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第1話 世界を初めて見る顔

 園児たちは、キリンを見るだけで世界の終わりみたいに叫んだ。


「くび、ながっ!」


「せんせい、こっち見た! こっち見たよ!」


「うそ、見てないよ!」


「見たもん!」


 秋晴れの動物園に、甲高い声がいくつも跳ねた。


 俺はその声に笑いながら、ファインダーを覗いた。


 黄色い帽子。

 小さな手。

 柵にしがみついた指。

 口をぽかんと開けた顔。

 先生の「押さないでね」という声。

 それでも少しずつ前に出てしまう子どもたち。


 いい顔だった。


 本当に、いい顔だった。


 だから、シャッターを切った。


 カシャリ、と乾いた音がする。


 もう一枚。


 もう一枚。


 キリンは別に、特別なことをしているわけではない。

 ただ、檻の向こうで草を食んでいるだけだ。首をゆっくり傾け、長い舌で葉を巻き取り、まばたきをしているだけ。


 けれど園児たちにとっては、それが事件だった。


 この世にこんな生き物がいるのか、と体中で驚いている。

 あんなに首が長くていいのか。

 あんなに目が優しくていいのか。

 あんなにのんびり葉を食べているだけで、人をこんなに喜ばせていいのか。


 世界は、彼らにとってまだ毎秒ごとに新しかった。


「佐倉さん、集合写真、次の広場でお願いできますか?」


 担任の保育士が、園児の帽子を直しながら言った。


「はい。日陰が入らない場所で撮りましょう」


 俺はカメラの設定を確認しながら答える。


 佐倉悠真。三十二歳。

 家業は、駅前商店街にある小さな写真館。


 佐倉写真館。


 創業は曾祖父の代らしい。

 らしい、というのは、俺が店を継いだ頃にはもう、古い帳簿も、昔の看板も、倉庫の奥で埃をかぶっていたからだ。


 写真館といっても、今は華やかな仕事ばかりではない。


 七五三。

 成人式。

 証明写真。

 学校行事。

 保育園の遠足。

 町内会の敬老会。

 商店街のチラシ用写真。

 たまに結婚式の前撮り。


 誰かの人生の節目を、きちんと写す仕事。


 そう言えば聞こえはいい。

 実際、嫌いではなかった。


 子どもが笑う瞬間を逃さず撮れた時は、今でも嬉しい。

 緊張していた七五三の男の子が、最後にふっと得意げな顔をした時。

 成人式の娘を見て、母親が泣きそうな顔をした時。

 何十年も連れ添った夫婦が、照れながら少しだけ肩を寄せた時。


 そういう瞬間を、俺は好きだと思う。


 ただ、それはどこか、ガラス越しの好きだった。


 ファインダーの向こうで、人の心が動く。

 俺はそれを見つける。

 逃さず切り取る。

 データを整え、プリントし、納品する。


 それで仕事は終わる。


 けれど、その写真の中にいる人たちのように、俺自身の心が跳ねることは、いつの間にか少なくなっていた。


「ゆうまカメラマン! こっち!」


 小さな声に呼ばれた。


 振り返ると、男の子が柵のそばで何かを指さしている。


「なに?」


「これ!」


 彼の指の先にあったのは、檻でも動物でもなかった。


 道ばたのタンポポだった。


 秋なのに、ひょろりと黄色い花を咲かせている。

 アスファルトの隙間から、なぜか一本だけ出ていた。


「お花、こんなとこにある」


「ほんとだな」


「撮って」


「タンポポを?」


「うん。がんばってるから」


 俺は少し笑った。


 園児たちは、キリンに叫び、ペンギンに笑い、ヤギの餌やりで泣きそうになる。

 そのくせ、次の瞬間には道ばたの小さな花にも気づく。


 いや、気づく子もいれば、気づかず踏みそうになる子もいる。

 世界を初めて見るというのは、優しいことばかりではない。

 それでも、彼らの目は忙しい。

 あちこちに驚き、あちこちを見落とし、それでも全身で世界にぶつかっていく。


 俺はしゃがんで、タンポポにレンズを向けた。


 液晶の中で、黄色い花が揺れる。


 背景には、小さな靴がいくつも写り込んでいた。

 誰かが踏んだら終わるくらいの場所で、それでも花は陽に向かっている。


 カシャリ。


「撮れた?」


「撮れた」


「見せて!」


 男の子は液晶を覗き込み、満足そうにうなずいた。


「いいね」


「評論家みたいだな」


「ひょうろんか?」


「すごく偉そうに、いいねって言う人」


「ぼく、えらい?」


「少なくともタンポポには優しい」


