リンチャ村 Ⅳ
森は奇妙なくらい静まり返っていた。自分の足音と息遣いが、いつもより大きく聞こえる。
レイアは、ロト神様のところまでの近道を走っていた。とはいえ、昼間に通った道より遥かに足場が悪い。走るというよりは、太い木の根を登ったり潜ったりの繰り返しだった。通い慣れたレイアでも苦戦するこの道を、ちっとも遅れずについてくるルークも大したものだ。
ババ様は穴の外に出ていた。険しい顔をして、レイア達を出迎える。
「ババ様、大変だよ、村が…」
「ああ、わかっておる」
そして、ルークを睨みつけた。
「この期に及んで何をしに来たのじゃ?よそ者。おぬしらが賊どもを村に呼び込んだのじゃろう?」
「ちょっと、ババ様…」
レイアが反論するのを遮って、ルークは言った。
「ロト神様と話をさせてください」
「…なんじゃと?」
ババ様が目を丸くする。ルークは返事を待たず、まっすぐ祠に向かった。レイアも慌てて後を追う。
ルークは祠の前で立ち止まらず、直接樹の幹に両手を当て、目を閉じた。
「あなたの大切な村の人たちを助けるために、少しだけ力を貸してください。…あなたの力が必要なんです」
ざわ、と葉擦れの音がした。レイアは、いつものように風か鳥が揺らした音だと思った。しかし、最初小さかったそれは、幾重にも重なり、だんだんと大きな音になり――
「…?」
瞬く間に轟音となって辺りを包み込んだ。風の音ではない。鳥の仕業でもない。胸を掻き毟るような、ひどく胸騒ぎを感じる音の嵐に、レイアは耳を塞ぎたくなった。けれど手が動かなかった。金縛りにあったように、そこに立っていることしかできなかった。何か、大きな力が辺りを支配している――
そこで、ルークが目を開け、樹を見上げて微笑んだ。
「…ありがとう」
轟音の中で、不思議とその声だけがはっきりと聞こえた。音は少しずつ小さくなり、やがて森に再び静寂が訪れる。レイアの金縛りも解けた。
「…今のは…?」
ルークは踵を返し、レイアの元に戻ってきてその手を引いた。
「後で話す。村に戻るよ」
広場はまだ炎に囲まれていた。ただ、先ほどレフィスト達が消火した箇所から多くの村人が逃げおおせたようだ。炎の輪の中では、村の男たちと賊が戦闘を繰り広げている。
レイア達が中の様子が見えるところまで来たとき、刃物で貫かれて倒れていく人影が見えた。炎に照らされているとはいえ、夜の闇も濃くなってきている。外側からでは誰が村人で誰が賊なのか、判別がつかなかった。
「ど、どうしたら…」
「大丈夫」
途方に暮れるレイアの横を、ルークが通り抜けた。背中に背負っていた剣を引き抜き、広場の喧騒に突っ込んで行く――
と思いきや、炎の輪の手前で急停止した。剣を振り上げ、どす、と思い切り地面に突き刺す。
ルークが剣を刺したところから、バチバチと音を立てて、緑色の閃光が稲妻のように地面を這っていく。そしてその光は、あやまたず賊だけを攻撃した。
「ぎゃっ!」
彼らの体は一瞬で切り裂かれ、血が噴き出す。その場に崩れ落ち、そして――そのまま動かなくなった。
村人達は、突然相手が倒れたことに戸惑っている。辺りには炎の爆ぜる音だけが満ちている。ルークは、地面に突き立てた剣にもたれかかり、額の汗を拭っていた。
村が助かった、という事実を頭が理解するのに、少し時間がかかった。ようやく実感が沸いてくると、レイアは急に膝の力が抜けた。がくん、とそのまま地面に倒れそうになる。
「…うっ!」
けれど、倒れることはなかった。誰かの腕が後ろから首に回され、上に引っ張り上げられる。背中が生暖かいものに押し付けられ、頭上で声がした。
「小僧!そこまでだ!」
言われてルークが振り返る。同時にレイアの首元に、ひやりとする何かが充てられる。ルークが一瞬目を見開き、眉をひそめるのが見えた。
「おっと、動くなよ。それ以上余計なことをすれば、嬢ちゃんの命はないぜ」
それでようやく、レイアは自分が人質にとられたのだと気づく。自分を抱え上げている男の他にも息遣いが聞こえ、彼の背後にも複数の人がいるらしいことがわかる。炎の中から脱出していたのは村人だけではなかったのだ。
耳元で、自分の心臓がばくばく鳴っている。意識がどうしても首に当てられた刃物らしきものに集中してしまう。私、このまま殺されちゃうの?
ルークは完全にこちらに体ごと振り返り、後ろ手で剣に寄りかかっている。彼が、焦るどころか、完全に冷め切った目をしていることに気づき、レイアはますます不安になった。
――なんで、あんなに冷静なの?まさか見捨てる気じゃあないよね?
「…その紋章」
ルークが落ち着いた声で言った。
「確かウォールテアの国だったと思うけど」
怯えながらもしっかり聞いていたレイアは、目を見張った。ウォールテアといえば、海を挟んだ隣の大陸だ。…わざわざ海を越えてここまで?
