第二十六話
「国親ぁぁぁぁ!!!」
珍しく駿府城に秀政の慌てた声が響き渡る。
慌てているのは稀有だ。
いつも国親に秀政が叱られているが、狼狽はしていない。
「どういうことだ、これは!?」
「さ、さぁ?女子とは実に不可解ですゆえ」
「どうしてあの姫君はこういう返答をする!?
頭の中はどうなっている?
はっきりと俺は嫌いだ、と言ったのだぞ!?
あれか!?
家のためか
いや、でもきちんと言ったぞ
嘘だと思われたか!?」
頭を抱え、転がり回っている。
「おい、どうするんだよ!?」
「受け入れる他ないかと」
「くそっ!
俺が自分で決めりゃよかった!
左京大夫に恩を売ろうなんて考えなきゃ…………」
「ですが、北条家の息女はみな良妻になると聞きますし」
「俺は閨に入ってまで人に気を遣いたくはないんだ!」
「殿。
ご自分でなさったことなのです。
まっとうする他ないでしょう」
「…………そうだよな。
はぁ……
では、祝う準備をしておけ。
諸国に今川は健在と示すためにも盛大にな」
肩を落とし、フラフラと屋敷の奥へと下がっていった秀政を見て、国親はため息をついた。
(殿は一領主であろうと国主であろうと揺るぎがない。ただ、もう少し自覚を持って欲しいものだ)
その数日後に武田から祝いの使者が訪れた。
使者として来たのは、秀政と誼がある武田義信の傅役の飯富虎昌だ。
虎昌が城門をくぐり、誰かに城内を案内させようと、見渡すと一人の古びた野良着姿の髪を後ろで粗末な紐で縛った下男が掃除しているのが目に入った。
「おい、そこの。
某は武田家の飯富兵部小輔という。
今川殿の元ま取次ぎを致せ」
下男が手を止め、視線を地面から少しだけ上げ虎昌を見た。
「これはこれは甲山の猛虎と名高い飯富様か
して、何の御用なのでしょう」
「お前に言う事もなかろう。
いいから、取次をせよ」
下男が取次に行き、暫し待つ。
やがて来た若い男が虎昌を案内し、本丸の広間で待つように言った。
そう待たずして、これまた若く、髪の長い男が扇子で扇ぎながら入って来た。
「俺が今川治部大輔だ。
にしても、今日は暑い。
川で泳ぎたいものだな」
「はぁ」
虎昌は曖昧な返事をした。
いきなり何を言い出すのかと思えば水泳をしたいとは。
「我が殿より、祝言を預かってまいりました」
飯富虎昌は顔を上げ、今川治部大輔の顔を見た。
美男である。
女のような顔の作りをしているが、老武者のように穏やかさと迫力が同居している。
「なぁ、兵部小輔。
我が殿とはどちらだ?
信濃守か義信か」
武田晴信(この当時には既に出家し、信玄と名乗っているが、晴信で統一させていただく)は信濃守という官位にある。
ちなみに義信はまだ若いため、無官だ。
「はっ、信濃守様よりの言伝に」
「そうか。
では、見せよ」
虎昌が文を秀政に渡す。
その内容は、当主就任の祝いと北条・今川の婚談成立に関する話で、所々に苦情が入っている。
わかりやすいところでは、こちらにも相談をして欲しかったなどと書いてあるらしい。
他にも、色々と遠回しの非難が連なっているらしいが、某が気にすることでもない。
文を読み終わり、秀政は悪戯を思いついた子供のような表情を見せる。
「兵部小輔。
今の武田の屋台骨は誰だと思っている?」
「殿でしょう」
これには即答した。
迷う必要などないからだ。
「では、武田信繁殿と信濃守では?」
しかし、これには迷った。
武田信繁様はこの前の上杉との戦で殿や皆を逃がすために奮戦し、戦死されたが、あの御方が存命の頃を振り返ると比べるには厳しいものがあった。
「難しいかと。
殿は皆の上に立つに相応しい優れた方ではありますが、信繁様が居られた頃はあの御方が家臣団と殿を結んでおりました。
御二方が武田を支えておられたと」
秀政はこの返事に満足したのか仕切りに頷き、笑みを見せる。
「兵部小輔、俺は義信を高く評価している。
いや、正確に測れていると言った方がいい。
彼は名将となり、その名を天下に轟かせるだろう逸材だ。
今の武田を支えているのは信濃守殿と義信。
この二人だ。
片方が欠ければ、武田はいずれ崩れる。
今、二人は不和であるという。
俺はこれをよく思わない。
俺が言う事でもないが、家中の不和は良くない。
迅速に仲裁すべきだ。
他家の人間である俺が介入するのは望ましくない。
兵部小輔が間に入り、宥めておくべきだ。
武田のためにな」
上からものを言われている感じは腹立たしいが、その通りであると言える。
家中が乱れれば、そこを付け込まれかねない。
迅速な収束が望まれる。
