第十六話
駿府城に戻った姫の耳に真っ先に入ったのはまたもや瀬名秀政に関する事だった。
あの日、姫には動く気力さえも湧かなかった
仕方ないので、宿を取り俺と甚介は二人で町を散策したり、俺が甚介に稽古をつけてもらったりしていた。
気付けば、ずいぶんと仲良くなっているのだから不思議なものだ。
出会いは殺伐とした斬り合いだというのに、今では仲良く酒を飲み交わす仲。
何が起こるか、人生わかったものではない。
「ところでさぁ、なんか複雑そうな家だなぁ。妹に向けてあんなに敵意を向けるなんてよぉ」
「そうそうないな。でも、俺たちが口出す事でもないだろ」
「でもさぁ」
「やめとけ。他人の家の事に首を突っ込んでもいい事なんざない」
「そうだけどよぉ。義長、いくらなんでもあの豹変ぷりはおかしいだろ」
「ああ。姫が『椿さん』と言った途端だったな。
でも、それについては姫に聞くなよ」
「わかってる。今の姫にはとてもじゃないが聞けんさ」
「なら、いい」
全く。
瀬名秀政という人物はわからない。
気が違っていると思うほどに民を愛し、温厚な人物かと思えば、鬼と畏怖されるに値する一面も持ち合わせ、言葉一つで修羅にもなる。
姫が口にした「囚われている」という言葉から過去に何かがあったのだろう。
それは『椿さん』に関係している。
その人物は瀬名秀政の母親で既に死んでいて、その事をひどく怨んでいる。
姫様に向けて「氏真の妹が」と言ったからおそらく今川氏真。すなわち今川家現当主が関わっているのは間違いないだろう。
俺は姫に仕えているが、一応は今川家に仕えている人間になる。
そういう理由から主君が何をしたのか気になる
それには瀬名秀政が今川義元の息子であるのに、美濃に居る事にも関係あるのだろうか?
やっぱり何があったかを知らなければ、瀬名秀政を理解はできない。
理解したいとは思わないが。
あ!すっかり忘れていたが、先日あったと言う桶狭間の戦いについて少しでも情報を入手しておきたい。
なぜ今川義元が負けたのか知りたいのだ。
近くの茶屋でその事を訊ねた。
「織田様が今川様の本陣を奇襲なさったんでさぁ」
「奇襲か……」
「今川様が酒宴をなさっている所に雨に紛れて奇襲されたそうで。それで今川様は捕らえられたと」
茶屋の親父の舌が止まらない。
「大将を失った今川軍が撤退中になぜか起きた土砂崩れに巻き込まれて、将の多くが亡くなったと聞きやした。なんでも、誰かが崖を火薬を使って崩したとかなんとか噂が流れてますがね。まぁ、嘘でしょうが」
本当だったのだ。
今川義元は敗れた。
これは天下に響く。
確かに身の置き方を考えるべきかもしれない。
敗戦だけでなく、多くの有能な武将を失った今川家が再び上洛の軍を出すには時間がかかる。
天下が動くかもしれない。
今川が動けないとなれば、三好の天下になるか
それにしても、織田信長は運がいい。
偶然雨が降り、偶然敵に気付かれず進軍出来、偶然にも今川軍が酒宴をしていた。
もはや奇蹟と言っても差し支えない。
「そう言えば、噂では瀬名様が織田信長に味方したなんてのもありまやしたね。真偽はともかく瀬名様が織田に味方するなら、わしらはそれに従うだけだけでさぁ。
あの若様のやる事に間違いはねぇ」
瀬名秀政が今川ではなく織田に通じている。
確かにいずれ敵対するとは言っていたが。
まさか既に敵に回っているのか?
あの男なら何をするかはわからない。
あり得る。
ん?待てよ
それなら、姫がここに居るのは危険なんじゃないか?
