病の町カウディン Ⅰ
ルイジアナは、レイアの後ろ姿が見えなくなったのを確かめると、部屋に戻った。ベッドに横たわる、傷だらけの青年を見下ろす。
「…彼女、随分とお人好しなのね。おかげで、こちらは助かったけれど」
相手が答えないことを知りながら語りかけ、1人ほくそ笑んだ。寝間着のポケットに隠していた包丁を取り出し、鞘から抜いて、刃こぼれがないことを確かめる。
「…悪く思わないでね」
包丁を逆手に持ち、頭の上に振り上げる。青年の喉を目がけて、一気に振り下ろそうとした――その時。
「…カイル」
唐突に声が聞こえ、ルイジアナは包丁を上げた姿勢のまま、びくりと固まった。
「まだ殺しちゃダメだよ」
目の前に横たわる青年が、いつの間にか目を覚ましている。薄く開いた緑色の眼が、ルイジアナの後ろを見ていた。
それでようやく、ルイジアナは自分の首筋に冷たい感触があることに気が付いた。背後に立つ誰かが、鋭利な刃物を押し当てている。
「…彼女には、まだ聞きたいことがあるんだ」
「っあー…そうだった」
レイアは頭を抱えた。どうして、こんな重要なことを忘れていたんだろう。
ルイジアナは、東にまっすぐ行けば町に着くと言っていた。それには、例のオロ神様がいた山を越えて行かなければならない。
しかし山は、今や土砂の塊と化していた。足場はすっかり緩くなっていて、走るどころか歩くのもやっとだろう。
土砂の山を迂回するしかない。でも、余計に時間がかかってしまったら?方角を間違えてしまったら?
ぐるぐると渦巻く不安を振り払うように、レイアはぶんぶんと首を横に振る。考えていても仕方ない。先に進まないと。
そう決意し、右側から土砂の山の周囲に沿って走り始めた。山の上からは、まだぱらぱらと小石や木の枝が落ちてくる。それらに気を付けながら、なるべく走りやすい道を選ぶ。
しばらく進むと、右手に森が見えてきた。山の土砂が、森に侵入し、何本か木が倒れている。仕方なくレイアは、森の中を通ることにした。空に顔を出したばかりの太陽の位置を確認し、走り続ける。
か細い声が聞こえた時、最初は気のせいだと思っていた。しかし、それはだんだんはっきりと聞こえてくる。レイアは足を止めた。人間の声ではない、甲高い鳴き声。だけど、確かに助けを求めている声。
レイアは声のする方に進んで行った。森の奥の方。
「…あ」
草陰に、その鳴き声の持ち主は、いた。淡い青色の鱗で覆われた体に、前足のついた翼。
「翼竜?」
今ではほとんど見られなくなった、翼竜の子供だった。爬虫類のような口をぱくぱくさせて、きいきいと甲高い声で鳴き、必死に暴れている。見れば、後ろ足を金具で挟まれているのだった。
翼竜は、その上等な鱗や牙を材料として使うために、乱獲が進んで現在では数が大きく減ってしまっている。翼竜の活躍する昔話を聞かされた時、母のメリカがそう説明してくれたことを、レイアは思い出した。希少な生物とされる今でも、その価値を狙って捕まえようとする者が後を絶たないとか。この罠も、そういった類の輩が仕掛けたのだろう。
「待ってて、今、助けてあげるから」
レイアは翼竜の足を挟んでいる金具の上部を掴み、翼竜の足が抜け出せるようにしようとした。金具は、生き物の顎のような形をしていて、その刃を翼竜の足にしっかりと喰いこませていた。バネが入っているのか、力を入れれば少しは開くのだけれど、すぐに元に戻ってしまう。金具の下部は地面に固定されているので、レイアは両手を使って、金具の上部を思い切り引っ張った。
ようやく、翼竜の足が金具の刃から解放された。翼竜は素早く足を引き抜き、あっという間に飛び去った。
「よかった…」
ほっとしたのも束の間。
「…あイタっ!」
力の抜けたレイアの両手を、金具がバチンと挟み込んだ。皮膚に刃が喰いこみ、じりじりと痛みが広がる。もう一度持ち上げようにも、挟まれた手が痺れて力が入らない。レイアは両手の自由を奪われ、膝立ちで前かがみになったまま、身動きが取れなくなってしまった。
