第二十五話
秀政が小田原を訪問すると決めたのは翌月の事だった。
氏真をよく思わない領民や兵もいることから氏真夫婦を小田原に送ろうという話になり、ならば俺が付き添って行こう。
と周囲の反対を無理矢理に押し切って決めた。
秀政の指示で、家騒動が原因で田畑が荒れたことから駿河では今年度の年貢を免除し、検地を行っている。
それらを全て国親に任せ、秀政は芦川光隆を自分の親衛隊に入れ、彼を含む20名ほどの護衛と共に氏真夫婦と旅立った。
異論を唱えにくる暇さえ与えないほどの迅速すぎる行動に国親は呆れたものの自分の主君が変わらないことに少々安堵していたりもした。
道中に泊まった民家で秀政は氏真を問い詰めていた。
駿河で行わなかったのは、あそこでやるとすぐにでも行動に移りたくなってしまうからだ。
小田原に行く道中に訊ね、真相を知り、頭の中でそれを整理する時間を手に入れるための訪問でもある。
「母上を殺害したのは誰だ。
お前は関わっているか」
逃げることを決して許さないと氏真の前に仁王立ちで問う。
復讐はくだらないと割り切ったもののやはり母親の仇は自分の手で何らかの罰を下さないと気が済まないらしい。
「わ、私は関わっていないぞ!
後で知ったのだ。
母様が私の為にやったのだと」
氏真は俯いて、残念そうに溢す。
「母様だと?」
そう繰り返した秀政は拳を血が滲むほど強く握りしめた。
噛み締めた唇が切れた。
口の中に鉄の味が広がる。
嫌な気分だ。
生を受けてから二番目に最悪な気分になった。
氏真の母である定恵院は既に死んでいる。
死んでいる人間を殺すことはできない。
墓を暴き、辱める事はできる。
だが、それは決してやってはならないことだ。
思いの行く先がなくなってしまった重い感情が秀政の中で渦巻く。
つい壁を殴ろうとして、留まる。
怒りに任せた破壊するのは良いが、こんなことで壁を破壊しては家を快く貸してくれた民に申し訳がない。
「他には。
共謀者がいるだろう。
朝比奈か?」
そう。
武田の娘として育てられ、今川に嫁いだお嬢様が盗賊を雇い、襲わせるなんて芸当できるとは思えない。
たいがい協力者がいる。
特にこういう手口の場合は!
あえて落ち着いた声を出すように心がけた。
そうでもしないと、目の前に居る氏真を八つ当たりに斬り殺しそうになってしまう。
「知っている限りだと武田晴信に飯尾連竜の二人だけだ」
秀政は血走った目で氏真の顔の横にドンと音がつくくらい激しく手を置いた。
「真か」
「本当だっ!
嘘はついていないっ!」
氏真は狼狽した。
それも目の前にいる弟は殺気立っているからだ。
もし、何か些細なことでも機嫌を損ねたら間違いなく殺される。
そう確信できたからだ。
「そうか。
ならいい」
秀政は氏真に背を向けて、大きくため息を吐いた。
「氏真」
首だけで振り返った。
酷く疲れ切った表情で秀政は悲しげに言う。
「すまない。
今のは忘れろ。
全く嫌になる。
俺はお前が嫌いだが、今は自分の方が嫌いだよ」
卑屈な乾いた笑いを残して、その民家をあとにした。
小田原に着き、秀政たち一行は登城した。
その最中で秀政は氏真に一つだけ訊ねた。
「お前は京に行き、今川と禁裏の繋がりになる気はないか?
和歌に長け、文学や作法に精通しているとなれば公家とよくやれると思うんだが」
「京………………」
その響きがどこか魅力的だった。
駿河で国主をやっていては行けなかった土地だ。
そして、風流を嗜む彼にとっては聖地のようなものでもある。
「いや、今は妻と共に平穏に暮らしてたい。
京には行かない」
氏真はそう言って一旦言葉を切り、横にいる妻である早川殿を見つめる。
北条氏康の娘である彼女は氏真と仲睦まじい夫婦だ。
「私は凡才なんだ。
武家の頭なんて向いてなかった。
だから、お前に負けても自然と悔しくはなかったなぁ。
いつだったか無駄な誇りだけを持っていると言われたが、そうだ。
松平に敗戦を味わってわかったよ。
誇っても中身が伴わなければ意味はないのだな。
その分、お前は才能もあり、努力もしているのだろう。
私なんかよりもよっぽどあの位置に居るべき人間だ」
「お前は一体どうした?
