第二十一話
小笠原氏興たち騎馬隊が第一陣を突破するのはそう難しくなかった。
大きく展開した左翼と右翼が機能していない為だ。
小城を囲うにしては大きく広がっている。
特に左翼。
ここまでの大軍の指揮に慣れていないせいか本陣からの距離があまりに離れすぎている。
あれでは、連絡が滞るだろう。
と相手の陣形に問題があるのも一つだが、右翼の浜名重政と大沢基胤が攻め入っている(ように見える)おかげで自軍の戦意は高揚している。
この状況下でならば、容易く本陣まで辿り着けよう。
瀬名秀政直属の親衛隊が守る陣まで一直線に貫く。
他の将には目もくれずにそこだけを目指した。
瀬名秀政は自分の方に突出している一騎の騎馬を見て、笑みを浮かべていた。
飯尾連竜と井伊直虎を左翼に回したために薄くなっているとは言えど、俺の美濃からの部下どもの陣を抜けてきたのだ。
たった一騎。
されど一騎だ。
他の騎馬は全て国親や新田達に阻まれている。
しかしだ。
黒備えの中でも選び抜かれた精鋭は本陣付近に居るといえども、他はあれに突破されている。
「親衛隊全員に告げる。
あいつに道を開けてやれ」
指示が通り、騎馬の前に道ができる。
「見よ、あれこそが武者というものだ。
お前らもああなるが良い。
これと決めたら振り返らずに突き進む事こそがお前らの仕事だ」
槍をくるっと手の中で回し、立ち上がる。
「殿、お下がりを」
兵たちが騎馬と秀政の間に壁を作ろうと動いたのを制する。
「無用。ここまで来たことを評し、俺が直接対峙してやろう!」
楽しそうに言葉が踊っている。
秀政は表情を引き締め陣幕を切り裂き、飛び込んできた騎馬を迅速かつ正確に槍で突く。
首を槍が突き刺し、倒れようとする馬から一人の武者が軽やかに飛び降りる。
「見事な槍の腕!瀬名秀政殿とお見受けした!」
朱槍を持った大柄な男は槍を構え、秀政を見た。
この当時の平均身長がおおよそ160cm程だったのだが、この男は優に180を超えているだろう。
世間一般で背が高いと言われている瀬名秀政も170前半。
180を過ぎれば当然それは大男なのだ。
ちなみに、この頃には猿というあだ名で織田信長に可愛がられていた木下藤吉郎は150cmほどの身長だったらしい。
「いかにも。
その朱槍からして、お前は芦川光隆と見た」
朱槍は戦場で格別の働きをした者に与えられる。
それを持っているこの男は今川家臣団の中でも有名な方だ。
「おぉ、我が名をご存知とは!
士としてこれほどの誉れとはそう出会えまい!」
自分の名を言われ、顔を輝かせた男を見て、秀政の頬が緩む。
「俺に知られていてそんなに嬉しいか」
「当然。瀬名殿は美濃最強の黒備えを率いている事で近隣諸国に名を轟かせた方。そのような豪傑に名を知られて喜ばない者はいますまい」
誇張している。
本人を前にして気を遣っているのか、それとも媚を売っているのか
「はははっ、何とも気持ちのいい男だな。
少し話をしないか?
見ろ」
芦川光隆の背後を示す。
そこには、瀬名兵が陣形を構築している様子が見える。
芦川光隆に一本の道を作られてしまい、動揺が生まれていたが、国親のもとすぐに立ち直っていた。
「お前がずば抜けて長けているせいか、単騎で突出しすぎて、ここでは孤立無援だろう。
他は絶対にここまで来れない。
俺がその気になれば、お前を殺すのは容易い。
が、それは好まん」
秀政は槍を地面に突き刺し、正面から芦川光隆を見据える。
「戦場で会話を望むと?」
槍を降ろし、呆れたように秀政を見つめ返す。
「そうだ。
己の武を奮う事だけが戦ではない。
戦場にて真の主君を見つける事もまた戦い。
だから問う。
芦川光隆。俺に仕えないか?