「…あーっと…どうしよ…誰か、いませんかー?!」
とりあえず助けを求めてみたが、叫ぶ声は森に吸収されてしまい、木の葉のこすれる音しか答えはなかった。
「ああもう、よりによって、急いでる時に…なんで手を離さなかったの、私…」
レイアが自分の愚かさを嘆いていると、上の方から声がした。
「…はて、奇妙なこともあるものじゃな」
涙目で上を見上げると、木の上に人がいて、レイアを見下ろしていた。白いローブが風にはためいている。逆光になって、顔はよく見えない。
「翼竜用の罠に人の子がかかっているとは」
「あの…見てないで、助けてくれませんか」
「ふむ」
レイアの訴えに、その人物は落ち着き払った様子でひらりと飛び降り、パチン、と指を鳴らした。レイアの手を挟んでいた金具が、抵抗もなく外れる。
「これで良いか?」
白いローブの人物――中性的な顔立ちだけれど、口調と声の低さでレイアは男性と判断した――は、にっこりと微笑んだ。白い肌と、あちこちに跳ねた水色の短髪。ローブの色と併せて、全体的に色素の薄い印象を与えた。
レイアは、目の前の男と、自由になった自分の両手とを交互に見つめる。
「…すっごい。どうやってやったの?」
「秘密じゃ」
「うう、ずるい」
でも、とレイアは視線を落とす。
「羨ましいなあ」
「うん?」
「私にも、そういう特別な力があったらいいのに」
ここのところ考えていたことが、口を突いてこぼれ出る。白いローブの男は、レイアの言葉を促すように、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「ルークみたく賢くて、不思議な力を持ってれば、良かったのに」
レイアは、傷だらけになった自分の両手を見る。ルークなら、翼竜の子供くらい、もっと効率よく助けられただろうに。
「カイルは強いし。私なんか、頭は悪いし、いっつも二人に助けられてばっかり…」
そこでレイアは、はっとして言葉を切る。
「ごめんなさい、あなたにこんな話しても、仕方ないのに」
「…おぬし、急いでおると言ったろう?」
え、とレイアは顔を上げる。
「そ、そうだ、急がないと…」
「自分が急いでおるのに、傷ついた者を助けられるというのは、充分に特別な力じゃと思うが」
男は、そっとレイアの両手を包み込むように握った。ふわり、と温かい感触がレイアの両手を包む。
男が手を放すと、レイアの手の傷は跡形もなくなっていた。痛みもない。
「少なくとも、誰にでもできることではない。誇りに思ったらどうじゃ」
「えっ…と」
レイアは、驚いて男の顔を見た。空のように、澄んだコバルトブルーの瞳と視線が合う。ずっと見ていると吸い込まれそうだ。
「このまま真っ直ぐ進めば、大きな樫の木がある。それを北に進んで、森を出たすぐ先に町が見える。町に行くなら、その方が早い」
「え」
レイアは、男が方向を示す指につられ、首を横に向ける。
「あ、ありが…あれ」
礼を言おうとして再び顔を戻すと、男の姿は消えていた。
白いローブの男の言うとおりに進むと、町が見えてきた。『カウディン』と書かれた看板が立っている。
先ほどの村より規模が大きく、民家も立派な造りのものが多い。しかし、道に出ている人の数はまばらだった。奇妙なことに、寒くもないのに皆フードを深くかぶり、マスクをしている。
「あの」
誰もが急ぎ足で、レイアが声をかけても立ち止まってくれない。店先で買い物をしている人に声をかけてみても、逃げるようにその場を立ち去ってしまう。
「…警戒されちゃってるみたい?」
ぼんやりと道に立っていると、後ろから肩に誰かがぶつかってきて、大きくよろめいた。
「きゃ?!」
ぶつかった誰かは、レイアの方を振り返らず、そのまま走り去ってしまった。ポンチョの下から伸びる、長く細い足の先に、ショートブーツを履いている。
