第十七話
この一年でまた色々な事が起こった。
三河の松平との戦に負けた屈辱的な敗戦を喫した氏真が駿府に帰還した。
この敗戦により、三河と接する遠江の国人たちの動きに不穏なものが出て来た。
桶狭間の戦いで重心の多くを失い、松平の離反。
更に同盟を結ぶ甲斐の武田でも何やら動きがある。
武田晴信が対応を変えるほどに。
誰の目から見てもわかるほどに今川は桶狭間以降衰退していたのだ。
しかもだ。
松平との戦が堪えたのか、氏真は歌人を呼び集め、歌会を毎日のように開いている。
政務は朝比奈泰朝たちに任せ、自分は遊び呆けている。
それでは当然、家臣たちの心は離れていく。
秘密裏にではあるが、何やら駿河でも動きが起き始めているとの噂が立ち始めている。
火のない所に煙は立たないと言う。
逆に言えば、煙の立つところに火はある。
今川家の家臣は互いが互いを疑う疑心暗鬼に陥り始めていた。
一方の美濃では面白い事が起きていた。
瀬名秀政が大きく知行地を減らされるという出来事が起こった。
斎藤利治に安藤伊賀守守就と共謀して謀反を起こそうとしていると疑われ、本来なら気にも留めないような些事を追及されたらしい。
斎藤利治は自分に仇なす可能性があるものには極力力を持たせないつもりなのだろう。
もし俺が彼の立場だったとしても瀬名秀政の力は削ぐだろう。
姫の命を受けて色々と調べたのだ。
瀬名秀政は基本的に独断専行。
つまり主君の判断を仰がずに勝手に物事を進め、後日了承を得るやり方が多い。
いちいち上に話をあげるのは面倒なのは確かだろうが、主君からしたら気に入らないだろうし、自分を蔑ろにしていると感じてもおかしくはない。
道三が当主であった時は、恐ろしいまでに二人の思考が一致していた為に咎められずに、むしろ道三は自分の手を煩わせることがない上に自分の考えと同じ行動をする秀政を重用していた。
そういった瀬名秀政の態度も原因の一つだろうが、利治が国主となり、長井道利と和睦してから、織田との関係が急激に悪化し、今や一触即発の状態であることも関係しているだろう。
他にも色々とあったが、わざわざ述べるほどのものはない。
さて、美濃の事情に関連する事も含めて、俺と甚介はあっちこっち訪ね、その成果を姫に全て報告した。
そうしてわかった事は幾つかあった。
瀬名秀政が主の斎藤利治の命でもなく、かと言って美濃を良い方向へ導く為でもなく、個人で何やら暗躍しているという事だ。
尾張や三河に頻繁に使者を出しているらしい。
甚介が白海城下に半年ほど潜んでようやく握った情報だ。
しかし、何を仕掛けているのかは知らない。
だが、最近は瀬名秀政の家中における立場が下落に下落を重ね、道三存命の頃と比べると随分と冷遇されている事から織田にでも寝返るんじゃなかろうか?
元々、瀬名秀政は親織田派であったそうだし
それにしても、今川に対してなにか仕掛けるんじゃないかと思ったが、こちらに働きかけている様子はない。
俺の知らないところで動いている可能性はあるが。
俺が学のない頭で懸命に知恵を振り絞っていると、まるで休憩しろと天が告げたかの様に戸が叩かれた。
トントン
日常にごくありふれた音だが、俺は一年ほど前はいわゆる野盗で戸を叩かれたら即座に刀に手を伸ばすような生活をしていたわけだ。
それが今は一種の和みをもたらすのだから、姫には感謝してもしきれない。
戸を開けると、もはや顔馴染みになってしまった姫の侍女である佐々木がいた。
佐々木村の出身なので佐々木。
名前は知らない。
仲はいいのではないかと思うが、名を呼ぶ機会もないし必要もないから聞いていない。
「姫様から書簡ですか?」
俺が問いかけると佐々木は頷く。
それを確認すると、辺りを見渡す。
おかしな人物はなし。
佐々木を中に入れ、戸を閉める。
「で、今度はなんと?」
佐々木は抱えていた風呂敷から紙を抜き出して、俺に見せた。
そこに書かれていたのは
「……瀬名秀政が大殿様に会いに来ていると」
今、佐々木が述べたことが。
大殿というのは今川義元の事だ。
当主の父。
「瀬名秀政が!?」
ついに動き出した。
何とか足一本で立っている今川を完全に転ばせることもきちんと立たせることもできる人間がどんな思惑かはわからないが、今川義元に接触する。