俺はお前が欲しい。
今川の家に比肩する者ないだろう武を燻らせるのはもったいない。
俺ならばもっとより良い舞台を用意できよう。
天下を競う中で名を高めたいとは思わないか?」
そう言って、手を差し出す。
芦川光隆は視線をその手と顔の間を行き来させていた。
「……敵とはいえ、かほどに我が武を評価された事があろうか
いや、ない。
士は己を知る者の為に死す、と言う。
我が身を捧げる覚悟はある。
それを望む気持ちもある。
だが、殿への恩義も」
「そうか。
だがな、俺は小笠原氏興も配下に引き入れるつもりだ。
あいつは優秀な人材だ。
俺の元に入れたい」
「殿を……」
「だから、お前が俺についても裏切りにはならん。
まぁ、それでも気にかかるならば良い。
お前を捕らえ、じっくりと説くだけよ」
槍を抜き、右手の中でくるくると回し、穂先を芦川光隆に向ける。
「構えよ。
俺に仕えるのならば槍を捨てよ。
もし、断るのならば。
ここまで来たお前に敬意を評し、この瀬名秀政が相手する!」
無言で芦川光隆も構えた。
秀政は表情を改め、感情の色を消す。
短く息を吐く。
周囲の歓声や悲鳴は遠ざかる。
意識を目の前の相手にだけ向け、自分の世界に浸る。
闇の中で佇むのは二人だけ。
相手の呼吸音がはっきりと耳に伝わってきて、一挙一動が手に取るように把握できる。
来るか……
「参る!」
芦川光隆が右足を大きく前に踏み出し、朱槍を突き出す。
瀬名秀政も全く同じ動作をした。
片方の槍は耳を掠り、もう片方は胸元を突き刺す寸前で止められている。
「お見事」
「お前こそ」
全く。
頑固というか、面倒な筋の通し方をするというか
わざと負けおったな。
でなければ、俺がこんな軽い傷で勝てるはずがなかろうに。
俺と一騎打ちをするを事で主君への忠を果たしたことにするのか
「さぁ、縛りなされ」
「あぁ」
兵に芦川光隆を逃げられないように縛っておくように指示し、秀政は連れてこさせた馬に跨った。
「見ておくが良い。
お前の盟友となる者たちのの動きをな」
芦川光隆に笑みを見せた後、秀政は槍を肩に担ぎ、
「国親に前線を押し上げるよう指示」
伝令が走っていくとすぐに再び崩れかけていた陣形が立て直され、中央の軍だけで鶴翼の陣を制作し、その中の右翼と左翼が小笠原氏興を挟撃。
鶴翼を作ったことでさらに薄くなった中央を白河国親率いる美濃兵が突破を図る騎馬隊を防いでいる。
後は大沢と浜名が背後をつけば包囲は完成する。
いや、背後はわざと開けておいて方がいいな。
むしろ、その方がいいかもしれない。
「俺らも国親に合流する。お前ら出るぞ」
親衛隊を連れて、前線に向かう。
右翼に展開していた大沢基胤と浜名重政は先日、秀政に命じられ城方への内応を誓ったように見せた。
敵を誘き出す為だ。
内にも外にも両方の敵を炙り出す為だ。
瀬名秀政の軍には武田への寝返りを考えている者も氏真に密通している者もいる。
大沢、浜名の二人は西遠江の城主で松平領に近い。
それもあって、松平元康の動向をよく耳にする。
その中で気にかかるのが飯尾連竜だ。
元々、義元様に連竜を監視する密命を授けられ、城主になっている。
彼は謀略家で毒殺を好んで使うような人物だ。
最近は大人しくしているが、少し前には井伊直虎の曾祖父を毒殺し、井伊家を取り潰そうとしていた。
そんな奴が松平元康に近付いているらしい。
無論。
殿に報告はしてある。
その上で、井伊直虎と飯尾連竜を同じ場所に配置している。
さて、本題は連竜ではない。
東遠江兵の陣営の中にある。
