夫が愛人を連れてきましたので、本日限りで伯爵夫人を辞めさせてくださいます。
夫が女を連れて帰ってきたのは、雨の降る夕暮れだった。
春の終わりとはいえ、石造りの屋敷はまだ少し冷える。玄関ホールに差し込む外気は湿り気を帯びていて、床に落ちた雫が鈍く光っていた。
侍女が慌てて傘を受け取り、執事が一歩前へ出た。
そのいつもの光景の中に見慣れない若い女の姿があるだけで、場の空気はひどく不自然なものになった。
私は階段の途中で足を止めた。
今日もいつもと同じように、帰宅した夫を迎えるために下りてきただけだった。
夕食の献立は確認済み。明日の来客用の茶葉も手配済み。月末の支払い表も整え、使用人たちの配置についても午前中のうちに話をつけてある。
フォルベルク伯爵家の一日は、少なくとも表向きは滞りなく回っていた。
けれど、その中心に立つべき伯爵は、晴れやかな顔で若い女を伴っていた。
「アリアンナ」
ユリウスは私を見つけると、どこか得意げに口元を緩めた。
まるで少し私を驚かせる贈り物でも持ち帰ったかのような顔だ。
「ちょうどよかった。紹介したい人がいる」
私はゆっくりと階段を下りる。
裾が段差に擦れる、かすかな音だけがやけに鮮明に聞こえてきた。
目の前に現れた女は二十歳前後だろうか?
柔らかな栗色の髪を胸元に垂らし、雨に濡れた睫毛を伏せるようにして立っており、淡い桃色のドレスは、慎ましいつくりをしているようでいて、男の庇護欲をそそるようよく計算されていた。
私が近づくと、彼女は遠慮がちに一礼した。
「初めまして、ミレーユ・サンディスと申します……」
その声は細く、震えていて、いかにも守ってやりたくなるような響きだった。
私は一つ頷いた。
「まあ、ご丁寧にありがとうございます」
そこでユリウスが私の肩越しに執事を見やり、軽く言った。
「レオナルド、彼女はしばらくこの屋敷で暮らす事になった。部屋を用意してくれ」
それを聞いて、数人の使用人が、息を呑む気配がした。
執事のレオナルドは一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに感情を消した顔に戻る。
「……承知いたしました、旦那様」
そして同じように私もその言葉を聞いて、目の前の旦那様に声をかける。
「しばらく、ですか」
「ああ……彼女は事情があって行く場所がないんだ。君は聡明なのだから、うまくやってくれるだろう?」
事情があって。
なんと便利な言葉だろう。
その一言で、どれほど多くの無礼と不誠実を包み隠せると思っているのかこの男は。
いや、おそらく本当に思っているのだろう。
この人は昔からそうだった。
自分が口にした理屈が薄っぺらであればあるほど、それが通じるのは当然だと信じるところがある。
私はため息を吐いた後、ミレーユへ視線を移した。
彼女は申し訳なさそうに伏し目がちでありながら、その実、私が怒りだすか泣き崩れるかを待っているようにも見えたのは気のせいだろうか?