 男の子はよく分からない顔をして、それから先生の方へ走っていった。


 俺はしばらく、しゃがんだままタンポポを見ていた。


 黄色い花が、風に揺れている。


 たぶん、老人なら足を止めるのだろうと思った。


 腰をかがめ、目線を合わせ、目を細める。

 ああ、こんなところに咲いたか、と静かに笑う。


 子どもは世界に驚く。

 老人は世界に気づく。


 では、大人の俺は何をしているのだろう。


 撮っている。


 ただ、撮っている。


 昼過ぎ、遠足は無事に終わった。


 帰りのバスで、園児たちはあっという間に眠った。

 あれほど騒いでいたのが嘘みたいに、口を開けて、帽子をずらして、隣の子の肩にもたれている。


 俺は通路側の席で、カメラバッグを膝に置き、窓の外を眺めていた。


 秋の空は高い。

 川沿いのススキが光っている。

 コンビニの看板が流れていく。

 遠くのマンションのベランダに、洗濯物が揺れている。


 どれも別に、悪い景色ではない。


 むしろ、きれいだと思う。


 でも、胸の奥までは届かない。


 子どもたちの寝息を聞きながら、俺はふと思った。


 あんなふうに世界を見られたのは、いったいいつまでだっただろう。


 初めてキリンを見た日。

 初めて海を見た日。

 初めて夕焼けが怖いくらい赤いと思った日。


 そういうものは、いつの間に薄くなったのだろう。


 いや、なくなったわけではない。

 仕事をしていれば、きれいなものはいくらでも見る。

 人の笑顔も、泣き顔も、晴れ着も、花嫁の白いドレスも、卒園式の小さな背中も。


 美しいと思う。


 けれど、世界そのものに驚いていた頃の自分は、どこか遠い。


 バスが商店街の前を通る頃には、夕方になっていた。


 佐倉写真館の古い看板が見えた。


 白地に黒い文字。

 角が少し錆びている。


 俺は保育園で先生たちに挨拶をし、店に戻った。


 シャッターを半分下ろした写真館の中は、いつもの匂いがした。


 インク。

 古い木の棚。

 アルバムの紙。

 わずかに残った現像液のような、時代遅れの匂い。


 受付カウンターには、父が置いていったメモがあった。


『奥の倉庫、雨漏り確認。古い額、処分するか判断頼む』


 ため息が出た。


 写真館の奥には、開かずの倉庫みたいな部屋がある。

 昔の機材、壊れた三脚、使わなくなった背景布、額縁、アルバム、曾祖父の頃のものだという絵筆やカメラまで詰め込まれている。


 片づけなければと思いながら、ずっと後回しにしていた場所だ。


「今日じゃなくてもいいだろ……」


 そう言いながら、俺はカメラバッグを置き、パソコンを起動した。


 今日撮った写真を取り込み、ざっと確認する。


 画面に園児たちの顔が並んだ。


 キリンを見上げる顔。

 ペンギンの歩き方を真似する顔。

 ヤギに餌を差し出す直前の、怖がり半分、期待半分の顔。

 弁当を開けた瞬間の顔。

 眠たくなって先生に抱かれている顔。


 悪くない。


 いや、かなり良い。


 ピントも合っている。

 表情も拾えている。

 保護者は喜ぶだろう。

 先生たちも安心するだろう。


 そのことに、ちゃんと満足はある。


 でも、画面を閉じた瞬間、部屋は静かだった。


 俺だけが、写真の外にいる。


 ふと、昼間のタンポポの写真を開いた。


 アスファルトの隙間。

 揺れる黄色。

 背景に写り込んだ小さな靴。


 あの男の子は「がんばってるから」と言った。


 タンポポが、がんばっている。


 俺にはもう出てこない言葉だった。


 その時、奥の倉庫から、ぽたり、と音がした。


 雨漏りだ。


「最悪だな」


 外は晴れている。

 けれど古い建物というのは、晴れていてもどこかから水が出る。

 昨日の雨が残っていたのかもしれない。


 俺は懐中電灯を持ち、奥の扉を開けた。


 倉庫の空気は重かった。


 埃っぽく、乾いていて、古い時間がそのまま積もっているような匂いがする。


 床には丸めた背景紙。

 壁際には壊れた照明。

 棚には、昔の写真台紙がぎっしり詰まっている。


 天井の隅に、小さな染みがあった。


 そこから水が落ちたらしく、下に積んであった額縁の布が濡れている。


「まずいな……」


 俺は額縁をどかそうとして、手を止めた。


 布の下から、木枠が見えた。

 写真ではない。

 絵の額だ。


 妙に覚えがあった。


 胸の奥で、何かが小さく鳴った。


 俺は濡れた布をそっと外した。


 そこに、一枚の絵があった。


