるという意思表示。
まぁ。
当然だが、断られる。
次には。
大勢連れてきた人夫を使った。
兵が安息のために訪ねられる街を岡崎城から少し離れた、しかし視界には入るように作るよう指示を出した。
簡易的なもので、とにかく迅速を求めた。
そこに駿府や美濃から商人を呼び寄せ、連日連夜、市や祭りを開かせた。
岡崎から敵が出撃してくれば待機している今川兵が即座に反撃。
そうして、防衛もしつつ。
岡崎城の前に街を築き上げた。
また。
視界が闇に包まれ、灯りがなければ先が見えなくなる夜中になると黒備え兵が高天神城の時のように松明を掲げずに夜襲を二、三度仕掛けた。
時には太鼓の音だけが。
時には黒い敵が。
襲ったり襲わなかったり。
何にせよ、翌朝には敵の姿がない。
不安を煽る。
そして、昼間になると敵陣の後方、街が賑わっているのが目に入る。
苛立ちを募らせる。
その陣中。
普段、義秀は戦闘を全部国親に任せ、街作りの陣頭指揮を取っている。
部隊を交代で休ませつつ、じわじわと攻める。
そうして、包囲を始め三週間。
しかし、この時は珍しく本陣で碁を打っていた。
「織田の援軍が来るのは一体いつになるのやら。
あと、どれくらいだと思う?」
新たに女だけで構成された鉄砲隊を義秀から授けられた井伊直虎に訊ねた。
「私にはわかりかねます」
井伊直虎は碁盤に視線を向けたまま、答を返した。
「予測でいい。
別にお前の考えが当たるとも思ってはいない。
参考にするかもしれない程度だ。
気兼ねなく答えよ」
「では、あと一月もせずに来るかと」
「だと、いいんだがな」
「織田を待たずに岡崎を落とせばいいではないのでは?」
「それでは駄目だ。
三河者が従わない。
あの面倒くさい連中を跪かせるには織田、松平の連合を相手するくらいで丁度いい。
まぁ、織田は問題じゃない。
何のための今川と斎藤の同盟がある?
織田の本隊が動けば、美濃の長井道利が動く。
あいつは嫌いだが、信頼はできる。
織田が長くこっちに来れば、尾張が落ちる。
信長が統一したとはいえ、まだまだ揺らぐ土地だからな。
それだけは避けるだろう。
おそらく適当に軽く今川と戦闘をこなした上でこっちに恩をきせるような形で撤兵する。
俺はそれにあえて乗る。
そうやって、織田に対する苦手意識を捨てさせた上で三河を落とす」
井伊直虎は不満そうに主君を見た。
「ははは、そんな無駄なことはする必要がないか?
しかしな。
いずれ必要になるんだ。
織田か武田か。
どちらかを選ばなければならない時がくる。
それまでは両者と友好的でなければならない」
彼は直虎に笑みを向けた後、パチンと石を置いた。
「あっ……」
井伊直虎が思わず声をこぼした。
今、秀政が石を置いたことで、幾つか先の手で、自分の石が囲まれる事は必至となってしまった。
「まぁ、こういう事だ。
無駄と思える手もいずれ活きる」
「……殿には先見の明があるようで、羨ましく思います」
「そんなものはない。
ただ、こう物事が運んだら嫌だな、という最悪の展開に備えるだけだ。
臆病だからな、俺は」
「臆病ですか……」
「おう。
用心深いとも言うし、狡猾とも言う。
俺は極力、安全圏で謀っていたいんだ。
戦わずに勝てればそれに越したことはない。
時として、戦わねばならんこともあるがな」
「それは大将自ら夜襲をかけに行く御方のお言葉とは思えませんね」
「いいじゃないか。
俺だって戦場に立ちたい時もある」
「白河殿が諌めても、効果はないと……」
「いや、反省はする。
だがな、時折は戦場で暴れんと鬱憤が溜まる。
もしかしたら、駿府で辻斬りをやってしまうかもしれんのだぞ?
