◆第2話 日常の音
1『 世界の歯車を回すスイッチ』
午前七時三十分。
西宮の町は、まだ薄い朝霧の名残に包まれている。
阪神電車の通り抜ける始発列車の音が、遠くで心臓の鼓動のように響いていた。
白川理髪店の前に立つと、磨き上げられたガラス戸に、寝不足気味な自分の顔が映る。
寅三はポケットから使い込まれた鍵を取り出し、錠穴に差し込んだ。
──カチリ。
静寂の中で、その小さな音は世界の結界を解く合図のように聞こえた。
店内の空気は、夜の間に深々と冷え、トニックシャンプーと消毒液の匂いが濃く沈殿している。
寅三はまず、入り口脇にある古いスイッチに指をかけた。
白川理髪店の「開店儀式」だ。
「……よし」
スイッチを入れると、微かなモーター音が唸りを上げた。
赤・青・白。
三色の螺旋が、ガラスの円筒の中でゆっくりと、しかし確実に回り始める。
サインポールの光が、まだ薄暗い歩道を交互に照らし、店内の壁にリズミカルな影を投げかけた。
(昨日から、指先が少し重いな……)
白衣に袖を通しながら、寅三は自分の右手のひらを見つめた。
昨日の「読めない男」──中村透の髪を触れた時の、あの無重力のような感触。
指先が何かを探そうとして空振りする、あの不気味な感覚が、まだ皮膚の裏側に張り付いている。
「考えるな。今日は今日の髪が来る」
寅三は置き型のシザーケースの前に立ち、ハサミの並びをミリ単位で整えた。
職人は、道具に感情を移さない。それが鉄則だ。
2.『甚八さんの「履歴書」』
「カランコロン」と、ベルが眠たげに鳴った。
「おはようさん、寅の兄ちゃん。今日も男前なサインポールが回っとるな」
新聞を脇に抱え、よれよれのハンチング帽を被った三宅甚八が入ってきた。
足取りは軽いが、その背中には七十年分の重力がしがみついている。
「甚八さん、早いですね。まだシャッター、半分しか上げてませんよ」
「ええんや、歳とるとな、寝るんも体力がいるんや。寝ても寝ても朝が勝手に迎えに来よる」
甚八はいつもの定位置──入り口から一番近い、年季の入った革張りの椅子にどっしりと腰を下ろした。
「昨日の『黒い兄ちゃん』、わしも見たで。店から出ていくところ」
寅三のハサミを拭く手が、一瞬だけ止まる。
「……甚八さん、見てたんですか」
「ああ。ありゃあ、なんやな。幽霊が服着て歩いとるみたいな、おかしな空気やった。この辺じゃ見かけん顔や」
「ただの、物静かなお客さんでしたよ」
「ほうか? 寅の兄ちゃんがそう言うんなら、そうなんやろ。けどな、あんなに『影』が薄い男、わしの長い人生でも指で数えるほどしかおらんわ」
甚八はニヤリと笑い、新聞をバサリと広げた。
「……で、今日はコーヒーだけですか?」
「切るわい! 今日はちょっと、スカッとさせてくれ。明日は孫の入学式やからな」
「それはおめでとうございます。じゃあ、気合を入れて整えますね」
寅三は白衣の裾をぴしゃりと叩き、胸ポケットから櫛を取り出した。
甚八の髪に触れた瞬間、寅三の脳内に「声」が流れ込んでくる。
(……ああ、やっぱりこれだ)
甚八の髪は、ひどく饒舌だった。
生え際の頑固なうねりは、彼のへそ曲がりな性格を。
後頭部の細くなった毛先は、ここ数日の不摂生と、それでも隠しきれない孫への期待を。
すべてが、手に取るように分かる。
「甚八さん、最近また夜更かしして、古いビデオばっかり見てますね? 肩がガチガチですよ」
「げっ。なんで分かるんや、エスパーかお前は」
「髪が言ってます。血行が悪くなって、毛先が『休ませろ』って悲鳴を上げてますよ」
「……髪にしゃべらすな。気味悪いわ」
甚八は照れ隠しに新聞を顔に近づけた。