敵地のど真ん中に居るのと変わらない。
しかも、ついさっき瀬名秀政を怒らせたばかり。
危機だ
それも絶体絶命。
もしかしたら、追っ手が迫っているかもそれない。
非常にまずい
こりゃあ急いで逃げなければ。
茶屋を出て宿に戻り、姫様を背負って急遽駿府へと向かう。
駿府城に着く頃には姫は新たな決意を固めていた。
瀬名秀政を縛っているものから救うらしい。
また、姫の心境同様に国内外の情勢は大きく動いていた。
まず、西三河の松平元康が桶狭間の敗戦を好機と見て、今川からの独立を宣言。
これにより東美濃は大きく荒れた。
更に今川義元の身柄と引き換えに尾張国境近くにあった鳴海城一帯の今川領を織田に返還した。
これを聞いた俺は驚いた。
返還された事がではない。
交渉を持ちかけた人物が瀬名秀政であったことにだ。
どうやら、今川義元を捕らえていたのも彼らしい。
聞くところによると、捕らえたのではなく保護らしいが。
何はともかく織田に密通しているのは真実のようだ。
ただ、駿府に来た使者はこう言ったらしい。
『美濃斎藤家は織田と今川の双方と同盟を結んでいる。今川義元殿を窮地からお救いはしたが、織田家の顔も立てなければならない。
従って、鳴海を織田に引き渡していただきたい。
さすれば、義元殿をお返し致す』
織田の凶刃から救ったかのように述べたが、事実はどうだろう。
しかし、今川の家老たちは何も疑っていないらしい。
まぁ、どうであれ、これは小さくない影響を及ぼした。
尾張侵攻の重要拠点を失ったのだ。
歴史的大敗を決し、拠点も奪われた。
これを知る東三河の国人たちは今川を見限って松平につく者と今川に変わらず従う者が入り乱れ、家臣の「主は松平に寝返ろうとしている」という讒言一つで多くの国人が処刑された。
更に氏真は寝返りを防ぐ為に東三河の連中に新たな人質を駿府に送るよう命じた。
これには今川と松平の間で揺れていた国人たちの反感を買った。
当然の結果と言えるだろう。
結果、東三河は今川の支配下を脱し、松平の勢力下になった。
三河一国を有するようになった松平元康は織田信長と和議を模索をしているという。
一方、今川家現当主今川氏真は裏切り者である松平討伐の軍を起こしている。
三河の民が松平を領主であると認めるよりも早く討つ事にしたのだ。
だから、駿府城は人が少なく、寂しさを感じるのではないだろうか。
最も、俺は駿府城に居ないのでわからないが。
俺と甚介は城代に姫が頼み込んだ結果桜姫の直参となりはしたものの本来なら姫は城の『奥』から出てくるものではない。
そして、『奥』には俺や甚介のような身分のものが入る事は当然叶わない。
大名一門の人間であっても入る事が許されるかわからない場所だ。
別になんら不思議ではないは、俺たちにとってはとても困る。
俺の主は常にそこにいる。
会えないのではどうすればいいのかすらわからない。
だから、途方にくれていた俺と甚介の元の姫の侍女が書簡を携えてやって来た事は天啓にも等しかった
その文には俺たちがやるべき事が書かれていた。
瀬名秀政を救う為に必要な事らしい。
そこで、俺と甚介は別々にそれぞれの役目を全うする事にした。
俺はまず、今川家の菩提寺である臨済寺に向かい、住職と会っている所だ。
姫が先に話を通しておいてくれたおかげで実に無駄なくここまで至っている。
ここで椿という人物に関する情報を手に入れると共にそれに関する瀬名秀政の行動も知りたい。
「で、和尚。椿という今川家の女性がここで弔われたと聞いたんだが、墓はいずこだ?」
「椿?はて、存じませぬ。そのような人物が今川家に居たという記憶はござらんが」
和尚は茶を啜りながら、首をかしげた。
俺はそれをとぼけていると見て、追求する。
「そんなはずなかろう。桜姫が言うたのだ。椿という女が今川に居たと。姫が言うたのだ。間違いであろうはずがない」
「ですが……やはり、それは勘違いでは?少なくとも某は存じておりませぬ」
和尚はまたもやとぼけた。
些か腹が立って来た。
俺は元々気が長い方ではない。
どちらかといえば短気な方だ。
「よく思い出せ。知らぬはずがない。とぼけるのならば、ここで斬り捨ててもよいのだぞ?」
腰の刀に手を添え、いつでも抜き放てるよう構える。
「知らないものは知りませぬ」
和尚は全く動じずに変わらない調子で言った。
もちろん、すぐに斬ったりはしない。
それは最後の手段だ。
「嘘を言うな!お前が知らぬはずがない」
「しつこい方だ。知らないと言っていましょうに」
「だから、それが嘘だと言っている!俺は椿という女性に関する瀬名秀政の行動を知る必要があるのだ。潔く答えよ」
「瀬名秀政の?」
和尚がピクリと眉を動かした。
そこに反応するか
やはり知っているのだな。
押すべき場所は掴んだ。
「そうよ。あいつが何をしようとしているのか姫は知りたがっている」
「なぜです?」
和尚は茶を置いて、ジッと俺の目を見つめる。
坊主に見られると、心の中が見透かされているようで気分が悪くなる。
「詳しくは知らんが、過去に囚われているのを救いたいと言っていた」
和尚はしばらく目を瞑り沈黙した。
庭の鹿威しがカコンと音を立てる。
そして、和尚が何を思ったかいきなり立ちあがった。
「ついて来なされ」
どうやら案内してくれるらしい。
俺は和尚の後を追った。
行き着いたのは寺の敷地から僅かに外れたただの荒れ地。
手入れがされていないせいで雑草が生い茂り、歩くたびに草が足を撫で、くすぐったい。
「ここが姫様の探しておられる椿様のご遺体が眠っておられた場所です」
そう言って示したのは、俺の膝ほどまである大石が転がっている場所だった。
ただ石があるだけ。
なにか文字が彫ってあるわけでもなければ、何もない。
「これが墓か……」
俺がそう言うと和尚は苦々しげにポツリとこぼした。
「かつてはですがね」
「かつて?」
「今はここに眠っておられません」
「では、どこに?」
「わかりません。椿様のお墓は暴かれ、ご遺体は持ち去られてしまいました」
墓を暴かれた!?