いつになく気持ちが悪い」
「いや、なに。
色々と知ったのだ」
「まぁ、いいがな。
お前は武士じゃなくて歌人であり、公家に向いている。
俺はそう見ている。
だから、城の広間に連座している姿を阿呆らしいと思った。
自分の戦場を見つけることは人生で大事な事なんだよ。
どんな才能があっても、それを活かせなければ意味はない。
それを教えてくれたのは道三様だが、あの方は自分の全てを使い、試すために国主になり、天下を目指したのだ。
お前もそれくらいやれ。
もう今川の家に縛られることなくやりたいことを徹底的にすればいい。
周りに迷惑をかけることを厭わずにやるくらいで丁度いい」
氏真は嫌いだが、もう二度と俺の敵として前に立つことはない。
それは確信できた。
敵でないのであれば、俺は彼を高く買っている。
かつての敵であったからこそ、今は友になろうと思う。
俺は自分勝手で我儘な子供だが、それに振り回されている人にはたまには礼の一つでも述べなければならないだろう。
ふぅと息を吐いて、一旦落ち着く。
そして、表情を改める。
「早川殿。
申し訳ないのだが、この愚兄を支えてやってはくれないだろうか?」
氏真の正室である早川殿をクスクスと笑う。
「何を言うかと思えば。
私は殿に嫁ぐと決まった時から、死ぬまでご一緒するつもりです。
それはたとえ、家を離れても変わることはないでしょう」
秀政はほほぅ、と唸って早川殿と氏真を交互に見る。
「実にいい女性だな。
俺が正室に欲しいくらいだ」
「な、何を言う!
私の妻だぞっ!」
「わかってる。
冗談だ。聞き流せ。
が、氏真。
ちゃんと大事にしろよ。
こんないい女そうそう出会えるもんじゃない」
特に政略婚ではな。
羨ましいね。
俺はどうしてか自分からぶち壊してしまうんだよな。
葵は息災かな?
安藤伊賀守も裏で色々と動きながら立ち回ってることだろう。
美濃の情勢にはすっかり疎くなってしまって、いけない。
駿府に戻ったら話を聞かねばな。
「さて、北条殿に挨拶に行かねば」
相模の獅子に挨拶だ。
当主交代の挨拶と桜の婚談を持ちかけるつもりで来ている。
「おぉ、よく参った!
さぁ、お気楽なされ!」
初老と言うにはまだ少し若いか
白髪が目立ち始めてきた年の男が奥に座している。
笑顔で秀政を見ている。
穏やかな雰囲気でこそあるものの、見られている側の秀政からすれば緊張のしっぱなしだ。
見定められているのだ。
同盟相手に相応しいか
もしも、取るに足らない相手であれば喰う為に。
「お初にお目にかかる。
今川治部大輔秀政と申します」
対面にあぐらをかいて座り、軽く頭を下げた。
ちなみに治部大輔は自称であって、正式に任官されたわけではない。
「うむ。
わしは北条左京大夫氏康じゃ。
そう堅苦しくせんで良かろう。
もっとくつろいでいいのだぞ」
秀政は気付かれない程度に小さく息を吐く。
「そうは言われましても、俺は貴方を師と仰ぎ、学んできた身。
まぁ、勝手に俺が思っていただけですがね。
憧れの左京大夫殿を前にくつろげる方が難しいのですよ」
秀政はニコッと微笑んで、氏康を見つめ返す。
「隣国に北条、武田といった強国を持った事は我が身における数少ない幸運の一つでしょう。
隣国が強ければ強いほど、俺は一挙一動に気を配り、民のことを想う政治ができるというもの。
本日はその礼を言いに参ったのです」
氏康はゆっくりと笑顔を消した。
秀政も笑みを消す。
「左京大夫殿から一方的に授かっていては申し訳ない。
今はまだ時が満ちていませんが、いずれ必ず恩を返させていただこうと思っております」
氏康は凄まじい迫力を以って秀政を威圧する。