先陣に立っても良いではないか」
義秀としては冗談じゃないのだが、直虎は冗談と捉えたらしい。
それは大変ですねぇ、と笑って見せた。
「おうよ。
まぁ、あまり立たないようにはするがな。
これ以上、国親に心配をかけたらあいつが心労で倒れてしまいそうだ」
「それはあながち冗談とは言い難いですね……」
「だろう?
それよりも鉄砲隊の出来はどうだ?」
彼は思い出したように聞いた。
実際、今思い出したのだが。
「女は血に慣れているから、新兵で言えば、男よりは戦場での落ち着きは持てる。
後は、習熟度次第だからな」
「鉄砲に関しては、新田殿が直々に指導されたそうで文句はない出来かと」
「そうかそうか!
信長と家康は驚くだろうな。
なにせ今川の鉄砲隊はおそらく天下一になった。
数も技量でも負けん」
「そうでしょう。
織田は桶狭間で大打撃を与えたはずの今川がこれほど早く回復しているとは夢にも思わないことでしょうから」
早いと言っても、三年かかっている。
義秀こと秀政が桶狭間以前から今川に根を張り、乗っ取りを計画したことから考えてもかなり早い方であるとは思う。
ただ、本人は不服のようだが。
「直虎。
いかなる事態に陥っていようとな、他者が想像もできないほど迅速に対応し、回復しなければ俺の代では天下は取れないんだよ。
瀬名秀政から今川秀政、今川義秀と名を変えても、今までの行いは消えない。
俺には積もり積もった悪行があってな。
それを打ち消すほどの善行をしなければいけないわけだ。
それには常軌を逸するほどでなくてはならない」
義秀は扇を手の中で閉じたり開いたり。
「……殿、悪行とは?
よく殿のお言葉の中に耳にしますが何をなさったのですか?」
井伊直虎は興味津津といった様子で義秀を見つめている。
「そうだなぁ、口にしていいところでは、寺社の放火と辻斬りか
他に言えるのは……あー、人を攫って売ったりもしてたかな」
「何をなされてるのですか……」
怒るというよりは呆れた様子だ。
はぁ……とため息をついている。
「家を出た後、美濃で仕官するまでは色々とやってたんだよ。
若いが人生経験は豊富なんだ。
おかげで伝は多い」
「ですが、人攫いって……駿河・遠江の主が元人攫いだなんて知れたら評判が…………
もしかして、飯尾義広殿らの孤児は攫ってきたのですか?」
「そんなわけないだろう。
拾い児だ」
孤児の中には優秀な血筋だからと言って、野盗に両親を殺させた子もいたかもしれないが、些細なことなので覚えていない。
「それならば、良いのです」
「でも、何より一番の罪はこうしてお前らを戦場に引き連れていることだろう。
直虎、お前婚期を完全に逃しただろう」
井伊直虎は俯き、どんよりとした空気を発し出す。
「…………私は女性としての喜びを捨て、家に尽くす身ですので良いのです」
「はははっ、女当主も大変だな!
まぁ、お前ならいつでも俺の側室にしてやるぞ」
そうすれば、井伊家を今川家に併合できるしな。
井伊谷も直轄領になれば、遠江の前線は飯尾義広の引馬と合わせて防衛戦が完全なものとなる。
井伊に任せるよりは、俺が直接見た方が早いし、的確だからな。
いっそ強制的に直虎を側室にするか
いや、それは井伊家の家臣が反対する。
かといって、井伊谷を無理に直轄地にして、井伊家にどこか適当な場所を与えても反発はある。
直虎を引き込めれば楽なんだがな
「検討しておきます」
「おう。
まぁ、善処してくれ」
互いに前向きなようで後ろ向きな返答を。
互いが納得する返答をした。
松平の岡崎城に織田信長の援軍が着いて二日目に織田が仲介をするから和解をしないか、という使者がきた。
義秀は今川の陣中で織田と松平の当主が来て、交渉を行うのなら、席には参加すると回答を。
これを受けて、三河勢は更に反発。
和議を打ち切り、決戦に臨まんとする松平の兵を織田信長と松平家康は宥めながら、交渉の席を城と今川軍の中間地点に作り、会談するところまで話を持っていった。
そうして今。
まさにその時だ。
「護衛は一人と言わなかったかな?」
義秀は頬杖を付きながら、不機嫌そうにぼやいた。
「そうだったか?
