第十話
「お久しぶりです。利治様」
秀政が下座で丁寧に頭を下げる。
その格好はまるで臣下の礼をとっているかの如く。
「瀬名……何の用だ」
利治の表情は優れない。
国親に無理に殿を押し付けた事に若干の後ろめたさを感じるらしい。
「まずは俺の兵をとても丁重に扱ってくださったそうで。その事でお礼を述べさせていただきたく」
顔を上げて唇を少し釣り上げた笑みで利治を見る。
「……いや、いらん」
「そうですか。では、本題に」
秀政は正座だった態勢を変え、あぐらに移行する。
「利治様。道三様亡き後この美濃を継ぐのはあなたではありませぬ。
織田上総介信長。
あの者です。俺と安藤殿は道三様の口よりはっきりと言われました。
美濃を尾張の信長にやると。
既に猪子兵介に美濃を譲る旨の文を託し、尾張に向かわせたそうで」
眈々と話すその内容は利治やその主従にとっては小さくない衝撃を生んだ。
当然だ。
義龍亡き今、後継者は自分だと確信していたのだから。
「瀬名っ!戯言を言うなっ!」
利治が顔色を変えて秀政を睨みつける。
「生憎と戯言ではないのですが。
真実というものは残酷なものですよ。
道三様は利治様よりも娘婿の織田上総介を選ばれた。
それは覆しようのない事実。
疑うのであれば、自ら道三様に訊ねるべきかと」
臆せずにニコッと笑みを作る秀政に利治は無性に腹が立った。
こいつはなぜここで笑みを作る!
何が目的だ?何を考えている?
これは父の指図なのか?それともこいつの独断?
それならば、これを私に言う事でどうさせようとしている?
兄と同じ道を辿らせようとしているのか?
そうか!
私に父を殺させ、反逆者の汚名を着せ、瀬名は道三の敵討ちという名目で私を殺しこの美濃を奪うつもりだな!
ははっ、瀬名秀政。
貴様の考える事などお見通しよ。
私を低く見過ぎだ。
お前の駒になぞならん!
だが、しかし……こいつの言った事は事実なのか?
父は本当に信長に美濃を譲ると?
「ならば、父に伺おう。私は稲葉山に向かう!」
はっ!と諸将が頭を下げてから続々と退室していく。
秀政もそれに倣い部屋を出る。
「父上!お身体は大丈夫で!?」
利治は稲葉山に着くや真っ先に道三の屋敷に向かった。
「おぉ、利治か。大丈夫……ではないな。今は調子が良いが悪いと喋る事すらできん。起き上がる事は今もできんが……」
起き上がれないほどの状態である事に秀政は利治の後ろで表情に出さず驚いた。
つい先日、自分に信長を頼むと言った道三はここまではなかった。
「利治。
秀政から聞いたかもしれんが、美濃は信長にやる。あやつを支えてやってくれ」
構えてはいたが、いざ言われるときつい。
利治は自分の父親を驚愕の表情で見る。
「父上!正気ですか!信長なんぞに美濃をゆずるなど正気とは思えませぬ!」
真っ当な言い分だ。
しかし、これが道三の怒りを買った。
「なんぞ?なんぞとはなんだ!
利治、貴様は信長よりも上だと思ってか!?
自惚れるなっ!貴様なぞ信長の足元にも及ばんっ!」
道三は大声で利治を怒鳴りつけた。
あぁ、年は取りたくないものだなぁ。と秀政はぼんやりと考える。
ここで利治の機嫌を損ねるなんて下策。
これくらい聞き流して適当に宥めておけばいいものをわざわざ油の中に入れるなんて。
老いたな。
いや、死を目前にして余裕がなくなったのか。
焦り、弱さが表に出て来た。
死は避けられないものだが、できるだけ来て欲しくはないな。
「やはり、自分を測れんような奴にはこの国はやれん!信長よ、信長こそが我が後継者に相応しい」
そう言ってから、道三は秀政に視線を移す。
「秀政、お前にはまだ教えねばならん事が多くあるが、それは叶わん」
「はい」
「今までの教えを活かし、自然の中に学べ。乱世を生き抜く秘訣はそこにあろう」
秀政はぺこりと頭を下げる。
そして、道三の視線が移る。
「…………利治」
「何でしょう、父上?」
名前を呼ばれて俯きながら斎藤利治が一歩前に歩み寄る。
「道利に大敗したそうだな」
「…………」
「阿呆がっ!ただ兵数頼みの力押しでいく奴があるか!信長ならお前に与えたほどの兵があれば、日根野、長井を相手にしても勝つぞ!」
利治が唇をギュッと噛みしめる。
強く握り締められた手には血が滲んでいる。
父親の愛ゆえに厳しく当たっているのか?