何気ない一動作でさえも重みを持って襲ってくる。
「それはわしを越えると言うことか」
「是とも非とも言えませぬ。
俺は万能ではないと自負しております。
左京大夫殿にどう足掻こうと勝ることができぬ部分は数えきれぬほどありましょう。
しかし、全てにおいて負けているとは思ってはいませぬ。
ゆえに述べるのです。
国主として経験を積み成長すれば、左京大夫殿を越える所もあると」
氏康はふっと鼻で笑う。
「大層な自信だ」
「自信なくして国を率いることはできませぬ。
上に立つ者が不安では国も揺らぐというもの。
ゆえに俺はいつ何時であろうと常に自分を持っていまする」
「では、今川を立て直せると?」
「はははっ、愚問ですな。
立て直せるではなく、俺が立て直すのです」
「良き心がけよ。
さて、治部大輔殿よりも長く当主をやっている経験から幾つか教えて差し上げよう。
民と配下の将には常に慈しみを以て接するべし。
すれば、彼らはいつ何時でも味方となろう。
次に大名権力の増強を図り、国人衆の権利を削いでいくべし。
国人衆が力を持ちすぎれば、それは災いの元となろう。
最後に誰を贔屓するでなく、公平であり続けること」
氏康の言葉を噛み締め、秀政は一度頷く。
顔を上げ、笑みを見せた。
「左京大夫殿。
その教え、有難く学ばせて頂いた。
我が血となり肉となるでしょう。
それを以って、国を見事治めた暁には礼を致しに参りましょう」
金がいいか、米がいいか
秀政が何を送ろうか迷っていると、氏康が微笑んだ。
「礼など不要。
そういうつもりで言ったのではない。礼を受けてしまえば、当人はどうであれ人にそう思われてしまって困る。
ところで、改めて一つ問うていいか?」
「どうぞ」
「国を治めていく上で最も必要な学問はなんだと思っている?
兵術か槍術か」
秀政は顎に手を当てて、少し考える素振りを見せた。
「その二つではありませぬな。
俺は算術であると。
戦に出るにもまずは兵糧を計算せねば始まりもしませんでしょう」
氏康はその答えを聞いて表情を輝かせた。
それはまるで曇りが続いた中に突然太陽が顔を見せたようだった。
「実に良し!
算術と答えるとは!
わしと同じじゃ!
流石は治部大輔を継いだだけはある。
大いに気に入った!
治部大輔殿よ、これよりわしと貴方は盟友だ。
もう一人の父と思い、頼って良いぞ」
「ありがたき幸せにございます」
秀政は頭を下げる。
満面の笑みを見られてしまうのは些か恥ずかしい。
嬉しいのだ。
あの相模の獅子に認められた。
それだけで天にも舞い上がってしまいそうだ。
「ところでな。
話は変わるのだが、治部大輔殿には正室がおらんと聞いたが、真か?」
氏康はぐいっと体を前に乗り出して訊ねている。
「今は居りませぬ。
一度離縁し、正室は空いたままに」
「ほほぅ!
それは良い。実に良かった!」
氏康は膝をぽんと叩いて立ち上がり、上機嫌なのかしきりに頷いている。
「はぁ」
「実はな!
わしの娘を嫁にやろうと思っておったんだが、いい奴が居なくてな。
治部大輔殿なら誰よりも相応しいのだが、どうだろうか!」
自分の娘たちが心配でたまらないらしく、嫁ぎ先にもしょっちゅう文を送ると有名な北条左京大夫氏康の四女は一度結婚したのだが、相手がわずか17の若さで死去してしまい、それ以降実家に戻っている。
その四女を秀政にどうかと言っているのだ。
「左京大夫殿の娘と言われると四女の千鶴姫の事でしょうか?」
氏康が大事にしている娘だ。
離縁して戻ったきた娘を新たに嫁がせることをせずに、ずっと手元に置いているのだから大事にしているのだろう。
ただ良い縁がないだけかもしれないが。
「おぉ!
