リンチャ村 Ⅰ
「昔々、あるところに、一つの大陸がありました」
晴れた青空の下、若い女性の声が、澄んだ空気に響き渡る。緑に囲まれた村。その一角に、村の子供たちを集めた保育所があった。保母を担う、20代後半の女性は、子供たちを庭に集めて、昔話を話して聞かせていた。
「そこにやってきた4人の神様が、大陸を4等分しました。そうしてできたのが、北のウォールテア、西のウィンディ、南のアーシス、そして東が、私たちの暮らす、ファイリアル」
彼女は、黒板にチョークで地図を描き、一つずつ指さしていった。子供たちは、食い入るように、黒板を見つめる。
「大陸には、土しかありませんでした。そこで神様たちは、綺麗な風景を作ろうと思いました。青い海、緑の森、色とりどりの花。下界が色で溢れると、今度は音が欲しくなりました。神様たちは、命を作ります。たくさんの種類の動物や虫、私たち人間。そうして下界が賑やかになると、上に何もないことに気が付いて、空を作ることにしました」
彼女が空を指さすと、子供たちは素直に空を見た。絵の具で塗りつぶしたような真っ青な空に、白い綿雲がふわふわと流れていく。風が、語り手の女性と子供たちの髪を揺らした。濃淡の違いはあるものの、全員が、赤みがかった茶色の髪だ。
「神様たちは、4つの大陸が浮かぶ海の真ん中に、もう一つ大陸を作りました。その大陸で、神様たちは代わりばんこに、空の中心を支えることにしたのです」
黒板の地図の真ん中に、彼女はチョークでマルをつけた。
「ところが、ウィンディの神様が、人間の女の子と恋に落ち、空を支える仕事を嫌がるようになりました。片時も、女の子と離れたくない、と言うのです」
子供たちは、不安そうな顔で語り手の女性を見つめる。
「怒った他の神様たちは、その神様を大きな樹に変え、永久に空を支える仕事をさせることにしました。ウィンディは、その神様の子供のものになりました」
神様が樹に変えられた、というくだりで、子供たちは目を見張った。女性は、その反応を楽しみながら、話を続ける。
「ところが、その神様と恋に落ちた女の子は、寂しがって、神様のいる大陸を見ては、毎日泣くのです。哀れに思った他の神様は、空を支える神様がいる大陸を、人間の目には見えないよう、隠してしまいました」
言いながら、黒板の地図の真ん中に位置するマルを、バツで消した。
「今でも、地図にはこの大陸はありません。だけどね、信じる人には、ちゃんと見えるんだって。世界の空を支える、おっきな樹が」
「配達でーす!」
レイアが声をかけると、建物の修復に勤しんでいた男達が一斉に手を止めた。中でも一番若い青年がレイアの方へ駆けてくる。
「悪いな、レイア」
「仕事だもん。それからこれ、差し入れ」
配達分の手紙と、焼きたてのパンを入れたかごを手渡す。
「…少ねえなあ」
「そんなこと言うと、もう持ってきてあげないんだから」
かごの中を覗き込みぼやく青年に、レイアはわざとらしく口を尖らせた。
「レフィスト、あんまり遅くなるんじゃねえぞ」
背後からの冷やかしの声に、レフィストと呼ばれた青年はうるせえ、と怒鳴りかえす。男達は笑って、すぐに作業に戻った。辺りは再び、かん、かん、という音で一杯になる。
「まだ時間がかかりそうだね」
「ああ」レフィストはちらりと半壊した建物を振り返って言った。
「近々また天候が荒れるらしいんだ。早いとこ治さないとまた一からやり直しだからな…というわけだから、今夜の祭は行けそうにない。悪いな」
「えー!久々にレフィ兄と遊べると思って、キャロルと楽しみにしてたのに…」
レイアが拗ねると、レフィストはごめんごめん、とレイアの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「また今度な。…それじゃ」
そう言ってそそくさと立ち去った。レイアは撫でられた箇所を触りながら、ぼんやりとそれを見送る。
レイア達の暮らすリンチャ村は、上から見ると三日月のような形をしていて、周りは全て深い森に囲まれている。そのため村人の大半は、村の端から端まで行く際に村の中心部に位置する森をぐるっと迂回していく。
村の南端に住むレイアの配達コースも同様で、三日月の外側の弧に沿って順に配達し、来た道を戻ってくる、ということになっている。しかし。
「…今日は祭だから早く帰りたいなあ」
一通り配達を終えたレイアは、森を目の前にして、ひとりごちた。村人が森をわざわざ迂回していくのには、当然それなりの理由がある。勿論レイアはそれを知っているが、さして気には止めなかった。森に入るのだって、数年ぶりとはいえ初めてではない。
「迂回するの面倒だし…サーッと走って行けば平気だよね」
足の速さには自信がある。背中まで伸びた長い髪を一つにまとめ、よし、と気合いを入れると、レイアは昼なお暗い森の中へ飛び込んだ。
鬱蒼と繁った森は外界からの光を遮り、足元は不安定だったが、森を遊び場としていたレイアには苦ではない。小さい頃は幼なじみのレフィストやキャロルと森を探検しては、両親にこっぴどく叱られたものだった。当時の遊びの跡が、あちこちに残っている。背くらべの傷や、自分達の名前が刻まれた木がそのままだ。
懐かしいなあ。走る速度を落とし、レイアはそれらを眺めながら進んだ。ふと、古びた小屋が視界に入る。
――あれは…?