その瞬間、妙に頭が冴えた。
――ああ、この人は、ついに取り返しのつかないところまで来てしまったのだ、と。
三年だった。
結婚して三年。赤字だらけだった伯爵家の帳簿を洗い直し、滞っていた支払いを整理し、喧嘩ばかりしていた古参使用人たちの間に線を引き、遠ざかっていた親族との関係も結び直した。
社交の場で失われかけていた伯爵家の体面をどうにか繕い、領地経営の報告にも目を通し、必要な助言を与えてきた。
ユリウスの隣にいるのが誰であっても、私は構わないと思っていた時期もあった。
夫婦として熱を持った関係ではなかったし、少なくとも彼が伯爵として最低限の責任を果たすならば、それでよいと割り切ることもできた。
けれど、その最低限すら、この人は捨てたのだ。
「君に黙っていたのは悪かったが……」
ユリウスは少し声を潜めた。周囲への配慮のつもりなのかもしれない。
「騒ぎ立てないでくれよ。どうせ君に行く当てもないだろう?」
その言葉で、何かも全てが終わった、と思った。
怒りは不思議と湧かなかった。ただ、胸の中で何かがすうっと冷えていくのを感じた。
熱を持った失望ではなく、完全な見切りだった。
私はゆっくりち、いつものように微笑んだ。
「ええ。もちろん、騒ぎ立てたりはいたしません」
「そうか。君は話が分かる――」
「では」
私は当たり前のように次の言葉を言った。
「本日限りで、伯爵夫人を辞めさせていただきます」
玄関ホールの空気が、一瞬で凍りついた。
「……は?」
「お聞きの通りですわ旦那様。愛人を屋敷へ迎え入れた方とこれまで通り夫婦として暮らしていくつもりはございません。わたくしは離縁を望みます」
「な、何を馬鹿なことを」
ユリウスの声が上ずる。けれど怒鳴りつけるには至らない。
まだ現実として受け止められていないのだ。
「落ち着け、アリアンナ。感情的になるな」
「感情的になってはおりませんわ。寧ろ非常に冷静です。ですので、この場で申し上げております」
ミレーユが困ったようにユリウスの袖へ手を添える。
「ユリウス様……わたくし、やはりご迷惑なのでは……」
「違う、ミレーユ。これは……そう、アリアンナが少し気が立っているだけだ」
私はそのやりとりを見て、小さく首を傾げた。
「でしたら、なおのこと問題はございませんわね。気が立っている女を同じ屋敷に置くのは危ういでしょうし」
「アリアンナ、それは――」
「――レオナルド」
私は執事を振り返った。
「今夜のうちに離縁に必要な最低限の書類を揃えられるかしら?」
それを聞いて、レオナルドは一瞬だけ目を伏せた。
しかし彼は年季の入った落ち着いた声で答えた。
「旦那様の印章が必要なものは明日以降となりますが、奥様のご準備に必要なものは整えられます」
「ありがとう」
「勝手をするな、アリアンナ。私は許すと言っていない」
「旦那様は、愛人を屋敷へ入れる前にわたくしの許しをお求めになりましたか?」
返された言葉に、彼は口をつぐんだ。
私はもう何も言わず、軽く礼だけして階段を上がった。
背後でユリウスが何か叫んでいたが、もう振り返らない。
振り返るつもりなど、全くなかったのだ。
▽
その夜、私は驚くほど穏やかな気持ちで荷造りをしていた。
持ち出すのは最低限でいい。
元々嫁入りの際に持参した宝飾品の一部、母の形見のブローチ、私的な書簡、そして個人資産の管理書類。伯爵家の財産には指一本触れない。
侍女のリナが半泣きの顔で衣装箱を整えながら、何度も口を開いては閉じていた。
「奥様……本当に……」
「ええ」
私は衣装箪笥の引き出しを閉める。
「本当に、よ」
「ですが旦那様も、少しお時間を置けば」
「戻ると思っているのなら、なおさら戻りません……しかも愛人を連れているのよ?戻れるわけないじゃない」
自分でも冷たいほどはっきりした声だった。
リナは目を潤ませながら、けれどどこか安堵したようにも見えたのは気のせいだろうか?
きっと彼女も、今日の玄関ホールで何が壊れたかを理解したのだろう。
「奥様がいなくなったら、このお屋敷は……」
「どうにかするのでしょう。旦那様と、あの方で……私は知らないわ。もう関係ないもの」
言いながら、書きかけの手紙を封に入れる。
宛先は実家の兄、ローレンスだ。
事情を長々と書く気にはなれず、簡潔に「しばらく身を寄せたい」とだけ記した。
兄なら、それで十分分かる。