すまん。
どうやら見落としがあったようだ」
一切悪びれた様子を見せずに、机を挟んだ対面に足を組んで座っている織田信長。
「まぁ、最初から守るとは思っていない。
しかし、アレだ。
こちらは先に告げた通り、一人しか連れてきていない。
一人を残し、他は城へ帰らせろ。
それくらいの誠意は見せるべきだ」
「良かろう。
お前ら、下がれ」
織田信長が連れてきた十数人ものの屈強そうな男たちに城へ帰る指示を出す。
「お前らもだ」
「しかし!」
「構わん」
松平家康も渋る護衛を戻らせ、陣中には大名三人とその護衛の計六人しか居なくなった。
「じゃあ、交渉を始めようか?
まぁ、そう殺気立つな。
茶でもどうだ?」
義秀は頬杖のまま、あくびをし、笑みを見せた。
織田信長も何が面白いのか、声を殺して笑っている。
一人松平家康だけが深刻な面持ちで力んでいる。
「護衛も気を抜け。
別にここで殺そうなんて考えちゃいない。
だいたい、ここは自軍と敵の中間。
奇襲がかけられない開けた土地だ。
数でいえば、4対2で不利だからな」
刀を腰から外し、床に転がす。
それを見て、二人も真似をする。
「松平、いや家康とかつてのように名で呼ぼう。
俺とお前は同じ釜の飯を食った友だしな。
こうしていがみ合い、争うのは本意ではない。
俺が言うことは一つだ。
松平家は再び今川傘下に入り、岡崎に軍監を置く事を認めろ」
義秀は相手の様子を気にかけることなく、あっさりと要求を告げた。
和睦交渉ではなく、降伏を促しに来たとまずは主張したのだ。
「待て待て」
織田信長は表情を変えた。
しかし慌てている訳ではない。
ただ、物見遊山気分ではなくなっただけだろう。
「俺はそのような話をしにきたのではないぞ。
和睦せよ、と言っておる」
信長は扇を開き、義秀を真っ直ぐ見る。
それに対して、相手は鋭く氷のように冷たい視線を返した。
「上総介、お前は誰に向かって物を言う。
お前の目の前に居るのは、今川治部大輔だ。
上から物を述べていい相手ではないと言う事すらも理解できんのか?」
「ふんっ!
蝮の子の使い走りをやらされていた男の言葉とは思えんな」
「懐かしい事だな。
今とあの時では立場が全く違う。
わからないのか?」
「充分に承知しておる。
その上で、述べている。
この信長は天下を統べる男。
たかだか遠駿の二国の主如きにへりくだる必要などないわ」
これを受けて、義秀の後ろで芦川光隆が刀の柄に手を掛けた。
いや、手を掛けるでは済まずに抜いた。
「妄言をほざきおって!
我が殿を愚弄しているのかっ!?」
今にも斬りかかりそうな剣幕で織田信長に向かって咆哮した。
信長と光隆の間に信長の連れてきた護衛が割って入り、庇うように立つ。
義秀はその様子を面白そうに笑顔で見ていたが、隣からの視線を感じてそちらを見ると、松平家康が頭を抱えていた。
その様子が面白かったが、これ以上やると彼が心労で倒れてしまいそうだ。
「光隆、抑えろ」
光隆の方を見ずに、静かに義秀が言う。
「しかし!」
「抑えろ」
家康は、だからこいつとは敵になりたくないのだ、と改めて思った。
一言は特に強く言ったわけでも、声量をあげたわけでもないのに、響いた。
底の知れない恐ろしさが込められていたと言ってもいいかもしれない。
恐いのだ。
藪を突いたら、蛇でも蝮でもなく、この世の何とも知れないおぞましい化物が出てしまうような。
敵にすると、何が起こるかわからない。
「すまない。
俺の側近は少々熱くなりやすい。
さて、天下を統べると言ったか?