警戒するに越したことはない。
「はい。なので、松葉さんに様子を見て来て欲しいと」
「了解した。臨済寺だな?」
「そうです。臨済寺に来ていると」
「では、すぐに出る」
俺は風呂敷の上に置かれていた路銀を袋に入れ、背負い、腰に刀を帯びる。
……ところで、さっきから佐々木がなにか言いたげに俯き、時々こちらに視線を投げかけている。
「なんだ?俺の顔のなんかついているのか?」
「い、いえ……」
歯切れが悪い。
そんなに言いにくい事なのか
着物が破れてる……わけじゃないか
他に思い当たる節はない。
「じゃあ、なんだ?」
佐々木は手の指を弄りながら、上目遣いでこちらを見る。
「そ、その!……お気をつけて…」
俺は思わぬ言葉に虚をつかれた。
が、すぐに気を取り直し、表情を引き締める。
「……瀬名秀政の逆鱗に触れない様に気をつける」
もっと気の利いた答え方があるんだろうが、生憎と俺は女と話すのは苦手だ。
こんな答えでも満足したのか佐々木は笑顔を見せる。
……可愛い。
「で、ではいってくる」
俺は赤面を隠す為、背を向けて言った。
そして、戸を開け、一歩出た。
すると、すぅと息を吸い込む音が聞こえた。
「い、いってらっしゃい……」
何やらしりすぼみだったがちゃんと聞こえた。
知らなかったが、人に送られるというのは嬉しいものだ。
姫の情報通り、瀬名秀政は臨済寺に居た。
俺が着くのと同時に中から出てきた。
階段でばったりと鉢合わせしてしまった。
低頭し、顔を隠そうとしたが、遅く。
「ん?お前、桜の護衛だったやつだな」
しかも、俺の顔をなぜか覚えている。
一年以上前に会っただけなのに恐ろしい記憶力だ。
「こんなとこに何の用かは聞かないさ。大方、俺の動きを監視しに来たんだろう?」
さらっと簡単に目的を言い当てられてる。
俺、もしかしたらこの状況は危ないんじゃないか
刀を抜いたところで切り抜けられるとは思わないのであえて警戒をせずに笑顔(自分では笑顔のつもりだが、おそらく引きつっている)を見せる。
瀬名秀政は俺の態度に何も言わずに柔和な笑みを見せる。
「で、君は何を知りたい?今の俺は機嫌がいい。教えてあげよう」
そう言って、階段に腰掛けた。
呆然とする俺に瀬名秀政は笑顔で促す。
「……何をしに来た」
「そんな事か。ちょっと父上に聞きたい事があってね。気になって夜も眠れなかったんだよ」
本当なのか?
今、ここで俺に真実を言う必要はないんだ。
嘘を言っているんじゃないか?
それで俺や姫の動きを撹乱しようとしているのでは?
「嘘と疑うのは自由だ。ただそれが吉とでるか凶とでるかは君次第」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、俺を見てくる。
なんか無性に腹が立つ。
「それで……どこまで知ってる?」
そう見上げた顔は笑ってはいない。
正直に言わなければ死ぬな。
なんとなくそんな予感がした。
こういう時の勘はあたる。
今までの経験から知っているのだ。
「あなたの母君の事。それが理由で家を出た事」
俺がそう言うと、瀬名秀政は悲しげに俯いた。
「そうか。葵に対してですら今川を出た理由を誤魔化していたのに、まさか君が知るとはね。
全く。桜には参った。自重する事を知るべきだな。
人には知られたくない秘密の一つや二つはあるんだよ。
俺にとっては家族の事が正にそれ。
まぁ、知ってしまったのなら仕方ないけど」
顔を上げる。
冷たい風が吹き、枯葉が階段の下に向かってヒラヒラと舞うように落ちていく。
それに合わせてか、声から柔らかさが消えていく。
「桜は過去に囚われていると言うんだろうね。あの事に執着しすぎていると。
否定はしない。
それでも、桜に言われたくはない。
あいつが関わっていないとしても、俺にとっては憎い仇と同じ親を持つ妹であるわけだ。
直接的な恨みはない。
それでも、憎い。気付かずに虐げる側にいる人間は虐げられた者を理解はできない。
だから、俺はあいつらを悲劇の淵に追い込むのさ。
言ってる事わかる?」
なんとなく。
母親を殺した奴と兄妹で、知らずその恩恵に浸っている姫とは相入れないと。