ほどなくして、ノックの音がした。
「――入って」
その声と同時に入ってきたのはレオナルドだった。
彼は銀の盆に数枚の書類を載せている。
「奥様。お持ち出しになる個人資産の確認書類でございます。念のため、今のうちに控えをお取りください」
「助かるわ」
「それと……」
レオナルドは少しだけ言い淀んだ。
「差し出がましいことを申しますが、奥様のご判断は、間違っておられません……私自身の意見ですが」
「あら……」
私は顔を上げた。
この屋敷で長く仕えてきた男が、主人ではなく私にそれを言う。
その重みが分からないほど、私は鈍くない。
そもそもまさかレオナルドにそんな事を言われるとは思っても見なかったので、思わず不意打ちを食らった感じだった。
「ありがとう、レオナルド」
「長年、この家を支えておられたのは奥様です。皆、それを存じております」
その一言だけで十分だった。
感傷に浸る気はなかったけれど三年間が無駄ではなかったと知れただけで、少し肩の力が抜けた気がした。
▽
翌朝、雨は上がっていた。
薄曇りの空の下、馬車の前に立つと、何人もの使用人が見送りに出ていた。誰も大声では引き止めない。
ただ、皆の顔に戸惑いと不安が滲んでいる。
ユリウスは姿を見せなかった。
おそらく、まだ私が本当に出ていくとは思っていないのだろう。
あるいは、ミレーユの前で体面を保つほうが大事なのかもしれない。
私は最後に屋敷を見上げた。
三年間、守ろうとしてきた場所だった。
けれど今は、私のものではないし、守る価値も、もうない。
「行きましょう」
馬車が動き出す。車輪の音が石畳を叩き、私は一度も振り返らなかった。
▽
三日で、崩れるものは崩れる。
それを後から聞いたとき、私は少し驚き、少しだけ笑った。
実家の応接間で兄と茶を飲んでいた所へ、旧知の夫人から手紙が届いたのだ。
社交界は、良くも悪くも情報の流れが早い。
まして伯爵家の醜聞ともなれば、なおさらである。
「フォルベルク伯爵家が、もうずいぶん慌ただしいようだな」
兄であるローレンスが手紙を机に置く。
彼は私より八つ年上で、寡黙だが情の深い人だ。
「予想より早かったですね」
「お前は驚かないのか」
「いいえ。むしろ三日も持ったのだと思いました」
「そうか……全く、その性格は誰に似たんだが……」
兄が、わずかに口元を緩め、そのように答えた。
実際のところ、フォルベルク伯爵家の混乱は目に見える形で表れていたらしい。
まず厨房――毎週必要な食材の納入予定表を確認し、足りない分を前倒しで発注していたのは私だ。
担当の料理長は腕はいいが、予算管理と仕入れの調整は苦手で、私が間に入ることでようやく回っていた。
そこが抜ければ、当然すぐ詰まる。
次に支払い――取引先ごとの期日管理も、金額の調整も、実務は私が担っていた。
ユリウスは帳簿を見るだけで頭が痛くなると言って避け続けてきたし、ミレーユに至っては、そもそも帳簿のどこを見ればよいかも分からないだろう。
さらに社交――招待状への返書、贈答品の手配、季節の挨拶、親族や有力貴族への細やかな気配り。
こういうものは、一つ一つは小さい。けれど、怠れば確実に家の格を削っていく。
それらが、一斉に止まった。
「使用人同士の揉め事も起きているようだ」
「ええ、そうでしょうねきっと」
私は静かに頷いた。
「もともと、古参と新入りの間には軋轢がありましたから。わたくしが間に立っていただけです」
「…………おい、よく我慢したものだ」
兄の声は呆れ半分、労り半分だった。
「我慢というより、伯爵家の妻とはそういうものだと思っておりました」
「今は?」
「もう思っておりません」
そのとき、応接間の扉がノックされた。
入ってきたのは兄の執事で、来客を告げる。
「ルーヴェン辺境伯がお見えです」
その名を聞いて、私は思わず瞬いた。
「エドガー様が?」
兄が一度こちらを見て、それから頷いた。
「通してくれ」
まるで待ってました、と言う感じの兄の顔に、嫌な予感を覚えてしまった。
ほどなくして現れたのは、濃い灰色の上着をきっちり着こなした長身の男だった。
エドガー・ルーヴェン辺境伯。
隣地を治める人物で、社交の場で何度か顔を合わせたことがある。
口数は多くないが、視線の確かな人だという印象があった。
「突然の訪問、失礼します」
落ち着いた低い声が響く。
「いや、構わん」