厳しく当たることで成長を望む?
と秀政は道三が利治に対してやけに厳しい理由を推測する。
「我が血を継いだ息子がこれとは。わしも所詮はただの凡才であったか」
違うな。
愛だからではない。
苛立っているのだ。
なぜ、こんなにもこいつは無能なんだ。自分の息子なのにどうしてこんな事ができない!?
そう思っているのではないだろうか。
「父上、お言葉ですがもう一度戦えば必ずや私が勝ちましょう。もう油断はありませぬ」
利治は道三に対して、ムッとした表情で言った。
「たわけがっ!もう一度?甘い事をほざくでない!
お前のあの敗戦はただの一敗では済まんぞ!
あれを知った国人どもが向こうに寝返るやもしれんのだぞ!?」
道三は声を荒げた。
しかし、秀政には道三の気持ちもわからなくはない。
今回、利治が引き連れていたのは道三軍の主力。
それが長井道利に惨敗したとあれば、形勢不利と立ち位置を変える者は少なくない。
だが、それが問題なのではない。
事の重要さに利治が気付いていない節がある事が問題なのだ。
なにより反省の色が見えない。
「まぁ、落ち着いてください。体に響きます」
とりあえずは病状である道三を落ち着かせる事だ。
興奮させるのはよくない。
「むぅ……。わしとしたことが取り乱したな」
と俯き、「信長ならばこのような失態はなかろうに……」と小さく呟いた。
聞こえないと思って言ったのだろうが、利治の耳には届いてしまった。
道三は利治がとても親に向けるものとは思えない視線を向けている事に気付いているのか?
いないだろう。
彼の目には誰も写っていない。
見えているのは信長が美濃と自分の夢を継ぎ、叶える姿だけだ。
やっぱりそうなのだ。
一つ上の世界に居る人間は同じ高さの者を求める。
なるほど。
もし、俺が義龍であったのならばこの父親はさぞ憎かった事だろう。
この手で殺した者が何を思って自分の敵になっているのかなんてこれっぽっちの興味も抱かなかったが、今回ばかりは共感を覚えた。
自分が何をしようと見てはいない。
それどころか信長と比較し、彼を褒め称える。
世間にうつけ者と噂される人物よりも下に見られる事は屈辱だ。
しかし、道三の異常なほどの信長の溺愛は俺にとっては幸運。
背中を押すまでもなかろう。
利治は信長と敵対する。
美濃を信長には絶対に渡さない。
これでいい。
信長にさえ渡らなければいい。
それならば、俺はいくらでも手が届く。
斎藤道三は長良川の戦いから一年が経過した1557年に稲葉山の自らの屋敷で息を引き取った。
美濃を一代で獲った天下に名高い英雄は生涯を終えた。
京に昇るという夢を叶えられぬままに。
そして、美濃は信長に譲るなんぞ言語道断と主張する斎藤利治を国主とした。
秀政と安藤伊賀守は異議を唱える事なく、むしろ賛同し、利治を主君とした。
現在、美濃では長井道利が反旗を翻している。
その中で道三が亡くなり、国人たちによる裏切りが相次ぐ中、尾張の信長からの使者が来た。
『尾張国内の混乱は治まった。
道三の遺言により美濃はこの信長が譲り受けた。
稲葉山から退去し、臣下の礼をとられよ』
要約すればこんな感じの要求だった。
当然ながら、利治は激怒した。
そして、秀政を信長のもとに向かわせる事にした。
そんなふざけた要求は飲めぬ。
そちらこそ臣下になるべきだ。
という文を託して。
「貧乏くじだな」
安藤伊賀守と一緒に稲葉山の城門を出る秀政はそんな事を呟いた。
「ははは、婿殿は嫌われた」
「今は婿殿ではありませんよ」
「でも、葵は婿殿の城に居るではないか」
「そうなんですけどね」
「それはそうと婿殿。本当に尾張に行くのか」
「まぁ、俺が直接行けとの事ですから。行かねば謀反の意志あり。行っても信長の怒りを買い、命の保証はない。邪魔な俺を排除するつもりなのでしょう」
「……では、どうする」
「行きますよ。ちょうど信長に会ってみたかったものですから」
ニコッと微笑んで秀政は伊賀守と別れ、居城に戻った。
白海城に戻った秀政は馬を預け、屋敷に入った。
「お帰りなさい」
葵と茜が出迎える。
「ただいま。茜は旅支度をして」
こくりと茜が頷いて屋敷の奥に消えて行く。
葵は秀政が脱いだ肩衣や袴を受け取り、代わりに湯帷子を渡す。
「また、そのような格好でお出かけに?」
湯帷子を着る秀政に聞く。
「葵、湯帷子は水を吸ってくれるし、快適だよ」
「でも、それは湯上りに着るものではありませんか」