面白い事を言う。
尾張一国、いや、まだ半国程度かな?
それの領主でしかないお前が天下だと?
いや、その天下が何処を指すか次第か?」
「天下とは畿内だけではない。
この日の本の武家社会の頂点に立つと言う事だ」
「尚更妄言ではないか
かつての源頼朝公、足利尊氏公になると。
男児たるもの夢は大きく持つべきだが、些か大きすぎる」
「そう言うがな。
治部大輔も天下を志すと聞いているぞ」
「俺には可能な目標だからな。
足利将軍家を継ぎ、王となるのは虚言ではない」
「ならば、信長が天下とて叶わぬ夢ではない。
お前が出来るというのなら、俺に出来ぬはずがない」
「まぁ、何とでも言うが良い。
人が夢を語ることを縛れはしないからな。
現実で叶わぬから、夢を見るのは自由だ」
笑みのまま火花を散らす両者の間に挟まれた松平家康は自分の身の不幸を嘆いた。
氏真であれば戦下手であったから、松平が今川に取って代わることも見えた。
が、しかし。
秀政……ではなく義秀が当主となり、厳しい状況に陥る。
背後には武田・北条を持つ今川は強大だ。
内で争っている間が絶好の機会であったものの三河国内がまとまらなかった。
釣り逃がした魚は大きいどころではない。
自分の明るい将来も逃げてしまった。
こうした規模が違う野望の持ち主に挟まれた自分は天下にそう見ない不幸の身であろうな、と一人悲しく落ち込んでいた。
「で、家康。
降伏しないか?」
扇を閉じたまま、家康に向ける。
家康は落ち込んではいたが、一瞬で切り替えた。
「お断り致す」
家康はそれを弾け除けるように強く言った。
「じゃあ、岡崎からの退去でもいい」
「答えは変わりはしません」
「では、何をしに来たのだ?」
義秀は巣への道を失ってしまった蟻のように首をかしげた。
「和議を取り結びに」
「なぁ、俺が和議に応じる利益はなんだ?
内の敵は排除し、外の敵は松平のみ。
それを狙わずにどこに行く」
「民に争いのない休息を与える、ではいけませんか」
「ならんな。
一時の平穏は後の騒乱を生む」
「しかし、遠江も駿河も疲労しているのでは?」
「いや?
むしろ意気揚々と三河攻めを望んでいる」
「…………」
「俺は松平家康、お前を一門衆として迎え入れよう。
義理とはいえ、兄弟だしな。
有能な人間は大好きだ。
特に、身の程を知っていれば尚更」
「松平では、今川に勝てないと?」
「言わずと知れる」
「しかし、先には一度敗れている」
「はははっ、氏真に勝ち、それを誇るのか?
例で言おう。
甲斐の坊主を退けたのならば、評価はしよう。
だが、氏真だろう?
あいつには政治の才はあっても、将としては三流。
家康、格下の男に勝って満足する程度の人間だったか?
もしかして独立が成功して、天狗になっているんではないか?
そうならば、そうでもいい。
俺の目が間違っていた。
気にかけるまでもない。
踏み潰すだけだ」
そう言うと、義秀は刀を掴み、立ち上がり、裾を翻した。
「では、次はお前が俺の陣で捕虜となる時に会おうか」
すると、笑い声が響いた。
織田上総介信長だ。
「家康、これは勝てんぞ。
家康も治部大輔もよう知っているが、共に英雄の気ある。
まぁ、経験を加え見ると治部大輔が上手だろう」
家康は吃驚して信長を見た。
「和議を結ぶにしても、相当の譲歩が必要だろう。
それで良いのなら、俺に任せてみんか」
その言葉を聞いて、振り返ったのは義秀。
ただ色のない瞳を上総介信長に向けた。
「つまらない事を言う。
和議なんて道はない。
俺に跪くか、淘汰されるか。
選べる道は二つだけ。
お前の言う先には何もない」
「実に面白みのない。
なければ、そうせざるを得ない状況を作り出せばよかろう」
義秀は唇だけを笑みの形に変えた。
目は変わらずに、感情を見せない。
「で?