背後の男が鼻で笑う。
「その通り。クーデターで無くなっちまったがな」
「じゃあ、あんたたちは元・国王軍?」
ルークは冷ややかな笑みを浮かべたまま言った。
「クーデターで、国を追い出されたのか。軍人の割には戦い方が荒っぽかったけど」
「お前が倒した連中は正真正銘の蛮族だ。思う存分暴れさせてやると言ったらついてきた」
なるほどね、とルークは納得したように呟く。
「…で、要求は?」
リーダー格の男は、レイアの首に回した腕に力を入れる。息苦しくなって、レイアは両手で男の腕を外そうとするが、びくともしない。
「充分な金と食糧を用意しろ。あとは…お前は目障りだから、大人しく死んでもらおう」
「…後半はともかく、前半はよそ者の俺には決定できないんだけれど」
そこでルークはレイアに目をやった。
「とりあえず彼女は解放してやってよ。それから考える」
「人質の意味がねえだろうが!」
男の声が自分の背中から上に振動するので、レイアの体はびくり、と痙攣した。ますます不安になってルークを見る。これ以上、この人を怒らせないでほしいんだけど…。
「大体、嬢ちゃんには森の案内してもらわなきゃなんねえからな」
「それだと、彼女を殺すって脅しがそもそもおかしいじゃないか」
ルークは淡々と切り返す。
「もし要求が通らなくて殺しちゃったら、案内役がいなくなるだろ?」
「そん時は他の奴に案内してもらうさ。村人なら道がわかるらしいじゃねえか。この嬢ちゃんがそう言ってるのを聞いた奴がいるんだよ」
あの時だ、とレイアははっとした。昼間、レイアを襲った男が彼らの仲間だったのだ。レイアがカイルを止めたことで命拾いして、ずっと後をつけて来ていたのだろう。ルークも同じことに思い当たったのか、自嘲気味に笑った。
「俺はともかく、カイルまで尾行に気付かなかったなんて…さすが軍人さんだ」
「道案内だけじゃなく、こっちが知りたい村の情報をペラペラ喋ってくれたからな。平和ボケしてる村で助かったぜ」
リーダーの男は耳障りな声で笑った。後ろの男達も笑っている。
レイアは悔しさで涙が出てきた。私が近道したせいで、村を危険に晒してしまった…。
「ボケてんのは、あんたらの方だ」男達の笑い声を、ルークの冷たい声が遮った。
リーダーの男が、ぴたりと笑うのを止める。
「…なんだと?」
「もう忘れたのか?それとも見てなかったのかな。あんたらの仲間を俺が倒すのをさ」
そこで、ルークはぞっとするような笑みを浮かべた。
「俺は自分の敵だけを攻撃することができるんだよ?だから人質をとっても意味がない」
リーダーの男が、一瞬、体を強張らせるのがわかった。そうだった…どうやったのかわからないけれど、さっきはルークのおかげで、村人皆が助かったんだ。
しかし、リーダーの男が怯んだのは一瞬だった。ハッタリだな、とせせら笑う。
「じゃあなんで今は攻撃してこない?本当はできねえからだろ」
「未来ある健全な好青年に殺人を推奨するのはいかがなものかと」
「あれだけ殺しておいて健全もクソもあるか」
…確かに。レイアも思わず同意してしまった。
「じゃあ、あんたらと違って無益な殺しはしたくないからってことにしといてくれる?」
「ふざけたこと言ってねえで、大人しく要求に従え」
「だから、先に彼女を解放してよ」
「…っいい加減にしろよクソガキ!」
リーダーの男は、ぐい、とレイアの首に刃物を押し付けてきた。小さく、焼けるような痛みが皮膚に走る。いよいよ本気で怒らせてしまったようだ。レイアは、自分の心音が耳元で加速するのを聞いた。
「この娘ぶっ殺すぞ!」
ルークはこれみよがしに溜息をついた。
「ぶっ殺すとは穏やかじゃないなあ…まあ、俺も回りくどいことは嫌いだし」
姿勢を正し、緑色の目で、射抜くような視線を向けてくる。
「これが最後だ。彼女を解放しろ」
「だから、解放しねえっつってんだろ!」
「…そう」
ルークはどことなく寂しげな表情で呟くと、仕方ないなあ、と言って俯き、目を閉じた。すると、彼を後ろで支えている剣が、緑色の光を発し始めた。先ほど多くの賊を死に追いやった、禍々しい光。
「…くっ、やっちまえ!」
焦ったように号令をかけると同時に、リーダーの男はレイアを羽交い絞めにしたまま後ろに下がり、大木を背に避難する。入れ替わりに、彼の背後に控えていた仲間達が、ルークに突進する。
ルークはその場から動こうとしない。男たちが飛び掛かる寸前、顔をあげて、
「――カイル」
よく通る声で呼びかけた。
――え?
レイアはルークの視線につられて上を見た。リーダーの男も上を見る。二人の背後にある樹から伸びた枝が、幾重にも重なって屋根をつくっている。
そこに、黒い影が見えた。見えた、と思った時には、もうなかった。
視線を前に戻すと、ルークの前にカイルが降り立つところだった。その姿を認識すると同時に、ルークに突進していった男たちの首から上がふっと浮いて、ひゅうっと風の音がレイアの頭のすぐ上を通り過ぎる。
カイルが地面にしっかりと立ち、腕を大きく振るう。すると、その手に今までなかったはずの剣が握られていた。刀身に絡みついた赤黒い液体が、彼の腕の動きに合わせ、宙に弧を描く。
一瞬浮き上がったように見えた男たちの首が、ごとん、ごとん、と音を立てて地面に落ちる。一拍遅れて、首を失った体が、血しぶきをあげて倒れていく。
レイアの足元にも、重いものがごとり、と落ちた。視線を落とすと、驚愕に見開かれた目と目が合う。頭上から降り注ぐ、生暖かく赤黒い雨が、たちまち視界を覆う。
突如、支える力を失ったリーダー男の体が、ずしりと圧し掛かってきた。重さに耐えきれず、レイアも一緒に地面に叩き付けられる。一気に視界が真っ暗になり、そこからは何もわからなくなった。