小屋に気を取られた瞬間、
「わっ!」
何か踏んでしまったらしい。踏み出した足がずるり、と滑り、レイアは派手に転んだ。薄暗闇の中で目をこらし、思わず息を呑む。
レイアが踏み付けたのは、大ネズミの死骸だった。死骸が腹の辺りで綺麗に真っ二つになっていることに気づき、血の気が引く。
今まで何度か森に入ったけれど、そんなものは見たことがなかった。野生動物がネズミを殺したとしても、真っ二つに切れているなんておかしい。
地面に尻をついたまま、レイアはじりじりと後ずさった。とにかくここから離れたい。後ろに下がって下がって――どん、と背中が何かにぶつかった。木かと思ったが、…それにしては生暖かいような?
恐る恐る上を見上げると、じっと見下ろしている男と目が合った。レイアはきゃっと叫んで反対方向に飛んだ。飛んだ先にネズミの死骸があり、慌てて体をずらす。
「…女だ…」
男はレイアを見下ろし、舌なめずりした。暗闇の中で、目玉だけがギラギラしている。なんだか異臭もする。男の手に長いモノが握られていることに気づき、レイアは戦慄した。あのネズミはこの男が殺したのだ。ひょっとして私も…?
逃げなきゃ、と思うのに体が動かない。男は長い物体を地面にどす、と突き立てた。そして下卑た笑いを浮かべ、レイアに襲い掛かってきた。
「――いやっ!」
咄嗟にレイアは頭を抱え、目をつぶる。
ところが、いつまで経っても男は襲ってこない。代わりに、がつん、と鈍い音がして、男が呻く声が聞こえた。
レイアがそっと目を開けると、男は地面に倒れていた。いつの間にか、目の前には黒いマントを羽織った人影が立っている。この人があの男を倒したんだろうか。
「…あの…?」
怖ず怖ずと声をかけると、人影が振り向いた。暗くてよくわからないが、襲ってきた男より若い男のように思える。白い肌だけがぼんやりと浮き上がって見え、切れ長の瞳がレイアをじっと見た。
「…ええと」
とりあえず、お礼を言わなきゃ。レイアが口を開きかけたところで、倒れていた男がムクリと起き上がった。地面に刺していた武器を引き抜き、雄叫びをあげる。
「!危な…」
レイアが悲鳴をあげると同時に男が武器を振り上げ、襲い掛かってきた。
しかし、黒マントの動きは素早かった。彼が自身の剣を引き抜くのとほぼ同時に、キン、という金属音が響く。男の武器はクルクルと廻りながら森の闇に吸い込まれた。
「…は?」一瞬の出来事に唖然としたのか、男が素っ頓狂な声をあげた。
黒マントが勢いよく剣を振り上げる。男は呆然とそれを見上げている。
――殺されてしまう。
「!ちょ、ちょっと待った!」
思わずレイアは黒マントの腰にしがみついた。剣を振り上げた姿勢のまま、黒マントの男は、じとりとレイアを見る。
「…」
「…ええと」
しがみついたのは良いものの、レイアは頭の中が真っ白だった。一体私は何してるんだろう?
逡巡している内にガサガサと音がして、
「…あ」
近くの木の陰から青年が顔を出した。耳の下まで伸びた金髪が、森の薄暗さの中でぼんやりと浮いて見える。金髪の青年は躊躇なく近付いてくると、黒マントをちょっと見上げて言った。
「こんなとこにいたのか。探したんだぞ」
それから、ひょいとレイアに視線を落とした。
「…えーと…君は?」
「え、いやっ、その…」
レイアは慌てて手を離した。黒マントも剣をしまう。
「ええと…襲われそうになったところを、この人が助けてくれて」
はっと気付き、辺りを見る。襲ってきた男はいつの間にかいなくなっていた。金髪の青年はキョトンとしている。
「…助けた?こいつが?」
続けて黒マントを見る。黒マントは自分は関係ない、とでも言うように、爪の甘皮を弄っていた。
「へえ…」
「あの…あなたたちは一体…?」
レイアが遠慮がちに尋ねると、金髪の青年は逆に聞きかえしてきた。
「君はこの近くに住んでるの?」
「え?うん…この森に囲まれた村に」
「そっか、村があるんだ…」金髪の青年は少し考えて言った。
「悪いけど、外まで道案内を頼めないかな。俺達、旅の途中なんだけど迷っちゃって」
「いいけど…」
ふと、レイアは思いついて言った。
「せっかくだから、うちの村に泊まっていきなよ。お礼もしたいし…今夜はちょうどお祭りがあるんだ」