兄が応じると、エドガーは私へ目を向けた。
「――アリアンナ様」
「ご無沙汰しております、ルーヴェン辺境伯」
「ええ」
彼は一歩進み、礼を取った。
「このたびの件、耳にしました」
同情の色を浮かべた慰めなら、きっと私は辟易しただろう。
けれど彼の声音は平らで、無駄に優しくはなかった。
「フォルベルク伯爵は、愚かですね」
あまりに率直で、私は目を見開く。
兄が咳払いを一つしたが、止めはしない。
「……はっきりおっしゃるのですね」
「フフ、事実ですので」
エドガーは少しも表情を変えずに言った。
「私は以前より、あなたがあの家を実質的に支えていると見ておりました。支柱を自ら折るとは、正気とは思えません」
それを聞いて、私は数秒、返す言葉を失った。
正しく見ていた人がいた。
それだけの事なのに、胸の奥に小さな熱が灯る。
「えっと、その……ありがとうございます」
「礼を言われることでは」
彼はそう言ってから、兄へ向き直った。
「実は本日は、一つお願いがあって参りました。ルーヴェン領では今、交易路の整理と冬季備蓄の見直しを進めております。ご令妹様に、助言役としてお力をお借りしたい」
「正式な依頼か」
「はい。報酬も用意いたします」
兄は眉を傾けながらそのように答えた。
私は思わずエドガーを見た。
彼は私を哀れんで救いに来たのではない。
能力を見ているから手を差し出しているのがわかった。
その事実が、妙に嬉しかった。
「わたくしでよろしいのですか」
「あなたがよろしければ」
彼は短く答えた。
「家を回すというのは、見栄えのする仕事ではありません。けれど、それができる方は稀です」
その言葉は、愛の告白よりずっと深く感じた私は、その話を受け入れた。
▽
ユリウスが訪ねてきたのは、その五日後だった。
私は兄の屋敷の客間で書類を整理していた。
ルーヴェン領から送られてきた穀物収支の写しに目を通しながら、不足しそうな箇所へ印をつけていたところへ、リナが慌てたように知らせに来る。
「奥様……いえ、お嬢様。フォルベルク伯爵様が……」
――来るだろうとは思っていた。
支払いも社交も人心の掌握も、どれ一つうまくいかなかったのだろう。
本人にとっては、ようやく妻を迎えに来るという筋書きに乗っただけなのかもしれない。
「嫌だけど……仕方ありませんわね。通して」
客間へ入ってきたユリウスは、数日のうちにひどくやつれて見えた。
髪は整えられているが、目の下には薄い影が差している。
普段なら気にも留めないほどの乱れが、今の彼にはよく似合っていた。
「あ……アリアンナ」
「ごきげんよう、フォルベルク伯爵」
私は立ち上がらずに答えた。
その呼び方が気に障ったらしく、彼は眉を寄せる。
「やめてくれ。そんな他人行儀な」
「他人ではないと?」
「……夫婦だろう?」
「少なくとも、わたくしはそうではないと思っておりますが」
彼は一度息を呑み、それから近づこうとした。
だが私は手元の書類を閉じるだけで、席を立つことはしない。
「お願いだ、帰ってきてくれ」
真っ先にそれだった。
謝罪でも説明でもなく、まるで命令だ。
思わず可笑しくなりそうになる。
「屋敷がひどいことになっている」
「そうでしょうね」
「使用人たちも言うことをきかないし、取引先はうるさいし、叔父上からも叱責の手紙が来た。あの……ミレーユだって、悪気があったわけじゃない」
「それで?」
私が穏やかに促すと、ユリウスは苛立ったように声を荒げた。
「それで、君が必要なんだ!」
静寂が静かに落ちた。
私は彼を見つめ、ようやく出た本音が、それなのだ。
「君がいないと回らない。私は……私はもう十分分かった。君がどれだけこの家のために尽くしていたか」
「ええ」
「だから戻ってくれ。ミレーユのことならもう別に住まわせる。いや、追い出してもいい。君が望むならそうする」
私はほんの少しだけ目を伏せる。
悲しくはなかった。
ただ、ああ、この人は最後まで私を見ていないのだなと思っただけだ。
「旦那様」
自然にその呼び名が出たのは、きっと終わらせるためだ。
「旦那様が必要としているのは、わたくしではございません」
「何を――」
「都合の良い伯爵夫人です」
彼の口が閉じる。
「帳簿を整え、使用人をまとめ、社交を滞りなくこなし、旦那様の失策を表に出さず、何をされても家のために黙って耐える女。その役目が必要なだけです」