「…なんなの、もう」
急に、レイアは心細くなった。知らない町。よそよそしい人々。こんな時、ルークがいたら頼りになるのに。キャロルやレフィ兄がいれば、心強いのに――
ぱちん、と自分の両頬を叩いて、気合いを入れる。ダメだ、しっかりしなくちゃ。
レイアのその様子を、驚いたように見つめる人がいた。レイアが気づいて顔を向けると、相手はびくりとし、そそくさと立ち去ろうとする。
「ま、待って!」
レイアが慌てて手を掴むと、相手は手を振りほどこうとした。レイアも必死で抵抗する。
「ご、ごめんなさい、怪しい者じゃないんです!人を、ウェルズ=ハンさんを探してるの!」
相手は動きを止め、フードの奥の目を丸くした。しかし。
「あ」
すぐにレイアの手を振り切り、走り去る。レイアには追いかける気力もなかった。大きく、ため息をつく。やっぱり、私なんかじゃ上手くいかない――
「…ハン氏を探しておる、とな」
「ひゃっ!」
唐突に声をかけられ、レイアは飛び上がった。見ると、先ほどの相手が買い物をしていた店の奥から、老人が顔を覗かせている。
「…はい?…はい、まあ」
レイアが曖昧に答えると、老人は手招きする。レイアは導かれるままに、店の中に入る。どうやら本屋のようだ。両脇の壁はすべて棚になっていて、難しそうなタイトルの分厚い本が所狭しと並んでいる。近くまで寄ってみると、老人はカウンターの内側にいた。銀色の髭が口周りを覆っているが、不思議と清潔感が感じられた。
「知ってるの?おじいさん」
「医者のハン氏と言えば、この町で知らぬ者はおらん」
老人は目を眇め、レイアを見る。
「今、この町は原因不明の病が流行っておる。肌に触れると感染する病じゃ。…見たところ、お前さんは大丈夫そうじゃが」
「私、たった今ここに来たばっかりだから」
言いながら、なるほど、とレイアは思った。だから皆、フードやマスクをしていたのか。妙によそよそしかったのも、レイアがフードもマスクもしていないから、病に感染しているかもしれないと思っていたのだろう。
「見ればわかるモノなの?感染してるかどうか」
「まあな。初めは顔の表面に小さな斑点が出る。よく見れば独特の色をしておるからわかるが、そばかすや黶と見間違えやすい。おかげで発見が遅れ、大量に死者が出た」
「…死んじゃう病気なの?」
「感染に気付くのが遅ければ、な。全身に麻痺が起こり、呼吸困難になって、最終的には心臓機能も停止する。発症から数日のうちにな」
老人は淡々と説明する。年の割には、きびきびとした口調だった。あるいは、見た目ほど年はとってないのかもしれない。
「患者は、今も増え続けておる。しかも、ハン氏にしか治せん。だから、ハン氏は治療のため町中を走り回っておるわ。会うのは難しいぞ」
「そんな…この町に、他にお医者さんは?」
「おらん。皆、病に倒れてな。だから病がおさまらんのじゃ」
レイアは唇を噛んだ。せっかく、ここまで来たのに。
老人は、そんなレイアの顔を覗き込んだ。
「一体、彼に何の用じゃ?」
「…仲間が、怪我してるの。今は、山の向こうの村で休んでるけど」
「そうか…」
老人は、同情するように、僅かに眉を下げた。
「残念じゃが、よそを当たった方が良い。あまりこの村におると、お前さんも危険じゃ」
「…うん、ありがとう、おじいさん」
「ところで…良いのか?」
老人がレイアの後方、店の外に目を遣って聞いた。レイアは首を傾げる。
「?何が?」
「先ほどぶつかっていった奴、お前さんの財布を掏って行ったようじゃが」
「え」
レイアは慌てて懐を探る。――確かに、さっきまで感じていた小銭の重みがなくなっている。
何かの時の為に、とルークから貰ってあったお金なのに。さっと血の気が引いて、心臓が一拍跳ねた。
「そ、そういうことは、早めに言ってよ!」
言うや否や、レイアは店を飛び出した。