 滝だった。


 ただし、水は下に落ちていなかった。


 巨大な断崖からあふれた白い水が、途中で風にほどけ、空へ向かって昇っている。

 水煙は雲のように広がり、その中を、鳥とも魚ともつかない影が泳いでいた。


 崖の斜面には、青い花が咲いている。

 滝の向こうには、見たこともない緑の谷。

 空には、昼間なのに薄い月が浮かんでいた。


 ありえない景色だった。


 なのに、嘘に見えなかった。


 俺は息をするのを忘れた。


 古い記憶が、いきなり扉を開けて戻ってきた。


 まだ俺が小さかった頃。

 この写真館の奥には、曾祖父のアトリエが残っていた。


 油絵具の匂い。

 古いカメラ。

 壁に貼られた白黒写真。

 乾きかけの絵筆。

 窓辺に積まれたスケッチブック。


 曾祖父は痩せた老人だった。

 背は曲がっていたが、目だけは妙に明るかった。


 家族は彼を、少し変わった人として扱っていた。


 昔はあちこち旅をしたらしい。

 写真も撮り、絵も描いた。

 でも晩年は、誰も知らない風景ばかり描くようになった。


 家族はそれを幻想画と呼んだ。


 きれいだけど、現実にはない絵。


 けれどある日、曾祖父は俺をアトリエに呼び、この絵を見せた。


 たぶん、俺は五歳か六歳だった。


 布が外された瞬間、俺は声も出なかった。


 滝が、空へ昇っていた。


 水が落ちるのではなく、飛んでいた。


 絵の中の世界は、あまりにも広く、あまりにも遠く、あまりにも本当だった。


 隣で曾祖父が笑った。


「この場所はね、本当にあるんだよ」


 俺は絵から目を離せなかった。


「おじいちゃん、この足でそこを歩いたんだ」


 その声を、今でも覚えている。


 低くて、少しかすれていて、でも嘘をついている人間の声ではなかった。


「どこにあるの?」


 幼い俺は聞いた。


 曾祖父は少し困ったように笑った。


「遠いところだ」


「外国?」


「もっと遠い」


「宇宙?」


「うん、まあ……宇宙より近くて、隣町より遠い」


 子どもにはよく分からない答えだった。


 でも、その答えすら、俺には宝物のように思えた。


 曾祖父は俺の頭を撫でて、こう言った。


「いつか君も、自分の目で見るといい」


 その数年後、曾祖父は亡くなった。


 絵は倉庫にしまわれた。

 家族は誰も、その場所の話を本気にはしなかった。


 俺も、大人になるにつれて忘れた。


 いや、忘れたふりをしていた。


 空を飛ぶ滝なんてあるはずがない。

 水は下に落ちる。

 鳥は空を飛ぶ。

 魚は水の中を泳ぐ。

 世界には、そういう決まりがある。


 そうやって、一つずつ信じない理由を覚えていった。


 けれど今、倉庫の薄暗がりでこの絵を前にすると、胸の奥が震えた。


 昼間、園児たちがキリンを見て叫んだ時の顔が浮かぶ。


 ああ。


 俺も昔、こんな顔をしていたのかもしれない。


 額縁の裏に、何かが挟まっていた。


 俺は絵を慎重に外し、裏側を見た。


 古い紙が貼られている。


 そこには、曾祖父の筆跡で短く書かれていた。


『空を飛ぶ滝にて』


 その下に、小さな封筒が貼りつけられていた。


 封筒は黄ばんでいる。

 糊はほとんど剥がれていた。


 中には、一枚の写真が入っていた。


 白黒写真だった。


 かなり古い。

 ピントも甘い。

 端は少し焼けている。


 何が写っているのか、一瞬分からなかった。


 白いもや。

 崖のような黒い影。

 空に伸びる、煙のようなもの。


 そして画面の右端に、小さな影があった。


 鳥ではない。


 魚のような形をしている。


 空を、泳いでいる。


 俺の指先が冷たくなった。


「……嘘だろ」


 声が倉庫に吸い込まれる。


 絵なら空想で済む。


 でも、写真は違う。


 もちろん、合成かもしれない。

 古い写真を加工したのかもしれない。

 偶然、そう見えるだけかもしれない。


 いくらでも否定はできる。


 大人とは、否定の理由を集めるのがうまくなる生き物だ。


 でも俺は、しばらくその写真から目を離せなかった。


 曾祖父は、写真家だった。

 画家でもあった。


 現実を写す人であり、現実を超えて描く人だった。


 では、この一枚はどちらなのだろう。


 倉庫の奥に、革のケースが置かれていた。


 見覚えがある。


 曾祖父の古いカメラだ。


 父が「もう使えない」と言って、ずっとしまい込んでいたもの。