甲斐とも駿河とも近い彼らは武田に繋がりを持っているものは少なくはない。
今川の未来はないと見限って武田側に付く者が居て当然なのだ。
問題はそれがこの軍中にいることだ。
彼らは瀬名秀政が駿府にまで影響を及ぼす事を望んではいない。
遠江で収まっているのが丁度いい。
すれば、三国同盟を破棄せずに東海道に出ることが叶う。
ここで瀬名秀政が今川を継承してしまうと今川北条との同盟を破ることになりかねない。
しかし、瀬名秀政を討伐する名目で出兵し西遠江だけでも支配下に入れたいとの考えだ。
ゆえに、この戦で瀬名秀政に勝利を巡らせようとはしない。
現に大沢ら二人のところに接触してきて瀬名軍を瓦解させる算段を持ちかけてきた。
乗るふりをした。
外から崩すよりも内から崩した方が早いのは城攻めだけではなく様々なところでの定番だろう。
それを妨害するのが自分らの役目だ。
小笠原氏興は知る由はなかったが、彼が聞いた鬨の声や太鼓の音は武田に寝返った兵と浜名・大沢隊がぶつかる時のものだ。
本陣を急襲しようとした連中を背後から襲ったのだ。
本陣から迎撃に出た部隊と大沢隊により挟撃の目に遭った敵部隊はすぐに崩れた。
が、そこに小笠原氏興が突っ込んできてしまったが為に本陣からの兵は一旦引き上げ、そちらに回り、大沢基胤と浜名重政はそれぞれで寝返った味方を討っていた。
既に形勢は決まったいただけあり、敵の捕縛は実に容易い。
飯尾連竜と井伊直虎は左翼に展開していた。
本陣の方で何やら動きがあったようで、太鼓が聞こえるがつい先程来た伝令により「本陣への救援は不要」と秀政からの達しが出ている。
連竜は現状の把握ができないまま、ただ待機していた。
対する井伊直虎は瀬名秀政から全てを聞かされている。
飯尾連竜の不審な動向についてもだ。
「井伊殿、これは一体何が起こっておるのだ?」
飯尾連竜は横に並んでいる井伊直虎に訊ねた。
本当に何が起きているのかがわかっていない様子だ。
「なにゆえ私めに聞かれるのです。
私はこれが初陣。
飯尾殿のような歴戦の猛者と違い、戦には通じておりませぬ。
飯尾殿にわからぬことを私が知るはずがないではありませんか」
飯尾連竜の方に一瞬だけ視線をやり、すぐに前を向いた井伊直虎は適当にそう言った。
直虎はこの男が嫌いだった。
曾祖父の仇である男で井伊家の没落を図っていた男でもある。
瀬名秀政の事も好意的には思わないが、嫌いではない。
女であるとぞんざいに扱いはせずに、こうして前線で役目を与えてくれていることには感謝はしている。
「殿より伝令が!」
飯尾連竜がこれよ!と立ち上がる。
「何と言ってきたのだ?」
「『今、高天神城は手薄。合図を待ち、これを逃さず一気に攻めよ』と」
「むぅ…………すれば、殿が敵を引きつけている内に我らが城を落とすということか」
飯尾連竜はニヤッと笑みを浮かべる。
さきに瀬名秀政が自分の部隊に先陣を切らせてやると言った通り、城攻め一番槍の好機を与えられた。
井伊を本陣に置き、前線から離すという約束は反故にされているが。
そんな約束は正直どうでもいい。
女の部隊にまっとうな働きができるとは思わない。
ということは、わしの兵が城を落とすのは間違いなかろう。
井伊を除けば、後は遠江の小領主。
わしを抜いて前に出ようとする輩はいない。
そんなことをしたら、謀殺されると知っている。
瀬名秀政を旗にして遠江を取った。
後は駿河。
時期を見て彼を毒殺し、傀儡政権を立て、武田なり松平なりに媚び諂う。
従属関係になるわけだが、それでも構わない。