「そうだけどね。気楽じゃないか。それに女性は小袖だけだ。男が肩衣に袴なんて堅苦しい格好をするのは間違いだよ」
「女性はいいのです。男性はきちんとしていないと」
「いいじゃないか。こっちの方が動き易い」
「それは私以外の女と寝る時にですか?」
「…………?」
秀政はキョトンして見返す。
「浮気はしないと言ってくれましたよね?」
「うん」
「じゃあ、あの子はなんですか!?」
葵が秀政の襟を掴む。
「あの子?」
「茜です!必ず一緒に連れて行くではありませんか!」
「いやいや、別にそういうのじゃない。妹みたいなものだよ」
「本当ですか?」
「俺が嘘ついた事があるか?」
「あります」
「うん。ごめん。でも、これは本当だから」
葵の頭を優しく撫でる。
すると、襟から手が離された。
「あ、そうだ。……今から尾張に行くけど、俺が死んだって話を聞いたら国親を頼れ。あいつなら不手際なくお前を安藤殿のところまで届けてくれる」
「え?」
「えっと……利治様には嫌われたみたいでな。信長の怒りを買って来いと。そんな事して生きて戻って来れるかなって事」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
「ん?」
「私たちはようやく一緒になれたのにそれはあんまりじゃないですか!」
「ん~、まぁ、逆らったら叛意有りで捕えらそうだから」
「流石にそれはないんじゃ……」
「いや、いくらでも理由なんてこじつけられる。目障りな奴を消す為ならあいつらはどんな手でも使う」
俺もだけど。
とは付け足さない。
「ま、多分大丈夫だと思うよ」
壁にたてかけてあった刀を腰に差して草履を履く。
すると、葵に裾を掴まれた。
「……」
「?」
「着いていってもいい?」
「……どうして?」
「死ぬなら一緒がいいもの」
「駄目と言ったら?」
「着いて行きます」
「それでも駄目」
「なら、こっそり後をつけます」
「あのねぇ」
「茜は連れて行くのでしょう?」
「…………」
「あの子が良くて私がなぜ駄目なのです?」
秀政は頭を抱えた。
茜を連れていく正当な理由が見当たらないからだ。
ただなんとなく落ち着くという身勝手な理由で引きづり回している。
「……なんでだろうね」
「とにかく行きますから」
葵は身を翻して、屋敷の奥に準備をしに行ってしまった。
「はぁ……面倒な事になった……」
そう呟きながら、縁側に腰かけた。
尾張に行く。
信長に会えるのだ。
それ自体は嬉しい。
一目確かめておきたかった。
あの道三があれ程までに惚れ込んだ男だ。どのような人物かは興味がある。
しかし、喜怒哀楽の激しい人物とも聞く。
万が一の為に何か土産がいるか?
いや、俺はいわば奮戦布告に行くも同然。
それに土産はいらんか。
持って行っても皮肉にしかなるまい。
しかし、利治の文に書かれた通りにするのはよろしくない。
中と外に同時に敵を作るのは厳しい。
文を破り捨てる。
交渉の内容はこちらで考えるとして。
どうせならば普通に行くもつまらん。一つ遊びをいれてもいいんじゃないか
死装束を持っていこう。
小姓に買ってくるように言い付ける。
ふふふ、これを着て、謁見するとしよう。
織田信長がどう反応するか見ようではないか。
「お前さま、準備ができましたよ」
葵と茜が荷物をまとめて、侍女に持たせながら縁側に座った。
「早いね」
「待たせては悪いですから」
「別に気にしなくていい。どうせまだ出ない」
買い物に行かせたのが帰って来てないから。
「茜、こっちにおいで」
手招きすると、茜が横にくる。
「背、伸びたか?」
「ちょっとだけ」
「そうか。お前、いくつだっけ?」
「15になった」
「葵は?」
「お前さまと同じですよ」
「ふむ。3つの差というものは意外に変わらんものだな。なんにせよ。この年で幕切れはもったいないな」
俺はともかくこいつらは死なすわけにはいかんよな
「それにしても15か。嫁入りが近いな……」
「嫁入り?」
「そう。葵が俺のところに嫁いだのも茜くらいの頃。誰かいい男を見つけておけよ。行き遅れる前にな」
秀政としては冗談半分で言ったのだが、茜に脛を蹴られた。
「痛いんだけど」
抗議をしてもそっぽを向かれる。
なんで?
まぁ、後で砂糖菓子でも食わせれば機嫌治るだろ
「殿、買ってまいりました」
「ご苦労。御者に持たせとけ」
「はい。それと、既に皆は屋敷の前で待機しております」
「わかった」
秀政は立ち上がって葵と茜の手をとって立たせる。
「行くよ。尾張に」