知っておられるか!
そうよ!
千鶴のことなのだ。
すぐには答えを出すのは厳しかろう。
どうだ?
小田原に暫し滞在しては?」
秀政は魅惑的な提案に心動かされた。
氏康の娘を正室に貰えば、北条との同盟は確実なものとなり、東の不安は断つことが出来る。
「いえ、未だ国内が不安定ゆえ早く戻らねばならんのです。
本日とて無理を言って、兄の送迎で来たのです」
「おぉ!
そうであったな!
では、引き止めはせん」
正室か
どうする?
とりあえず一度は見てみるか
「…………戻って返答を考える前に一度千鶴姫とお会いしてみたいのですが叶いますでしょうか?」
「いいぞ!
すぐに連れてこさせよう!」
氏康は小姓に連れくるように告げ、秀政とたわいのない話を始めた。
ただの世間話だ
昔ここいらには人斬りが居て、治安が乱れていたとか最近は飢饉に陥って大変だっただので氏康の政治手腕の見事さを改めて知ることになったのだ、この場に関係のあることではない。
加えて、左京大夫氏康からニつ頼まれごとをしたわけだが、それはおいおい話すとしよう。
今はまだ言う時ではない。
さて。
呼ばれて来た千鶴姫は幸が薄そうだ、という印象だった。
別に醜い容姿をしているわけではない。
どちらかといえば、良い方と言えるのだろう。
黒い髪は艶やかで、端正な顔立ちの小柄な美しい女性なのだ。
しかし、どうしてか
不幸を背負っているというか、体が弱そうという印象を受ける。
肌が白いのが、そう見せているのだろうか?
「今川治部大輔殿だ。
先日の家騒動で新たに当主になった」
と氏康が秀政を紹介する。
軽く会釈をし、氏康の手前なので微笑んで見せる。
「こっちが我が娘の千鶴。
少々人見知りでな。
そのせいか初対面の相手の前だと萎縮しているが、気を悪くせんでくれ」
「いえいえ。
実は俺もそういう節がありまして。
表に出ないだけで酷く狼狽しているのですよ」
相手に気を使って自分もだと言う。
女にどう思われようが関係はないが、氏康からの評価は非常に大事である。
「うむうむ。
より気に入ったぞ
千鶴よ、お前をこの治部大輔殿の正室にとわしは考えておる」
千鶴姫が恥じらった様子で、秀政を見る。
それを秀政は笑顔で受け止める。
「左京大夫殿、暫し姫君と二人で話をさせてはもらえませぬか」
「二人でか…………
一応は小姓を次の間に立てておくが、よかろう?」
「はい」
「わかった。
わしは席を外すとしようか」
氏康が席を立ち、足音が遠ざかって行ったのを聞くと、秀政は笑顔を消して、鋭い視線を千鶴姫に投げた。
座っている態勢もだらしなく崩している。
「改めてだが、俺は今川治部大輔という。
つい先日家督を継いだばかりの若輩だけどな」
「……耳にはしています」
「なら、話が早い。
貴方はこの話を受けるべきか、どう思う?」
「え?
私に聞くのですか?」
「貴方以外に誰がいるのでしょうか?
ここには俺と貴方しかいないのに」
何を当たり前のことを聞くんだと言い返す。
まぁ、若干毒が含まれてしまったのは見逃すとしよう。
次からは気を付けなければ。
「私は父がそう決めたのであれば従うだけです…………」
ボソッと返した姫を秀政は心底つまらないと思った。
一見薄幸そうに見えるのはこれだ。
自分の行く末に明かりを見出していない。
流れに委ねている。
はははっ!