今川の家がどうなろうと知ったことではない。
わしが自分の領土を公然と広げる建前としてあればいい。
ここで戦功を挙げ、石高を増やして貰い、瀬名家家老としての地位を確立する。
今現在の目標はそこだ。
その為には、例え味方であろうと関係ない。
邪魔であれば排除して進むのみ。
思考をまとめると、飯尾連竜は馬を操り、自分の部隊を直接監督しに向かった。
井伊直虎は先日。
この作戦について伝えられた時に、一つ願いを秀政に聞いてもらっていた。
それは戦後に飯尾連竜の奥方であるお田鶴の方を自害させることだ。
直虎の曾祖父を毒殺したのは飯尾連竜ではなく、彼の正妻である彼女だ。
だからと言って連竜に罪はないかと言われればそうではないが、直虎の復讐としてまずは彼女からなのだ。
瀬名秀政はこの願いを即座に承諾した。
仮にも国親ら美濃衆を除けば、一番の重臣となる彼の正室を殺すことに迷いが生じないとなると、前もってこれを考えたということだ。
事実そうだった。
秀政は飯尾連竜の力を借りて軍を起こしたが、その当初からお田鶴の方と連竜は殺すつもりでいる。
連竜は必ず謀反を起こす。
そういう奴だ。
お田鶴の方を殺そうとしているのは、彼女の名前が椿姫だからという理由ではない。
いや、そのことが気に入らないのも確かだが夫を唆し、様々な悪行を働かせている。
連竜だけを処罰しても彼女がいる限る邪魔であることに変わりはない。
自分の兵を連れ、井伊の陣に近づいて来た飯尾連竜は直虎に馬を寄せた。
「井伊殿っ!
わしが先に行かせてもらってよろしいかな?」
「構いません。
飯尾殿の巧みな采配を後方より学ばせて頂きます」
「うむ。
では、我が将兵よ!
参る!」
飯尾連竜は馬首を翻し、高天神城の方へ駆けて行く。
それを追うようにして兵が駆ける。
後ろ姿を見届けながら、直虎は考え事をしていた。
前にいる味方が邪魔だったので、敵兵諸共皆殺しにしましたっていう言い訳は通用するわけないが、あの殿様の事だし笑い飛ばして軽く咎められるだけで終わるかもしれない。
とりあえず、飯尾連竜を偶然に装って殺せないかと考えていた。
とそこにやってくるは秀政からの密使。
渡された文にはこう書いてある。
「わざと包囲の一角を開けて小笠原氏興を城の方へ逃がす。
小笠原に連竜の背後を突かせる。
城攻めは連竜に任せ、お前は小笠原が来たら、彼の側面を突け」
敵を利用して、味方内の不安要素の兵力を削ぎに来ている。
何とも嫌な司令官だ。
自分もいつ潰されるかわかったものではない。
しかし、飯尾連竜が狙われるのはなら、好機という他ない。
「承りました」
それだけを伝えて、時を待つ。
確かに、高天神城は手薄だった。
いかに硬い城でも守る人間が居なければ意味をなさない。
数に任せて城門を突破し、城内に突入しようとした時だ。
背後に騎馬隊が現れた。
飯尾連竜は前方に居たので害はなかったが、その突撃は鬼気迫るものが有ったらしい。
結果だけいえば、小笠原氏興ら200名に対して飯尾連竜の兵が600以上も討ち倒された。
小笠原兵は自分を追ってきた瀬名秀政に背後を井伊直虎に側面を突かれ、すぐに多くが戦闘不能となり残るは大将を含めわずかとなった。
続いて人物紹介
・飯尾連竜
遠江引馬城主
今川の老臣で西遠江の中心にいる人物
・井伊直虎
遠江井伊谷城主
遠江、駿河で唯一の女性領主
・今川氏真
義元の嫡男
秀政の兄にあたる
和歌と蹴鞠は一級の腕前
・朝比奈泰朝
遠江掛川城主
氏真を支え、代わりに政務を担っている