表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白川理髪店の寅さん  作者: 海狼ゆうき
継承と変容の鏡

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/20

第19話 クリスマス・イブの贈り物

西宮の街が、白銀の沈黙に飲み込まれていた。

数十年ぶりと言われる観測史上空前の豪雪が、阪神間の湿った海風を凍りつかせ、色とりどりのイルミネーションを無慈悲に覆い隠していく。

サインポールだけが、雪の重みに耐えながら、凍てついた夜に三色の光を投げかけていた。


白川寅三は、店の暖房を強め、古いラジオから流れるバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を聴いていた。

今夜は予約も途絶えた。街から人の気配が消え、ただ雪が積もる「音」だけが、理髪店の厚いガラス戸を叩いている。


寅三は、父・善造が最期まで手放さなかった、一丁のカミソリを手に取った。

それは通常のカミソリよりも一回り小さく、繊細な刃を持つ「レディ・シェービング」用の名品だった。


---


1. 雪の夜の訪問者


「カラン、コロン……」


入り口のベルが、弱々しく、しかし透明な音を立てた。

吹き込んできた雪煙と共に、一人の影が店内に滑り込んできた。


真っ赤なコートに身を包み、マフラーで顔を半分隠した若い女性。

場違いな場所に迷い込んだ小動物のように、店内を不安げに見渡している。


「……あ、あの。まだ、よろしいでしょうか」


寅三は驚きを見せず、静かに椅子を回した。


「いらっしゃいませ。どうぞ。雪で大変でしたね」


女性はコートを脱ぎながら、申し訳なさそうに言った。


「どこも閉まっていて……。今夜、どうしても、ここに来たかったんです。

『白川さんの剃刀なら、奇跡が起きる』って、父が言っていたから」


寅三の眉がわずかに動いた。


「お父様は?」


「……もう、いません。かつて、ここで善造さんに髭を剃ってもらっていたのが、父の唯一の自慢でした」


寅三は何も聞かず、彼女を真ん中の椅子へ案内した。


女性の名は美緒。

今夜、彼女はプロポーズの返事をするために、ある人の元へ向かうという。

だが鏡の中の彼女の顔は、寒さだけでなく、深い迷いと不安で強張っていた。


---


2. 静のシャンプー


今夜の寅三は、いつもの荒々しい所作を捨てた。

必要なのは、凍てついた心を解かす「静」の技術。


最高級のシルクのようなネックペーパーを取り出し、指先で紙の端を微かに弾く。


「……フッ」


音さえ雪に吸い込まれるほど繊細だ。


寅三は、美緒の細い首筋にその白い紙を添えた。

女性の肌は、一グラムの圧さえ敏感に察知する。

寅三は指先の体温をネックペーパーに移しながら、彼女の喉元を優しく包み込んだ。


その上から、真っ白なベルベットのようなカットクロスを広げる。

バサリという音はしない。

ただ空気を含んだ布が、彼女を聖夜の静寂に閉じ込めた。


「椅子を倒します。……少し、眠ってください」


シャワーの蛇口を極限まで絞る。

給湯器の唸りさえ、遠い子守唄のようだ。


「……お湯を通します」


微かな水音。

寅三は、自分の掌で一度受け止めた温もりだけを、美緒の地肌へ伝えていった。


「……あ、あったかい……」


美緒の睫毛が震える。


シャンプーの泡は極限まで細かく、クリーミー。

バニラとサンダルウッドの甘く深い香りが店内に満ちる。


寅三の指使いは、絹糸を紡ぐように滑らかで円形的。

いつもの「パーカッション」ではない。

今夜は、繊細な弦楽器を奏でる弓のように、彼女の緊張を一つずつ解きほぐしていく。


泡が弾ける音さえ、雪の降る音に同期していく。


三枚の蒸しタオル。

温度の違う三つの熱が、美緒の呼吸を整えていく。


---


3. 一生に一度の顔


「……これから、剃ります。

一生に一度の、顔を。

お父様が見守っていた、その顔を」


寅三は、父の遺した小さな剃刀を手に取った。


美緒の顔に、温かい石鹸の泡を広げる。

リス毛の筆が、雲のように頬を撫でる。


「倒します」


視界が失われ、美緒は沈黙の深淵へ。


寅三は剃刀を立てた。


「……いきます」


「ジョリ……」


凍った湖の氷が割れるような、澄んだ音。


寅三の刃先は、美緒の産毛ではなく、

彼女の心にこびりついた「迷い」を剥がしていく。


「ジョリ、ジョリ、ジョリ……」


一掻きごとに刃を離し、肌の状態を確かめる。

女性の肌は心の鏡。

不安があれば強張り、決意があれば潤う。


「美緒さん。鏡を見てはいけません。

自分の内側を見てください」


剃刀が眉間に触れる。


「……ここです。

あなたが、自分の幸せを願うことをためらっていた場所」


眉の形が、微かに、しかし劇的に変わる。

守られる顔から、幸せを掴みに行く顔へ。


最後の一掻き。

小鼻の脇、口元の産毛を羽毛のように処理する。


剃刀を閉じる「パチン」。

聖夜のミサの終わりを告げる鐘のようだった。


---


4. 新しい顔、新しい人生


「……終わりました」


ネックペーパーを外す。

カサリという最後の音。


椅子を回転させ、美緒を鏡に向かわせた。


そこにいたのは、雪に怯えていた少女ではない。


透き通る白い肌は内側から輝き、

整えられた眉は意志の強さを宿し、

剥き出しになった項は、大人の女性の気品を湛えていた。


美緒は、自分の頬に触れた。


「……これが、私……?」


「ええ。

あなたが今日から生きていく、本当の顔です。

お父様が、あなたに遺したかった贈り物ですよ」


美緒の瞳から、一筋の涙。


それは不安ではなく、自分を許し、愛するための涙だった。


彼女はコートを着る前に、バッグから一輪のポインセチアを取り出した。


「……これ、お代の代わりに。

いえ、感謝の気持ちです。

先生、私、行ってきます。

この顔で、返事をしてきます」


深々と一礼し、店を出ていった。


カラン、コロン……。


ベルの音が、止まない雪の中に吸い込まれていく。


---


5. 聖夜の灯火


寅三は、カウンターに置かれたポインセチアを父の遺影の前に飾った。

赤と白のコントラストが、凍てついた店内に確かな「生」の色を添える。


サインポールのスイッチを切る。

外の雪はまだ降り続いている。


だがその雪はもう、街を閉ざす壁ではなく、

新しい命を育むための静かな毛布のように見えた。


寅三は鏡を磨き直した。


鏡の中には、一人の女性の人生を変えた理髪師の手が映っていた。

その手には、父から継承し、自ら磨き上げた「祈り」が宿っている。


「……メリー・クリスマス、親父」


西宮の聖夜。

白川理髪店の灯火は、誰かの心に小さな、しかし消えない光を灯して、静かに眠りについた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