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白川理髪店の寅さん  作者: 海狼ゆうき
【第一部:影の訪れ】

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4/20

◆第4話 雨と銀色の影

1. 灰色の朝と、極彩色の螺旋


午前七時。


西宮の町は、低い雲に閉じ込められていた。


アスファルトを叩く雨音は、どこか遠いスタジアムの拍手のように聞こえる。


甲子園球場に近いこの町にとって、雨は「静寂」の同義語だ。


白川理髪店のガラス戸は、細かい雨粒のカーテンに覆われていた。


寅三は傘をたたみ、軒先で二、三度振ってから鍵を開ける。


――カチャリ。


店内に踏み込むと、湿気をはらんだ空気が、古い木製の鏡台や革の椅子の匂いを、いつもより濃厚に立ち昇らせていた。


彼は白衣の第一ボタンを留め、習慣的にスイッチへと指を伸ばす。


「……よし」


小さなクリック音。


赤、青、白の螺旋が、灰色の景色の中で鮮やかに回り始めた。


濡れた路面にその光が反射し、まるで町に一つだけ残された灯台のように、雨の朝を彩る。


寅三はシザーケースの前に立ち、ハサミの刃を一丁ずつ確認する。


雨の日は、髪が重い。


湿気を含んだ毛髪は、普段よりもその人の「地」が出る。


コーティングされた嘘が剥がれ、隠していたくせが鎌首をもたげる。


(今日は……どんな本音が聞こえてくるか)