嘘だろ……
「姫が若様をお救いになりたいと思う気持ちに共感し、この場所をお教えしました。
実を言うと、義元様よりここは何人にも言うな。と言われているのです。
ですが、某も若様を知る身。
あの方を救う為ならば、義元様の命にも逆らいましょう」
若様と言うのは瀬名秀政の事で間違いはないよな。
随分と慕われている。
しかし、今川義元はなぜ自分の側室の墓をこんな所に……
しかも、口封じまでしている。
なぜだ?
おかしいだろ。
「椿という女性はなぜ亡くなられたのだ」
和尚は意外そうな顔で俺を見た。
「知らないのですか?姫に聞かれたのかと思っていましたが、いいでしょう。
ここを教えたのです。ついでに聞かせましょう。少し長くなります
もう十年くらい前
当時、駿府には竜宮丸様と椿様という御方が居ました。
二人は親子でした。
父親に今川義元様という大名を持つ竜宮丸様は幼少の頃から勉学に励み、父の役に立とうと子供ながらに努力する純真無垢な少年でとても母親の椿様に懐いていたのです。
少しでも嬉しい事があれば、必ずや「かあさま!かあさま!」と椿様の元に走ってその膝の上で楽しそうな笑顔で報告している心和む風景がよく見られたものです。
人見知りで臆病な性格だった竜宮丸様は初めて鉄砲の音を聞いた時、とても狼狽し、椿様に抱きつかれたというのは当時の家臣たちの間でよく話されたものでしてね。
最も、鉄砲の音にあれ程驚くようでは武家の棟梁に相応しくない臆病者だと、話された事が多いのですが。
その竜宮丸様は喧嘩を好まない心優しい性格でしたが、それが大名の子としては好ましくないのです。
ところで、今川義元様には三人の男児がいます。
今で言うと
長男、今川氏真様
次男、瀬名秀政様
三男、一月長得様
この三人です。
長男と次男は同じ年に生まれましてね。
三男は早くから出家し、仏門に入っていたのですが、氏真様と秀政様は同じ年で同じ時期に生まれてしまったのですよ。
氏真様の生母が義元の正室であるという理由で、長男となり、秀政様は次男に落ち着いていたのでうが、秀政様こと竜宮丸様が仏門に入らなかった事もあり、この二人は今川義元様の後継者として自然比べられることになりました。
さて、二人ともこれまた臆病者でして。
竜宮丸様は他人を傷つける事をひどく嫌って、氏真様は自分が傷つく事を嫌って、槍術や体術を積極的に学ぼうとはしなかったのでsy。
代わりに、氏真様は歌や蹴鞠などに没頭し、竜宮丸様は漢書などを好みました。
これにより、次期後継者は学に通じる竜宮丸様の方なのではないか
との噂が広まり、氏真様派の家臣たちは先程の鉄砲の話などをやたらと取り立て、次男では相応しくない!長男こそが正当な後継者足る!と主張していた時期の事の事です。
事件が起こってしまいました。
いつものように竜宮丸様と椿様が二人で(無論、お供は居るのだが)散歩をしていた時の事です。
「かあさま、疲れました」
と幼い竜宮丸様が椿様の手を握りながら言われると、椿様は息子に優しく微笑みかけ
「そうね、休憩しましょうか」
と日陰で休もうとなさったところにです。
そこから突然太刀を持った男が走ってくるではないか!