そして、自分と同じ目に遭わせて復讐する。
「でも、あなたも姫のご兄弟。血の繋がりがあるのでは?」
「確かに。
俺には今川義元の血が流れている。でも、半分は母の血だ。
俺の母とあいつらの母は違う。
異母兄妹だからな。
ゆえに。
俺は心の底からあいつを兄妹なんて思った事は一度もない。
父が同じだけ。
母が違えば、扱いも違った。
所詮、俺はどこの血筋かもわからない娘が生んだ子供で、あいつらは父の正室である甲斐の武田晴信の姉の子供。
そのせいで。
生まれた瞬間に俺が家中で弱者の側にいる事が決まったんだよ」
瀬名秀政は立ち上がる。
顔には歪んだ笑みが張り付いている。
「だから、俺は一度全てを捨てた。
そうする事で逃げられると思ったからだ。でも、逃げたところで燻る心が凪ぐ事はない」
右手を雲に覆われ僅かにしか太陽が見えない暗い空に伸ばす。
「なら、俺が上に立ち、あいつらを地に這わせ、かつての俺以上の悲劇に遭わせるしか安らぎはない。
それの準備を整えるのは実に長く険しかったよ。
それにしても、氏真は無能だとは思っていたけど、まさかこんな早くに家臣どもの心が氏真から離れるとは嬉しい誤算だ。
この様子だと今川家は近いうちに瓦解する。
それを悟った連中が俺に泣きついて来たよ。
俺と親交のある飯尾連竜を代表にしてさ、遠江の国人ほぼ全員がね。
『竜宮丸様、どうか今川にお戻りを』ってな。
全く。
俺が今川の血筋である証明をする前に向こうから縋ってくるとは些か手順が狂ったけど。
でも、笑えるくらいまたとない好機だ。
俺は失政を敷き、民を虐げる愚かな国主から民を救うべく外から軍を率いて舞い戻ってくる。
大義名分は得た。
後は期を待って攻め込むのみ。
それで俺はようやく安らぎを手に入れる」
今川に攻め込むのか
それも内から崩しつつ。
このままでは今川家は滅ぶ。
しかし……なんでこれを俺に喋るんだ?
「別に君を殺す気はない。全てを桜に伝えるといい。
止められるものならば止めてみろ、とな。
今川という船は泥でできている。
乗船者が瀬名秀政という頑丈な船に乗り移る事は必然。
氏真と共に滅ぶ酔狂な者も出るだろうが、少数だ。
滅びの道を歩む愚者はいずれ気付く。
自分の浅はかさに、無能さに、そうして自らの行いを悔いる。
ゆえに前に進める。
だが、母を殺した野郎は悔い改める事なく平然と生きている。
俺は連中の存在を絶対に認めない」
「……そんな事をしてお母様が喜ぶと?」
「喜ぶ?母は死んでいる。喜びわけがなかろうに。死んだ人間はものを言わない。
俺はただ俺がしたい事をする。
そして、一番やりたい事がこれなんだ。
例え世界の全てが俺の行いを否定しようとも歩みを止める事はなく、一つの結果に向かって進む事こそが俺のゆく道。
阿修羅にでもなろう。人をやめてもいい。
人でなしと蔑まれようと愛する人に見放されようと変わることは決してない。
覚悟があるものだけが同じ高みに立てる。
桜とお前は何もかもを捨てる覚悟があるのか?
ないのなら、余計な事はしない方がいい。
命取りになる」
俺が殺すからな。
と付け足した瀬名秀政は獰猛な獣の目をしていた。
やっぱり狂っている。
自分の為なら誰であろうと犠牲にするなんておかしい。
「これだけ知れば充分だな。もう用がないなら行くが」
「……」
「じゃあな」
瀬名秀政は立ち上がり、颯爽と寺の階段を下って行った。
臨済寺で交わした会話を一語たりとも漏らさずに姫に伝えると、大量の文を渡された。
遠江衆に配って来いと。
「姫は何を書かれたので?」
佐々木と囲炉裏を囲みながら、訊ねる。
佐々木は囲炉裏のわずかに赤くなる灰を面白そうに見つめながら
「たとえ氏真様が頼りなくても今川を捨て、最早他国の人間である瀬名秀政を立てるのではなく、今は辛抱して欲しい。
今は落ち込んでいるが、いずれ立ち直るからそれまで我が家を信じて欲しいと」
遠江の反乱を抑制しようとしているのか。
たかが文一枚じゃ効果はないと思うが、やらないよりはやった方が良かろう。
それに瀬名秀政を兄と慕っていようと、彼は家を捨てた人間であると割り切らなければならない立場は辛いものがあるじゃないか?