今川が三河攻めを中断せざるを得ない状況を作り出すと。
駿河侵攻を、武田を煽ってるのは上総介か?」
信長はニヤッと笑った。
義秀はそれを見て、自分の予想通りであると見た。
「何を言うかと思えば。
戯言にも程があるな」
「まぁ、裏が誰であろうとどうでもいいが。
俺の覇道を阻むのなら、虎であろうが軍神であろうと踏み潰す」
「どうでもいいか
そういう余裕に溢れた態度は嫌いではない。
だが、ここでは関係のないことだ。
今は和議を結ぶ話の途中だ。
席につけ」
信長が扇で席を指す。
「ほざけ。
そのような無駄な時を過ごすつもりは毛頭ない」
「はははっ、この信長を前にして無駄な時など一つもないぞ。
全てが金銀財宝よりも貴重なものになる」
「自信過剰もお前ほどになると腹立たしいを通り過ぎて呆れる」
「過剰ではない。
自らの器に入る適量だ」
「本当に気に障る奴だな」
「そうか?
自分のこういう所は嫌いではないんだが」
「俺は嫌いだ」
「しかし、治部大輔も同じようなものだと思うが?」
「人から見たら、そうなのかもしれんな」
「外から見て遜色なければそれは同じだ」
「どうだかな。
目のある人間ならば、違いに気付く。
才能がある者だけを集めるには丁度いい。
無能は塵程度の価値もない」
「治部大輔の選民的な思想は好ましくない。
誰であろうと何かを持っているものだ」
「何かを持っていたところで、使い勝手が悪ければ、俺には必要のない。
欲しいのは、使える人材だ。
上総介も尾張統治の為に身分に関係なく優秀な者を取り上げているだろう?
使えない者をおいて置いても意義はない。
無駄な裏切りが増えるだけだ」
「そういうことを言うから、道三がお前ではなく、俺を後継者に選ぶのだと気付かないのか?」
義秀は舌打ちをして、頭を掻き。
そして、大声で狂ったように笑った。
腹を抱えて涙さえ浮かべて笑っている。
突然、笑やんで
「…………光隆。
やっぱ、こいつ斬っていいぞ」
真顔で信長を指差して、義秀は光隆に訊ねた。
「殿、自重してください」
義秀は不快そうに光隆を一旦は睨んだが、やがて息を深く吐いた。
「わかってるよ。
冗談だ」
「殿の場合は冗談に聞こえません」
光隆の主君は表情を一変させて、にこやかな顔を作った。
「そうか。
家康が固まってるぞ。
馬鹿だなぁ、本気で言っている訳がなかろうに。
俺と上総介は殺意を刃に込めて、互いの喉元に突き付けながら、会話する仲だ。
心配することなかろうに」
それを聞いて、光隆は思う。
本当に笑えない。
目が据わっているのは、どうしてだろうか
この人のどの感情が本物なのかを理解できない。
どれが演技でどれが素なのか
今の怒りは本物のように見えて偽物なのか
普段、井伊直虎殿や飯尾義広殿に向けているのは能面の笑顔では?
先日、大名とは役者である、と殿は言った。
『民が求める支配者を装い、自らの願望を叶える為には演技者でなければならない。
だから、俺は何にでもなれる。
大量殺戮を行う非道な支配者にも、善政を慕われる領主にも、ただ快楽の赴くままに人を斬る辻斬りにも』
『だから、同情はない。
慈しみや情けもない。
愛する人間であろうと必要となれば、殺せる。
体に流れている血が他と同じ赤であるのがおかしい人間だ』
『光隆、俺を殺したくなったらいつでも殺していいぞ』
とも言った。
余計、人がわからない。
あの人が何を考えて、何を心に置いて行動するのか
そんな事を光隆が考えていたら、義秀が尾張と三河の領主に向けて改めて言った。
「上総、家康。
俺は和議は応じるつもりはない。
ここで散らすのは些か惜しいが、俺の邪魔をするのなら死ぬが良い」
そう言って、義秀と光隆は今度こそ本当に陣幕をくぐって出て行った。