「竜宮丸、覚悟!」
そう叫び、太刀を振りかざす。
椿様は咄嗟に息子を抱きしめ、お庇いになりました。
太刀が振り下ろされる直前にお供の一人が男に体当たりを食らわせて倒し、もう一人のお供が上乗りに両手を封じ、男を取り押さえた事により何事もなく終わりましたが、椿様は嫌な予感を覚えたらしいのです。
これ以降は城外を散歩する事をやめ、屋敷で竜宮丸様と遊びになるようになりました。
先の襲撃犯は捕らえられたと見るや舌を噛み切ったので誰の指示かわからないまま。
息子が狙われた。
それは椿様を不安にさせました。
嫌な予感ほど的中する。というのは誰の言葉でしょう。
あまり好きではないのですが、確かにそうだとは思います。
竜宮丸様の体調が崩れ始め、熱を出す事が増えたのです。
椿様は大層慌てらました。
「死んでしまったらどうしよう……」といつになく混乱されていたのがいまも記憶に残っています。
椿様がすぐに医者を呼び、診察させたところ、少量の毒を盛られていたがわかりました。
最初のうちは熱だけだが、飲み続けると死に至る毒だというのです。
このままでは息子が殺される
それだけは避けなければならないとお思いになった椿様は義元様に頼み、家中の氏真様派には警告を出させました。
椿様にはこれは氏真様を次期当主にしたい人たちの仕業だとしか思えなかったようです。
そうして自分で選んだ椿様は周りの人が徐々に信じられなくなり、警護の人間ですら疑うようになったのですよ。
敵はどこに居るのかわからないのですからね。
そうして、警備を遠ざけた事が原因でした。
ある日。二人で仲良く縁側でお菓子を食べていた時だったと聞きます。
賊が屋敷に侵入した。
具体的に何があったのかは知りません。
ただ、椿様は命懸けで竜宮丸様をなんとか屋敷の外に逃がしたのです。
竜宮丸様が泣きながら、兵を連れて急いで戻って来たとには既に賊の姿はなく、椿様のあまりにも無惨に変わり果てたご遺体だけがあったと聞いています。
それ以降、椿様と一緒の時はいつも笑顔だった竜宮丸様は一切笑わなくなり、壊れました。
挙句、瀬名家の養子となり、最終的には今川を出て行かれました。
これが某の知るところ。椿様の死に関わる話です。
若様は今川を出た後、しばらく消息を絶っていましたが、ある時突然美濃でその名を轟かせていました。
美濃で現れるまでは関東の武州で人斬りをしていたとも聞きますし、京の都で油を売っていたとも。堺で奉公していたとも。
要は謎なのです」
人斬り。
やってそうだ。
人を斬る事を快楽としていてもおかしくはない。
ただ、性格が豹変するのはなんなんだ
意識的にやっているとしても、こちらとしては恐い。
恐怖心は植えつく。
「……瀬名秀政はここに来たことはあるのか」
「この墓は若様が作ったものですので、時折来ては手入れをされて行きます。最近は来られてませんが」
「なぜ敷地内ではなく、ここに埋めた?中に埋めればよかろう」
「それは……」
和尚はなぜか言いにくそうに口を噤んだ。
「わしが墓を作る事を禁じたからだ」
すると、第三者が答えた。
箒を手にした坊主だ。
「義元様。掃除など某が致します」
「よい。わしは義元ではない。ただの一坊主よ。お前もそう振る舞え」
「は、はい」
義元?
その名前の男はこの国には一人しかいない。
今川義元。
現当主今川氏真と桜姫の父親。
嘘だろ……
超大物じゃねぇか
出家して俗世から離れたとは聞いたが、こんなとこにいたとは。
「かつて今川義元が椿の墓を作る事と椿について語る事を禁じたからよ。そこに墓があるのはな」
「な、なぜ禁じられたのですか」
「敵に僅かなりとも不安を見せてはならんからだ」
「敵?」
「周辺勢力全てだ。一分の隙でも奴らはつけいる」
「はぁ……」
わかったようなわからないような
「桜がこれを調べているという事は、秀政が何かしたか」
俺は先日の一件を話す。
義元様はうむ。と頷き、納得した様子。
「秀政は何をしようと止まらん。あいつの為を想うなら邪魔せんことだな」
「姫の行動が邪魔だと?」
「だろうよ。あいつは自分で修羅の道を行く事を決めた。ならば、わしは何も言わんし、何もせん。
瀬名秀政がわしに刃を向けたとしても、黙認しよう。
それが今まで何もしてやれなかった息子に対する唯一の詫びよ」
わからん。
修羅の道を行かせるのが詫びる事なのか?
正しい道に戻す事こそが親の愛であり、詫びなのでは?
そうは思うけれども、相手は今川義元。
俺なんかが反論して良いのか
それで機嫌を損ねて嫌われでもしたら、嫌だ。
よし、しないでおこう。
隠居してもその影響力は充分すぎる程に健在だ。
下手な事はすべきではない。
「桜がやりたいのならば、やればいい。だが、その行動が自分を苦しめるのだ」