寅三は、最も信頼している一本のハサミを抜いた。
甚八のような「生きた髪」には、少し遊びのある、柔らかい切れ味の刃がよく馴染む。
──シャキ、シャキ、シャキ。
リズミカルな金属音が店内に響く。
切るたびに、甚八の「昨日までの疲れ」が床に落ち、白髪混じりの頭に「明日への矜持」が宿っていく。
「はい、できました」
「おお……。なんや、十歳は若返ったな。これなら入学式で、わしが新入生と間違われるかもしれん」
「それは無理がありますね」
寅三の容赦ないツッコミに、甚八は豪快に笑いながら店を出ていった。
「また昼に、タイガースの打順の相談に来るわ!」という、いつもの捨て台詞を残して。
3. 『パン屋の嵐、あるいは小麦粉の寝癖』
甚八の余韻に浸る暇もなく、ガラス戸が今度は「バーン!」と勢いよく開いた。
「寅さん! 助けてくれ! 終わった、俺のパン屋人生が終わった!」
飛び込んできたのは、近所の人気パン屋『ベーカリー・タニグチ』の主人、直哉だった。
顔に小麦粉が少し付いたままで、髪はまるで台風の後の草原のようにぐしゃぐしゃだ。
「直哉さん、どうしたんですか。パンが全部焦げたんですか?」
「パンは最高や! 過去一の出来や! けどな、店の前で派手に転んでな! 運んでたカレーパンの粉が頭にかかって、パニックになって手でわしゃわしゃーってやったら……このザマや!」
直哉が鏡の前に座る。
確かに、右側頭部が不自然に固まり、左側がツンツンと天を突いている。
「……これは、なかなかクリエイティブな寝癖、いえ、事故癖ですね」
「笑い事ちゃうわ! さやかがな、『その頭で店頭に立つな』って、店に入れてくれへんのや!」
「直哉ー! 寅さんに迷惑かけたらあかん言うたやろ!」
外から、さやかの鋭い声が響く。
彼女は店の入り口で、腕を組んで仁王立ちしていた。手に持った紙袋からは、いい匂いが漂っている。
「寅さん、ごめんね。この人、新作の『メロンパン・デラックス』の試作に夢中で、三日くらいまともに鏡見てないのよ」
「さやかさん、いらっしゃい。直哉さんの髪は、確かに今、非常に『お疲れ』のようです」
寅三は、直哉の髪に触れた。
指先に伝わるのは、熱。
パンを焼く窯の熱、そして「新しい味を作りたい」という、直哉の熱い焦燥感だ。
髪が、汗と小麦粉と情熱で、ぎゅうぎゅうに詰まっている。
「直哉さん。このままだとパンの味が重くなりますよ。少し、心の風通しを良くしましょう」
「……髪を切るだけで、パンの味が変わるんか?」
「髪型は、生き方ですから」
寅三は、今度はセニング(すきバサミ)を手に取った。
直哉の溢れすぎる熱量を、適度に逃がしてやるための作業だ。
──サク、サク、サクサクッ。
「あ……。なんか、頭がスースーしてきた」
「熱が逃げていってる証拠です。さやかさん、直哉さんに最近、厳しくしすぎたんじゃないですか?」
「えっ、なんで分かるの?」
「髪が、さやかさんの顔色を伺って、少し縮こまってましたから」
さやかが「うっ」と絶句する。
直哉が鏡の中で、情けない顔をして笑った。
「寅さんには、隠し事できんなぁ……」
「隠す必要なんてありませんよ。……はい、整いました。これでパンも軽やかに焼けるはずです」
鏡の中の直哉は、清潔感のある、しかし情熱を失わない絶妙な短髪に収まっていた。
「おおお! 寅さん、神や! さやか、どうや! これなら店に入れてくれるか?」
「……まあ、合格。ほら、寅さん。これお礼のメロンパン。食べすぎると髪が甘くなるから気をつけてね」
「そんなこと、あるんですか?」
寅三の問いかけに、さやかは「さあね!」とウインクして、直哉の背中を叩きながら去っていった。
