第二十話
翌日。
秀政の軍で不協和音が聞こえ始めた。
原因は秀政のとった行動だった。
井伊直虎を侮辱し貶めるような事を言いふらしていた大沢基胤と浜名重政を折檻した。
鞭で何度か打った様でそれを見ていた者は息を呑み、二人に憐憫の情を抱いた。
背は赤く染まり、着物すら羽織れぬ姿を瀬名秀政は薄ら笑みを浮かべて見下ろしていた。
それが将兵たちの間で広まり、不満を抱かせた。
女ごときを庇い、大沢と浜名を辱めた。
両名はきっと秀政を憎んだだろう。
彼らにすれば、自分たちは女が領主などという馬鹿げた事を否定しただけなのだ。
それが一体どうして折檻されよう
不当だ。
実に依怙贔屓だ。
瀬名秀政は井伊直虎を贔屓しているのだ!
それゆえに彼女をよく思わない自分たちを弾劾したいのだ!
きっと、あの売女めが体でも使って垂らしこんだのだろう。
なんと悪しき女か
あいつが秀政の周囲にいる限り自分たちは冷遇され続けるだろう。
そのような陣営に自分の運命を委ねるという決断は自然と揺らごう。
今の状況ならば、氏真の側に寝返っても問題はないどころか、瀬名秀政の首でも取れれば実に良い!
そう考えたのだろう大沢と浜名の両名は高天神城の小笠原氏に秘密裏に使者を送った。
それから4日間。
瀬名秀政率いる軍は本格的な攻撃を行わなかった。
ただ昼夜問わずに篝火を焚き続け、時折太鼓を鳴らした。
そして、夜の闇に紛れて城への攻撃を行ったりもしたがそれはただの表明にすぎない。
隙を見せればすぐに城を攻めるというアピールだ。
太鼓を鳴らし、いかにも攻めてくるかのように警戒をさせたりと城側を踊らせた。
城側が太鼓を信じなくなってきた頃に太鼓に合わせて攻撃を始めるのだから何とも性格が悪い。
城側は常時警戒していなければならない。
ずっと気を張った状態というのは酷く心身を消耗させる。
籠城の焦りと援軍への期待が入り混じり、場内の空気は徐々に変わって行く。
城主の小笠原氏興はそれを感じ取っていた。
良くないとは思うものの朝比奈の援軍は未だ来る気配がない。
しかし、いくらなんでも兵たちの消耗が激しい。
なぜだ?
我が兵はそこまで脆弱ではない。
いや、むしろ屈強であろう。
かつては三河、甲斐、駿河の板挟みにあった遠江の男たちは生き残るために自然強くなった。
彼らがこうにも早く精神的に参るとは一体どういう事だ?
いや、原因はわかっている。
まずは瀬名秀政という人間とその配下の黒備えだ。
美濃の武士の中でも選りすぐりの精鋭部隊である彼らは名高い。
それに気を挫かれた。
また、瀬名秀政が今川一門であることだ。
前当主で引退された今川義元公が認められたのだ。
自分の次男の竜宮丸こそが瀬名秀政であると。
しかし、追放されたのであればもう一門ではないはずなのだが、義元公はそれは違うと言った。
「かつて、儂はあやつを追放したがそれは誤りであったと気付いた。
ゆえに儂はあやつが一門に復帰することを認めた」
前当主が直々に言うのだからそれは正しく、彼を支持している事を示す。
もしも、当主に氏真様を置いておきたいのであれば瀬名秀政は国の敵であると大々的に宣言し、彼らの言う今川家の継承権は存在しないと一蹴すればいい。
それをせず、血縁関係を認めたという事は氏真様ではなく瀬名秀政を自分のいる席に座らせたいという意志の現れ他ならない。
確かに、今の甲斐と三河に挟まれている状態ならば、氏真様よりも彼のような戦巧者の方が主君としては好ましいとは思う。
それでも、主家に忠義を誓った身。
氏真様に例え死のうとも従うのだ。
さて、士気が下がった他の要因としては兵たちが氏真様をよく思っていないことだ。
自分らは貧相な生活をしているというのに、国政を投げ出し遊蕩しているなど言語道断。
主君としてどうなのだ、という所だろう。
非常に好ましくない。
兵たちの意識もだが、この状態もだ。
なぜかは知らんが、掛川からの援軍が出た知らせも届かずに城の士気は下がる。
このままでは遠からず内部から崩れよう。
ここには急ぎ徴兵してきた農民も多く居る。
彼らは敵の方が優しい統治者であれば寝返る。
そうなる前に敵を退けなければならない。
やはり城から打って出る手が一番か
幸いなことに敵将で寝返りを約束した者もいる。
話を聞く限りでは心底瀬名秀政に嫌気がさしているようであり、また恨んでいるようだった。
右翼に展開している彼らは確実にこちらに寝返るだろう
更に左翼に展開する部隊もこちらに味方し、本陣への救援を行わないと言う。
なら、我らと大沢浜名で一気に本陣をつけば敵を瓦解させられる。
指揮系統を潰し、混乱しているところを各個撃破していけば、兵数に劣る我が方でも勝機は十二分にある。
そうだな。
まずは確認として敵方の大沢と浜名が攻撃を仕掛け、それに乗じる形で出るのが良かろう。
翌日。
高天神城内の空気は打って変わって気持ちよく張り詰めていた。
小笠原氏興は息子の信興と共に山頂で瀬名秀政の軍の動きを待っている。
太陽が一番高くなった時に動くよう言ってある。
もう少しだ。
「殿!敵の右翼が敵本陣の方向へ移動し出しました!」
物見の兵が氏興の元に伝えた一報。
これを待っていた。
「おぉ!では、既に大沢と浜名は戦闘に入ったのだな?」
「おそらく!騎馬隊を連れているのと風のせいで砂煙が激しく正確にはわかりませぬが鬨の声は聞こえまする!」
確かに。
ここまで聞こえる。
太鼓や法螺貝の音もする。
戦闘はすでに始まったらしい。
小笠原氏興は愛馬に飛び乗る。
そして、城門の前に集結させた兵たちの前に立つ。
「皆の者!雑兵の首はいらん!狙いはただ一つ。瀬名秀政の首だけを持ち帰れ!」
兵たちの顔が引き締まる。
「行くぞ!」
「「「応!」」」
さて、後書きという欄があるのでこれからは簡単な人物紹介を載せていこうと思います
・瀬名秀政
1538年生まれ
今川義元の次男で一旦は追放されるものの赦免され、一門衆に復帰
・白河国親
1538年生まれ
秀政の重臣で
多くの場合で秀政の代理を務める
・新田正成
鉄砲隊長
秀政の美濃からの重臣
・本郷長政、葛西盛次、堀長道
秀政の美濃からの重臣
国親や新田と比較すると目立たないが、主君への忠義に溢れる武士
・葵
安藤伊賀守守就の娘
秀政の元正室
現在は離縁し、美濃の父親のところにいる
・茜
秀政が拾った少女
秀政が妹のように育てた。
家柄の問題などで安藤守就の養女になった上で、竹中半兵衛の元に嫁ぐ