 黒い革張りで、金属部分はくすみ、ストラップは硬くなっている。


 俺はケースを開けた。


 中には、古いフィルムカメラが入っていた。


 ずっしりと重い。


 今のデジタル一眼とは違う重さだ。

 道具というより、何かの記憶を持った石のようだった。


 俺はカメラを手に取った。


 冷たい。


 しかし、手のひらに馴染む。


 不思議なくらい、自然に。


 裏蓋を開けると、フィルムは入っていなかった。

 けれどケースのポケットには、未使用らしいフィルムが数本残っていた。


 期限など、とっくに切れているだろう。

 使えるかどうかも分からない。


 それでも俺は、そのうちの一本を手に取った。


 包装紙には、曾祖父の字で小さく数字が書かれている。


『三十六』


 三十六枚。


 たった、それだけ。


 なぜか、その数字がひどく重く思えた。


 俺はフィルムを装填した。


 手順は知っている。

 父に教わったことがある。

 昔はこれが当たり前だった、と何度も聞かされた。


 フィルムを引き出し、スプロケットに噛ませる。

 裏蓋を閉める。

 巻き上げる。


 カチリ。


 音がした。


 その瞬間、倉庫の空気が少し変わった気がした。


 気のせいだ。


 そう思った。


 俺はカメラを目の高さに持ち上げた。


 ファインダーを覗く。


 古い倉庫が見えるはずだった。


 埃をかぶった棚。

 壊れた照明。

 濡れた布。

 古い額縁。


 けれど、ファインダーの向こうに映ったのは、倉庫ではなかった。


 白い水煙だった。


 俺は息を止めた。


 ファインダーの中で、光が揺れている。


 遠くに、断崖が見える。

 その上から、水があふれている。

 水は下へ落ちず、途中で風にほどけ、空へ舞い上がっている。


 青い花。

 薄い月。

 白い霧。

 空を泳ぐ影。


 幼い日に見た絵と、同じ景色。


 いや、違う。


 絵よりも、生きていた。


 ファインダーの向こうで、風が吹いた。


 髪が揺れた。


 倉庫の中にいるはずなのに、頬に冷たい水の気配が触れた。


 そして、音が聞こえた。


 ごう、と。


 遠く、深く、腹の底に響くような水音。


 滝の音だった。


 俺はカメラを下ろした。


 倉庫に戻る。


 埃。

 棚。

 濡れた布。

 古い絵。


 何も変わっていない。


 心臓だけが、うるさいほど鳴っていた。


 もう一度、ファインダーを覗く。


 白い水煙。


 空へ昇る滝。


 風。


 音。


 俺は膝から力が抜けそうになった。


 曾祖父の声が、耳の奥で蘇る。


 ――この場所はね、本当にあるんだよ。


 俺は、ファインダーの向こうの滝を見つめた。


 怖かった。


 いい年をした大人が、古いカメラを覗いて、ありもしない景色に震えている。


 そう笑えばいい。

 疲れているだけだと言えばいい。

 雨漏りの倉庫で、古い写真と絵に当てられただけだと言えばいい。


 否定の理由はいくらでもあった。


 けれど、そのどれよりも、滝の音の方が確かだった。


 俺はゆっくりと、シャッターボタンに指を置いた。


 撮るべきなのか。


 撮れば、何かが変わる気がした。


 撮らなければ、きっと今まで通りだ。

 写真館に戻り、園児たちの写真を選び、納品し、七五三の予約を確認し、証明写真を撮り、古い倉庫を片づける。


 悪い人生ではない。


 悪い人生ではないのに。


 俺は、もう一度だけ世界に驚きたかった。


 子どもの頃に戻りたいわけではない。

 園児たちのように叫びたいわけでもない。


 ただ、見たいと思った。


 曾祖父が歩いたという場所を。

 あの絵の中の風を。

 空へ昇る水を。


 自分の目で。


 指に力が入る。


 カシャリ。


 古いカメラが、小さく鳴った。


 その瞬間、倉庫の床が消えた。


 いや、消えたように感じた。


 足元から風が吹き上がる。


 絵の中の白い水煙が、ファインダーの枠を越えてあふれ出す。


 冷たい霧が、顔を打った。


 俺は息を呑んだ。


 遠くで、誰かの声がした気がする。


 風の音に混じって、まだ知らない言葉が聞こえた。


 そして滝の轟音が、写真館の奥の小さな倉庫を満たしていく。


 俺はカメラを握りしめたまま、ただ一つのことだけを思った。


 おじいちゃん。


 本当に、あったんだ。


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