店内に残ったのは、甘い小麦の香りと、幸せな夫婦の温度だった。
4.『継承される「眼差し」』
放課後のチャイムが聞こえる頃、三度目のベルが鳴った。
「師匠ーー! 今日の僕の髪、分析して!」
風太がランドセルを玄関に放り投げる勢いで入ってきた。
前髪は汗で額に張り付き、後頭部は枕と喧嘩したような跡がある。
「風太、ランドセルはちゃんと置け。お前の髪は、分析するまでもないな。……『今日は体育でドッジボールをして、五時間目の国語で盛大に居眠りをした髪』だ」
「なっ……! なんで分かるん! 師匠、教室に隠しカメラ仕掛けたやろ!」
「カメラなんていらない。お前の左側の髪の潰れ方は、教科書を枕にした時の角度だ。あと、前髪に砂がついてる」
寅三は風太を椅子に座らせ、霧吹きでシュッシュと水をかけた。
「髪って、そんなにいろんなことを覚えているん?」
「ああ。お前が忘れてしまったことも、髪は全部覚えている。だから、散髪っていうのはな、風太。いらなくなった古い記憶を切り落として、新しい明日を吸い込む準備をすることなんだ」
風太は、鏡に映る自分の顔を真剣に見つめた。
「じゃあ、師匠……昨日のあの『読めない男』の人は? あの人の髪は、何を覚えてたん?」
寅三のハサミを動かす指が、不自然なほどピタリと止まった。
「……あの人は、何も覚えていなかった。あるいは、全部を忘れたふりをしていた。そんな髪だった」
「忘れたふり?」
「ああ。……空白。真っ白な画用紙みたいな髪。お前の髪みたいに、ドッジボールだの居眠りだの、そんなにぎやかなおしゃべりが一切聞こえてこないんだ」
風太は、小さな頭を捻った。
「それって……悲しい髪なん?」
「……さあな。僕にもまだ、分からないんだ」
寅三は、風太の前髪をミリ単位で整えた。
「はい。これで明日の授業は居眠りできないぞ。視界が良すぎてな」
「えー! それは困るー!」
風太が笑い転げる。
その子供らしい笑い声が、店の隅々に残っていた「空白の男」の気配を、一時的に追い払ってくれた。
5. 夕暮れの幻影
日が沈み始め、西宮の空が深いオレンジ色から群青色へと溶け込んでいく。
寅三は店の前を竹箒で掃き、サインポールのガラスを丁寧に磨いていた。
「……ふぅ」
一息つき、顔を上げた時だった。
歩道の向こう側。
街灯が点灯する瞬間の、あの不安定な光の明滅の中に。
黒いジャケットの男が、立っていたような気がした。
寅三の心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
中村透だ。
「……中村さん?」
声に出した時には、その人影は夕闇の中に消えかかっていた。
寅三は数歩、店を飛び出して追いかけたが、角を曲がった先にいたのは、仕事を終えて足早に帰路につくサラリーマンたちの群れだけだった。
「気のせい……か」
いや、指先が覚えている。
あの男が近くを通った時にだけ感じる、あの温度のない空気。
店に戻ると、サインポールの三色が、狂ったように、あるいは祈るように、暗闇の中で回り続けていた。
「読めない髪……か」
寅三は、自分の右手のひらをじっと見つめる。
あの男の髪を、もう一度、読み解きたい。
それは職人としての好奇心なのか。それとも、あの空白の底に沈んでいる「何か」を、救い出さなければならないという義務感なのか。
寅三は、静かに店の鍵をかけた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
白川理髪店の空気が、少しでも届いていれば嬉しいです。