姫は一見楽そうに見えるところにいてその実
「では俺はそれを届ければ良いのだな」
「はい」
佐々木が囲炉裏から俺に視線を移す。
一瞬目があって、お互いに焦ってすぐにそらす。
「……承知した。なるべく早く回るとする」
「……姫からも時間がないので急いでくれとのお話です」
「あっ、いや、そういうことではなくてな……」
佐々木は可愛らしく首を傾げる。
「その……なんだ。早く終えれば、またお主に会える……からな……」
くそ、言ってて恥ずかしい。
きっと顔が赤くなっている。
でも、それは佐々木も同じ。
顔を真っ赤にして俯いている。
「……私も早く戻って来て欲しいです……」
抱きしめたい。
目の前の女性が俺の人生であった女性の中で一番愛らしい。
佐々木よりも美しい女はいくらでもいる。
佐々木よりも可愛らしい女もいる。
でも、俺にとっては佐々木が一番なのだ。
姫同様に『奥』勤めだからこうして姫の使いで来た時にしか会うことはないけれど、俺はこの女が好きだ。
抱きたいし、共に暮らしたい。
しかし、佐々木が姫の侍女である以上、今は叶わない。
だから、せめて早く会おう。
俺は姫の為に働いているのではない。
姫が憂鬱であれば、その世話をする佐々木も大変だし、もし瀬名秀政が敵討ちの為に来るのなら、姫を処刑するかもしれない。他国であるように姫の侍女である佐々木も殺される可能性はある。
そうならない為に姫の意を組んで瀬名秀政に今川を渡さないよう動いている。
そう。
佐々木の為に働いているのだ。
彼女の為ならば命を賭してもいい。
「そういえば、甚介はどうしてる?最近顔を見ないが」
このままではつい覚悟を顔に出してしまいそうだったので、話を変えた。
覚悟は相手の知らせるべきものじゃない。
自分で決めていればいいのだ。
いざという時に迷いが生じないようにする為なのだから。
…………しかし、覚悟をバラしたくないのなら今すぐに出れば良かったのだ。
早く行かなければならないとわかっているが、もう少し佐々木と話していたいという気持ちが話題を変えるという選択に導いた。
「……林崎さんですか?私は松葉さんの元にしか来ていないので知らないのです」
「では、誰が甚介の所に?」
「鶴さんです。
私よりもずっと長く姫様にお使えしている方でものすごく強いんです。
姫様が言うには、林崎さんは暴走しやすいので力でそれを抑えられる人でないといけないそうなので、私ではなく鶴さんが林崎さんの所にいます」
「甚介より強いのか!」
「姫様が言うにはですが。私は林崎さんと面識ないので断言はできませんが、鶴さんに勝てる人はそう滅多に居ません。
鶴さんは万能な人で、女性ながら兵法に長け、武道にも通じ、算術もお手の物。『奥』にいる女性みんなの憧れです」
「すごい女性だ。確かにその女性なら甚介を制御できるな。あいつはほっとくと剣客を求めてどこかへ行ってしまうからな」
「らしいですね。なので、鶴さんも林崎さんに同行しているんです」
「甚介と二人でか!?」
「問題ないですよ。鶴さんを襲える人なんて居ませんから」
そう言い切られる程腕が立つということか。
いやはや戦国の女性は全くどうして逞しい。
それに男の俺が負けてはなるまい。
何か一つでもいい。
秀でた物を持たねばならん。才がないのなら努力に努力を重ね、何かを得るしかないだろう。
俺はまだ努力の方向すら定まっていないが……
「では、よろしくお願いしますね」
「任せろ。文は確実に届ける」
瀬名秀政の道を僅かにでも閉ざす為に。
佐々木の笑顔の為に。
俺は今できることをしよう。
それが良いことなのかはわからない。
でも、何もしなければただ虐げられるだけなのだ。
行動しなければ、望む結果が生まれることはないのだから。