実にくだらない。
つい口から転がり出そうになった悪態を飲み込み、にこやかな笑みを作った。
「さてさて、姫君。
左京大夫殿は同盟の強化を望んでいる。
それゆえにこの話なのだろうが、俺は北条とは友好的な関係を続けて行きたいと考えている。
しかし、この話に乗り気なわけでもない。
よって貴方の意志にお任せしよう。
俺は一切の異議も唱えない。
そちらの判断に全面的に賛同する。
もし、破談となろうと俺は関東におけるできる限りの援助はしよう。
だから、成立しようが潰れようと両者に目立った損はない。
純粋に貴方の意志で決定することができる。
そう。
左京大夫殿や俺の思惑を完全に無視して、独自の結論を導き出すといい」
千鶴姫は吃驚したように目を大きく開けて秀政を見ていた。
「俺は自分で考え行動する人間が好きだ。
貴方はどうだろう
諦めているというか、諦観とは少し違うんだよな。
いや、でも悟りに近いから諦観という言葉で正しいのか?
……まぁ、いいや。
貴方からは自分で行動しようという意志を感じない。
だから、俺は今の貴方が嫌いだ。
さて、ここで一つ。
自己を持ってみせてはどうか?」
秀政は立ち上がり、腕を組んで、近くの柱に寄りかかった。
姫は相変わらず俯いたままだ。
ただ、何も思っていないわけではないようで、拳を握り締めている。
「……北条左京大夫の娘です。
私は外交の道具なーーーー」
「それがどうした?
道具なら道具なりにやり方を模索しろ。
していないから諦めがつくんだろう」
「男である貴方には女である私の気持ちは理解できないでしょう」
「したくもないけどね」
千鶴姫が鋭く睨む。
秀政は意に介さず、姫を指差す。
「だいたい恵まれているとは思わないのか?
衣食住。
すべてに困ることないのだろう。
その日の寝所がなくて、寂れた寺の本堂に忍び込んだ事もないのだろう?
食に困り、数日間も何も食わなかったこともない。
街道の脇に生えている雑草を食べたこともないよな。
衣が汚れていようと、替えはないなんて生活はしていないのだろう。
だったら。
仮に親が進路を全て決めたとしても、それは恵まれている。
今川の家に戻って思うよ。
実に不愉快だ。
不幸を嘆く者は大概自分より劣悪な環境に生きる人間を知らない」
殺意さえ篭っていそうな視線に射抜かれながら、秀政は飄々と話した。
柱から離れて、秀政は腕を軽く回した。
「さて、俺は駿府に戻る。
後日、使者を出そう。
その時に、『俺の結論は姫君に伝えてある』と言わせよう。
それで、貴方が述べてくれればいい。
ではな」
秀政は悪い笑みを見せつつ、そう言い残して出て行った。
別室で北条左京大夫氏康と今川治部大輔秀政は会食をしていた。
「いや、実にすまなかった。
あのような頼みをしてしまって」
「お構いなく」
「あの子はわしが何から何まで世話を見過ぎたせいか、達観してしまってな。
誰かにああ言って火を付けさせねばならんが、家中の者では皆困ろうて」
「俺として悪役を買って出ることに全く問題はありませんが、おそらく婚談はなくなりますよ」
「そうなんじゃ…………
あのままでは行き遅れてしまう……
やはり治部大輔殿、貰って行ってはくれまいか」
「はははっ、左京大夫殿。
そうやってお決めになるから姫君が拗ねてしまうのですよ」
「おぉ、そうであった!
しかし、どうにも年のせいか、頭が回らんことが増えてきてな。
今の内に娘を嫁がせておきたくてな」
「まぁ、姫君次第でしょう。
案外、これに動かされるやもしれないではありませんか」
「ん?
治部大輔殿は千鶴との婚約には前向きなのか」
「まぁ、あの場ではそうは言いませんでしたが。
俺としては、憧憬する左京大夫殿の姫君と結ばれるのは願ってもないことです」
「ふむふむ。
では、後日。
縁談がまとまれば、その時はわしも駿府に行こうかの」
「ははっ、その時は国をあげて歓迎せねばなりませんな」