「わかっております」
「そうか。なら、良い」
秀政が立ち上がり、奥に戻ろうとして何かを思い出したかのように立ち止まった。
「義信と信濃守殿にその内甲斐を訪ねたいと思っていると伝えておいてくれ」
それを言うと奥の部屋に入ってしまった。
次の間で待っていた先程の若い男とは違う大柄な男が虎昌を城門まで案内する。
「すまないが、髪の長い下男がいるだろう。
彼に取り付いでくれた礼を言いたい」
「下男にですか?」
「相手が誰であれ礼節を以って接すべきであろう」
「ああ、そういう意味じゃないです。
城で働く男に長髪なんて居ませんよ」
「は?だが、某が訊ねたのは長髪の男であったぞ」
大柄な男は暫く考えたあと、手を打った。
「…………それは殿でしょう。
殿は時々変装して雑用やらをおやりになるので」
「……………………言われてみれば、今川殿に似ていた」
「では、確実に殿でしょう。
あの方に似ている人なんてそうそういやしません」
飯富虎昌は狐に包まれたような気分になって甲斐に戻って行くことになった。
秀政は式の準備を急がせる一方で、美濃から小夜が育てている孤児たちを呼んだ。
もちろん小夜も含めて全員だ。
駿河国内に孤児院を作り、そこに移したのだ。
美濃の情勢はめまぐるしく変わっている。
白海城を竹中半兵衛の居城としているおかげで、孤児院は潰されなかっただけで本来ならば危うかっただろう。
美濃は道三の弟である長井道利が実質的な支配者だ。
斎藤利治は傀儡として存在し、その養子に斎藤義龍の息子である龍興が入っている。
まぁ、美濃はどうでもいい。
今は駿河の話をしよう。
連れてきた孤児の内15歳を過ぎているものを全員元服させ、今川の準一門の家として小鹿氏を名乗らせた。
元々、秀政は彼らを手足として使うために家の束縛がない孤児を集め、育てていたのだ。
小夜はそう言ったことを考えず、純粋に子供達を想い、世話をしていたわけだが。
で、小鹿氏はかつて今川一門の家だったが、断絶していた。
それを復活させた形になる。
その小鹿と名乗ったうちの一人を飯尾連竜の娘と婚約させた。
名前を飯尾義広と改めさせ、引馬城に入城させた。
連竜は先陣を自ら主張し、負けた事を秀政に追求された挙句に自害せよ、と言われるまでに至っていただけにこの話を受け入れる事で機嫌を取ろうとしたわけだ。
他には、幾つかの家に養子や婿養子を入れた。
元を言えば、何処の馬の骨かもわからない血を一族に引き入れることに抵抗を示す者は多かったが、秀政がこの提案を出したのは一族の者が武田や松平に密通していた経歴があるものだけだ。
そういう事情があって受け入れる他はなかった。
そうして、秀政は国人衆を徐々に取り込んで行った。
まずは大名権力の強化を計っていたわけである。
それだけではなく、人心を掴んでおくための政策も幾つか同時に行っている。
ただ、順調とは言い難い。
氏真本人があっさりと駿河を離れてしまった為に目立った反乱はないが、処理しなければならない案件が多すぎて手が回っていないのだ。
その面でも孤児たちの投入は必要だった。
彼らは秀政が選んできた文化人による教育と国親による武芸を身に叩き込まれている。
それに元々孤児だ。
立場としては侍よりも百姓。
だから政治の前線で役立つと見込んだ。
成果が具体的に上がるのはこれだが、期待はしている。
様々な事をやりつつも、変わらず秀政は自由奔放である。
気付けば、人夫に混ざって城の補修工事に参加していたり、台所で女衆に混ざって握り飯を作っていたりと国親の手を焼かせている。
問題を起こしはするが、城の雰囲気は明るく陽気だ。
北条と今川の婚式は実に盛大で賑やかなものとなった。
当時の結婚式には3日間かける。
その形式として決められた3日間を終えた後に新郎側で宴会が執り行われる。
この宴会が盛大なのだ。
城の外に広大な宴会場を設け、城下の町人たちも招き入れ酒を振舞った。
これには出家していた義元も小田原にいた氏真も戻ってきて参加していた。
人数は数えきれないほどだ。
盛り上がらない訳がない。
盛り上がりすぎて困ったほどだ。
北条家では礼式を重んじる。
ここまでの大事にするなど考えないだろう。
しかし、秀政からしてしまえばお祭り騒ぎにしてしまいたい。
町人たちの自分に対する心象をよくするためにもここは重要なのだ。
新郎である秀政は酒を浴びるように飲んだり大騒ぎはできないが、眺めているだけで楽しい。
ただ、面倒なのは酔った連中がひっきりなしに挨拶にくることだろうか
これだけは失敗だ。
「殿!