「違う、私は」
「違いませんよ、旦那様」
言葉を遮っても、声は静かなままだった。
「もし本当にわたくしを必要としていたのなら、愛人を屋敷へ連れ込んだりはなさいません。あの日、わたくしの行き場がないだろうと口にしたりも」
「……あれは、言い過ぎた」
「ええ。そうでしょうね」
「謝る。だから――」
「もう既に遅いのですよ」
きっぱりと言い切ると、彼は肩を落とした。
ここへ来るまでに何度も頭の中で台詞を練ってきたのだろう。
けれど、そのどれもが私には届かなかった。
私は書類の上に手を置いた。
「わたくしは、ようやく分かったのです。自分を粗末に扱う場所に、留まる必要はないのだと」
「アリアンナ……」
「離縁の手続きは進めてくださいませ。必要な書類はすでにこちらで整えてあります」
そう言って封筒を差し出すと、ユリウスは受け取れずに立ち尽くした。
「本当に、戻らないのか?」
「戻りません」
「一度も?」
「一度も」
しばらく、彼は何も言わなかった。
やがて、諦めたように、あるいは今さら現実を飲み込んだように目を伏せる。
「……君を失うとは、こういう事だったのか」
「……失ってから知っても、もう遅いのですよ、旦那様」
私の言葉に返答する事なく、ユリウスはそれ以上何も言えず、静かに部屋を出ていった。
足音が遠ざかるのを聞きながら、私は長く息を吐く。
胸が痛まないわけではない。
三年という時間は、さすがに軽くない。
けれど、その痛みは後悔ではなく、ただ区切りをつけた傷の鈍い疼きにすぎなかった。
▽
離縁が正式に成立したのは、その二週間後だった。
フォルベルク伯爵家は社交界で目に見えて評判を落とした。
返礼の不備、支払いの遅れ、親族との軋轢。
積み重ねてきたほころびが、一気に表へ出たのだという。
ミレーユはほどなく実家へ戻され、ユリウスはその後始末に追われているらしい。
私はその報せを、驚くほど静かな気持ちで聞いた。
その頃にはもう、ルーヴェン領のための書類作成に追われていたからだ。
穀物倉の再配置、冬季の燃料備蓄、交易商との契約見直し。
仕事は山のようにあり、けれどそれは誰かの尻拭いではなく、前へ進むための仕事だった。
ある日、夕暮れどきの庭で一息ついていると、足音が近づいた。
「こちらにいらっしゃいましたか」
振り向けば、エドガーが立っている。
風に揺れる木々の影が、彼の肩に落ちていた。
「少し休んでいただけです」
「少し、働きすぎでは?」
「辺境伯に言われたくはありませんわ」
そう返すと、彼はごく薄く笑った。
彼が笑うと、整った顔立ちが少しだけやわらぐ。
彼は私の隣に立ち、夕空を見上げた。
「ルーヴェン領の者たちは、あなたを歓迎しています」
「それは……光栄ですね」
「もちろん、私も」
短い感謝の言葉なのかもしれない。
けれど、そこに含まれたものを理解できないほど、私は鈍くない。
それでも彼は、すぐに答えを求めたりはしなかった。
ただ、並んで立つ距離を詰めすぎない。
その慎重さが心地よい。
「アリアンナ様」
「はい、なんでしょう?」
「あなたが望むなら、ここはいつでも、あなたの居場所になりますからね」
「え……あ」
その言葉を聞いて一瞬驚いてしまい、返す言葉が出なくなってしまった。
夕風が頬を撫でた。
あの日、玄関ホールで夫に言われた言葉を思い出す。
どうせ行く当てもないだろう、と。
けれど今の私には、ちゃんとある。
行く場所も、立つ場所も、自分で選ぶ人生も。
私は空を見上げて、小さく息を吸った。
「……ええ」
それから、ゆっくりと微笑む。
「今のわたくしは、ようやく自分のいるべき場所へ向かえている気がいたしますわ……本当に」
隣でエドガー様が静かに頷く。
失ったものがなかったわけではない。
痛みがなかったわけでもない。
けれど、それでも。
あの日、伯爵夫人を辞めた私は、ようやく私の人生を始めることができたのだ。
それがとても嬉しくてたまらなかった。
読んでいただきまして、本当にありがとうございます。
「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、下の評価を5つ星よろしくお願いします!
していただいたら作者のモチベーションも上がりますので、更新が早くなるかもしれません!
ぜひよろしくお願いします!