寅三は胸ポケットの櫛に触れ、昨日ひかりが言った「悩んでる顔してる」という言葉を、静かに雨音の中へ追いやった。


---


2. 甚八さんの「反抗期」


「カランコロン!」


湿り気を帯びたベルの音が、重たく店内に響いた。


「おはようさん、寅の兄ちゃん。えらいどしゃ降りやな、今日は」


三宅甚八が、ビニールに包まれた新聞を大事そうに抱えて入ってきた。


傘から滴る水が、タイルに小さな水たまりを作る。


「甚八さん。こんな雨の中、よく来られましたね」


「雨やから来たんや。家におっても、湿気で節々が痛むし、嫁さんには『邪魔や』言われるし。ここはええな、雨の音がよう響いて」


甚八はよっこらしょ、と椅子に腰を下ろした。


彼の髪は、湿気を吸っていつもよりボリュームが増している。


「今日は……カット、ですね?」


「おう。雨の日はな、わしの髪が『反抗期』や。あっちこっち好き勝手に向きよる」


「ふふ、反抗期ですか。いい表現ですね」


寅三は櫛を入れ、甚八の髪に触れた。


指先に伝わるのは、ずっしりとした水分の重み。


だが、それはただの雨水の重さだけではなかった。


「甚八さん……昨日、あんまり眠れなかったでしょう? それも、何か古いことを思い出して」


甚八が、鏡の中でピクリと眉を動かした。


「……なんで分かるんや、お前は。ほんまに気味悪い男やな」


「髪が、沈んでます。湿気で膨らんでいるように見えて、実は一本一本が重たい後悔を吸い込んでいる。……昨日は、昔の仲間の命日か何かでしたか?」


甚八はしばらく黙っていたが、やがてふっと、小さく笑った。


「……ああ。戦友のな。雨が降ると、あいつが川に流された日のことを思い出すんや。もう五十数年も前のことやのに、髪は覚えとるんか」


「覚えてますよ。髪は、忘れられない記憶の逃げ場所ですから」


寅三は、最も「優しい」切れ味のハサミを手に取った。


反抗しているのではない。寂しくて、震えているだけだ。


――シャキ、シャキ、シャキ。


雨音に重なるように、規則正しい音が響く。


切るたびに、甚八の肩から力が抜けていく。


重たかった「本音」が、切り落とされた髪とともに床へ落ちていく。


「……よし。これで、今日の雨はもう重くないはずです」


「おお。……なんや、視界が明るなったわ。おおきに、寅の兄ちゃん」


甚八は、いつになく穏やかな顔で店を去っていった。


雨はまだ降り続いていたが、彼の足取りは少しだけ軽やかだった。


---


3. 跳ねる心、暴れる髪


静寂が戻った店内に、今度はパニックを煮詰めたような声が飛び込んできた。


「寅さん!! 助けて、もう絶体絶命や!!」


谷口さやかが、傘もささずに飛び込んできた。


その後ろで、直哉が大きな和傘を差して、死ぬほど情けない顔で立っている。


「さやかさん、どうしたんですか。また直哉さんが転んだ?」


「転んでへん! 転んでへんけど、もっと大変やねん! ほら、直哉! こっち来い!」


さやかに引きずり込まれた直哉の頭を見て、寅三は思わず絶句した。


彼の髪は、右半分が天を突き、左半分が顔に張り付いている。


まるでピカソの抽象画のような、前衛的な崩れ方だ。


「……直哉さん。これは、一体どういう物理法則でこうなったんですか?」


「分からん……。自分でも分からんねん……。起きたらこうなってて、直そうとすればするほど、意志を持って暴れ出すんや……」


「今日、テレビの取材が来るんよ! 『甲子園カレーパン』の特集で!」


さやかが、寅三の肩を掴んで揺さぶった。


「こんな『爆発したパン屋』が映ったら、うちの店、明日から『お笑いパン屋』になっちゃうわ!」


「落ち着いてください。……直哉さん、椅子へ」


寅三は直哉の髪を、丁寧に霧吹きで湿らせた。


だが、水を含ませても、その跳ね(はね)は一向に収まらない。


それどころか、直哉の不安に呼応するように、髪が指を弾き返してくる。


「直哉さん。緊張しすぎて、指先が冷たくなってますよ」


「……バレたか。実はな、昨日から台本読みすぎて、一睡もしてへんねん。テレビなんて、わしの人生に無縁やと思ってたから……」


「髪は、心の避雷針です。あなたが『失敗したらどうしよう』と身構えるたびに、髪もまた、外敵を威嚇するように跳ねる」


「……俺の髪、俺を守ろうとしてたんか?」


「そうです。不器用な応援ですよ。……でも、今日はそんなに肩肘張らなくていい。ありのままの直哉さんを見せれば、パンの美味しさは伝わります」


寅三はドライヤーの温風を、優しく、しかし確実に直哉の根元に当てた。


「切る」のではなく、「導く」ための作業だ。


少しずつ、直哉の頭から「威嚇」が消え、柔らかな丸みが戻ってくる。


「……できた。どうです?」


鏡の中の直哉は、いつもの、優しくて少しだけ頼りない、でも信頼できるパン屋の主人の顔に戻っていた。


「……おお、俺や。俺に戻ったわ」


「寅さん、ほんまにありがとう! これで取材、乗り切れる!」


さやかが直哉の背中をバシッと叩き、二人は雨の中へ駆けていった。


「お礼に、今日放送されたら宣伝しまくるからねー!」という声を残して。


---


4. ひかりの「空っぽ」という衝撃


昼過ぎ。雨足がさらに強まり、窓の外は銀色のベールに包まれた。


そんな中、一人の来客が寅三の神経を逆撫でした。


「……雨の日の理髪店って、なんだか沈没船みたいね」


傘をたたみながら入ってきたのは、ひかりだった。


彼女の目は、いつもの攻撃的な鋭さを失い、どこか怯えているように見えた。


「ひかりさん。珍しいですね、二日続けて」


「……ねえ、寅さん。昨日言ったこと、覚えてる?」


彼女は椅子に座ることもせず、カウンターに手をついて寅三を見上げた。


「『髪は記録だ』って。……もし、その記録が全部、消去されてる髪があったら、どうする?」


寅三の背中に、冷たい氷の柱が立ったような感覚が走った。


「……どういう意味ですか」


「今日ね、午前中に変な客が来たの。三十代後半、黒いジャケットの男」


寅三の手が、無意識にハサミの柄を握り締めた。


「……その人、何か言いましたか?」


「何も。ただ『整えてくれ』って。……でもね、ハサミを入れた瞬間、気持ち悪くなって手を止めたわ。髪に触れても、何のレスポンスもないの。昨日言った法務担当の女性は『固かった』。風太くんは『騒がしかった』。でも、その男は……『空っぽ』だった」


ひかりの声が、わずかに震えている。


「あんなの、人間じゃないわ。鏡に映ってるのに、そこに誰もいないみたいで……。私、怖くなって『急用ができた』って嘘ついて、帰ってもらったの。美容師やってて、初めて逃げ出したわ」


寅三は、ゆっくりと息を吐き出した。


「……その人の髪、読み取れなかったんですね」


「読み取るも何も、文字が一つも書いてない白紙なのよ! 寅さん、あなた、あの男の髪を切ったんでしょ? どんな感じだった? 何が見えた?」


寅三は、鏡に映る自分自身をじっと見つめた。


「……僕も、何も読めませんでした。ただ、一つの大きな『空白』があった。……ひかりさん。あのお客さんは、中村透という名前です」


「中村……透……」


ひかりはその名前を反芻し、身震いした。


「……気をつけなさいよ、寅さん。あの男、何か『終わり』の匂いがするわ。私、もう二度とあの髪には触りたくない」


ひかりは、逃げるように店を後にした。


雨音だけが、彼女の去った後の静寂を埋めていく。


---


5. 雨の中の虚像、あるいは実像


夕暮れ時。雨は小降りになり、霧のような細かな粒が空中を漂っていた。


サインポールの三色が、濡れた路面に滲んだ水彩画のように揺れている。


寅三は、外の様子を伺うように、店の前を掃きに出た。


雨上がりの匂い。


甲子園球場の方から聞こえる、濡れたタイヤがアスファルトを擦る音。


その時だ。


通りの向こう側。


傘も差さず、雨に濡れるのも厭わずに歩く、一人の男の姿があった。


黒いジャケット。


重力に従うように、真っ直ぐに、しかし意志を感じさせずに歩くその姿。


「……中村さん」


寅三の口から、無意識に名前が漏れた。


声は届かないはずだった。


だが、男――中村透は、その瞬間、ゆっくりと立ち止まった。


彼は、理髪店を見るわけでも、寅三と目を合わせるわけでもなかった。


ただ、そこに「立ち止まった」だけだ。


雨が彼の頬を伝い、首筋へと流れていく。


それすらも、彼にとっては風景の一部でしかないようだった。


寅三は、一歩踏み出した。


聞きたいことがあった。


なぜ、あなたの髪は何も語らないのか。


なぜ、あなたはここにいるのか。


しかし、その問いが唇に届く前に、男は再び歩き出した。


まるですべてを予見していたかのような、淀みのない動作で。


彼は一度も振り返ることなく、雨のカーテンの向こう側へと消えていった。


胸の奥に、不協和音のようなざわめきが残った。


それは恐怖ではなく、職人としての、あるいは一人の人間としての、激しい「渇望」だった。


(あの空白を、いつか僕は読まなければならない)


寅三は店に戻り、サインポールのスイッチを切った。


回転が止まり、店内に夜が訪れる。


暗闇の中、寅三は自分の指先をじっと見つめた。


雨を吸って重くなった自分の手。


中村透という「読めない髪」を読み解く日まで、この指先が乾くことはないだろう。


外では、雨が再び激しく降り始めていた。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

白川理髪店の空気が、少しでも届いていれば嬉しいです。

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