いや、おめでたいですな!
こんなに美しい姫君を貰うなんて羨ましい限りですぞ!」
幼少の頃を知っている安部元真が来て、しわだらけの顔を更にくしゃくしゃにしている。
「元真、泣くな。
いい年した爺がみっともない」
「ですが、ご立派になられて…………
わしは嬉しいですぞー!」
「わかった。
わかったから、あっち行け。
お前酒臭いぞ、飲み過ぎるなよ」
「わははは、心配ござらん!
まだまだ若い者にゃ飲み負けはしませんぞ!」
「誰もそんなこと心配してないんだがな…………」
やっぱり面倒だ。
もっと規模を小さくすべきだった。
具体的には俺と国親の二人で晩酌をするくらいでちょうどいい。
主役がここでいなくなるわけにも行かないだろうし、どうしたものか
ふと、何と無く隣の千鶴姫に視線をやる。
実に心細そうに視線を彷徨わさせていた。
それもそうだ。
人見知りな上にこんな知らない連中だらけのところにいきなりぶち込まれたら不安だろう。
知っている者と言えば、小田原から連れてきた侍女と氏真の妻である早川殿くらいなのだろう
「いや、申し訳ない」
秀政は千鶴姫に対して軽く頭を下げる。
千鶴姫はそれに驚いて、顔を上げてくださいと言った。
「いきなりこれは不安だろう。
どうする?
もう城に戻るか
なに、気兼ねする必要はないぞ
こいつらは主賓が居なくなっても騒いでいるだろうしな」
どこからか鼓を持ち出したらしく、音に合わせて舞を舞っている人が見える。
「では…………」
「わかった」
秀政は立ち上がると小姓を呼びつけて、国親を呼ぶように命じた。
程なく現れた国親に
「俺は戻る。
姫に風を引かれても困るしな。
あとは頼んだぞ」
肩を軽く叩いて、秀政は姫と侍女を連れて、城の方へ戻って行った。
残された国親は目の前の光景の後始末を考えて気分が落ち込んだが、小夜がやってきて
「一緒に飲みませんか?」
と聞いたのですぐに晴れてしまった。
城では、秀政が千鶴姫に質問を浴びせていた。
侍女は話が聞こえない所に下げさせ、二人きりにしてだ。
「どうして婚談を承諾したんだ?」
千鶴姫はふふっと笑うと、小さく首を傾げる。
「嫌でしたか?」
そう聞かれて秀政は組んでいた腕を組み替える。
「そうではない。
理由を知りたい。
俺は嫌われる理由こそあれど他は思い当たる節がない。
それに家の為になら、俺はどう転ぼうと変わりはないと言ったはずだ」
千鶴姫はそうですね……と言って考えている素振りを見せる。
「面白いと思ったからでは駄目でしょうか?」
「面白い?」
「殿ともう少しちゃんと話してみたいと思っただけですよ」
「よく分からん。
まぁ、いい。
姫が自分で決めたのならばそれに従うと言ったのは俺だ。
夫婦仲良くやろうではないか」
「では、姫ではなく千鶴とお呼びください」
「では、千鶴。
先に言っておく事がある。
俺には側室が二人いる。
うち片方には既に俺との娘一人がいる。
それを承知しておいて欲しい。
あとな。
うちの城にいるやつは顔こそ恐い者も居るが皆いい奴だ。
人見知りであることは知っているが、怯えずに声をかけてやってくれ。
あいつらは単純だからな。
千鶴に一声貰うだけでその日の仕事は捗るだろう」
千鶴姫は意外そうに秀政を見て微笑んでいる。
「なんだ」
「いえ、殿は楽しそうに話すのですね。
小田原の時はつまらなそうでしたのに」
「あれはまぁ……気にするな。
にしてもだ。
その腕は白すぎはしないか?」
千鶴姫の腕をとってまじまじと見つめる。
「日の光を浴びないと駄目だぞ。
体が弱る」
秀政は自分の腕と見比べて、頷く。
やはり白い。
そういえば、葵も色白だった。
姫というのは皆そうなのだろうか?
「あの……そう見つめられると恥ずかしいのですが」
「む?そうか。
それはすまん」
手を離し、秀政は手を千鶴姫の頭の上に載せる。
どうしてか
人の頭の上に手を置くと少し和む。
「さて、城の中を案内しよう。
ついて来い」
立ち上がって、襖を勢いよく開ける。
すると、千鶴姫が連れてきた侍女が数人、中に倒れ込んだ。
「あらあら」
姫はつい笑ってしまっている。
「全く。
次やったら打ち首にするからな」
秀政は呆れつつ侍女を立たせてやり、全員に一発ずつしっぺを罰として与えた。
「ちょうどいいや。お前らもおいで。
案内してやろう」