表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

遥なる記憶と元SPの贖罪

作者: 望月 遥
掲載日:2026/01/11

「ハァ、ハァ、ハァ……ッ」


爆発の轟音が、未だ船体に重く響いている。突如として起きた閃光と熱波。それは、数時間前まで富と虚飾に彩られていたラグジュアリーな客船の静寂を無惨に引き裂き、砕け散った窓ガラスの破片が凶器となって宙を舞った。


俺の名は、桐生真きりゅう・まこと。この瞬間の光景を、俺は生涯忘れることはないだろう。


反射的に身を伏せた俺の視界は、激しい煙で白く塗り潰されていた。耳鳴りだけが、劣悪な支配者気取りで世界を蹂躙している。キィィィィン、という高周波の裏側に、逃げ惑う人々の叫びが遠くこだましていた。


(まただ……また、俺は守れなかったのか)


数年前の、あの忌まわしい記憶が泥濘ぬかるみのように脳内を駆け巡る。あの日も、要人護衛の最中、この不快な耳鳴りの中で判断を誤った。そのわずかな遅れが、守るべき命を永遠に失わせた。


俺はSPを退職し、死んだも同然の抜け殻のような日々を過ごした。肉体は鍛え直せても、心に空いた穴を塞ぐ術はどこにもなかった。


「……目を覚ませ、真」


自分を鼓舞し、顔を上げる。血と硝煙のにおい。元SPの直感が、これが単なる事故ではないと叫んでいる。爆発の質、そして連動した混乱。俺は反射的に、パニックに陥った乗客たちを避難誘導し始めていた。


ある程度の人数を捌き、状況を俯瞰しようとしたその時――一人の女性の後ろ姿に釘付けになった。


振り返った彼女を見た瞬間、世界から色が消え、時の流れが静止した。


「嘘だろ……有り得ない……。遥、なのか?」


亡き恋人、佐藤遥。俺の失態と時を同じくして病で亡くなった、唯一の愛。目の前の女性は、その遥と瓜二つだった。髪の揺れ方、そして瞳の奥に宿る、折れることのない意志の強さまでもが。


(どうして言葉が出ない……!?)


「君は誰だ」と問おうとした一瞬の遅れが、運命を決定づけた。


彼女は言葉を待たず、俺の掌に冷たい金属の塊を押し付けた。USBメモリ。


「これを、世間に公表して。奴らはソレが目当てでこの船に乗り込んだの。信じられないだろうけど、新種の病原菌をバラまく気よ……。コレを、今からあなたに託すわ。逃げて!」


話す間もなく、青白い顔を焦燥に歪ませた武装集団が現れた。


「標的を捕捉! 奪取しろ!」


途端に彼女は、冷徹な眼差しで声の方向へ視線を転じ、俺を突き飛ばすと同時に男たちの中へ一直線に向かっていった。華奢な身体からは想像もつかない、狂気に近い戦闘技術で敵を薙ぎ払っていく。だが、数に勝る敵の銃弾が、容赦なく彼女の肩を貫いた。


「!?」


声にならない悲鳴が、心の奥底で響いた。


身体を動かせ、と内なる声が叫ぶ。だが、途方もない恐怖と過去の幻影に支配された俺の身体は、氷のように固まり、指一本動こうとしない。


「お願いよ……逃げ……て……!」


彼女は最後の一力を振り絞り、甲板の手すりを越え、黒い夜の海の中へと消えていった。一瞬の水しぶき。それが、彼女がこの世に残した最後の痕跡だった。


「守れなかった。また……守れなかった」


恐怖と自責が波のように押し寄せる。彼女の姿が消えてから、皮肉にもようやく俺の身体は自由を取り戻し、全力で駆け出していた。掌にあるUSBの冷たさが、彼女が命と引き換えに遺した「重み」として、辛うじて俺を現実に繋ぎ止めている。


「世間に公表して」


あの言葉が、頭の中で呪文のように繰り返される。遥に似た彼女を失った今、この使命だけが、俺に残された唯一の贖罪の道となってしまった。


「止まれっ! 止まってくれよ!」


拭っても拭っても際限なく溢れ出してくる、熱い想い。それを振り切るように、俺は暗い船内へと足を踏み入れた。


「必ず、やり遂げる。必ず……」


彼女に報いるため、そして自分の中の亡霊を葬るため。


俺は、生きてこの密室のレムナントから脱出することを、漆黒の海に誓った。重厚な防熱扉をすり抜け、俺は船の内側へと滑り込んだ。


そこは数分前までの優雅な静寂をかなぐり捨て、無機質な鉄の迷宮へと姿を変えていた。


船体は左舷にわずかに傾き始めている。壁に飾られた絵画が、重力に従って不気味な音を立てて床へと滑り落ち、額縁が砕ける乾いた音が無人の廊下に響き渡った。


「ハァ……ハァ……ッ」


自分の荒い呼吸音が、鼓動よりも大きく耳に届く。掌に食い込むUSBメモリの角が痛い。否、違った。メモリを持つ掌が流した血で滲んでいる。血の跡を辿ると、自身で付けた爪痕からだった。だが、その痛みが唯一、俺がまだ「正気」の側に踏み止まっていることを証明していた。


俺はかつての習性に従い、照明が明滅する通路の角で一度足を止め、周囲の気配を殺す。


(静かすぎる……)


避難誘導した乗客たちは、パニックに突き動かされて上のサンデッキへ向かったはずだ。しかし、この中層階層に漂っているのは、生命の気配ではなく、腐敗した有機物と重油が混ざり合ったような、名状しがたい死の臭いだった。


その時、前方の客室エリアの影から、ズルリ、という嫌な音が聞こえた。


俺は反射的に腰を落とし、横転したサービスワゴンの陰に身を隠す。


「……ア……ガ……ッ……」


現れたのは、先ほどの武装集団の一人。


だが、その様子は「兵士」のそれとは程遠い。彼は自らのアサルトライフルを杖代わりに、まるで重すぎる肉体を、無理やり引きずっているかのようだった。


非常灯の赤い光が、彼の横顔をなぞる。


(なんだ、あれは……人間なのか?)


皮膚が、生きながらにして変色している。青白いというよりは、半透明の灰色の膜が顔全体を覆い、その下で太い血管がドクドクと、心臓とは別の脈動でうごめいていた。彼は狂ったように自分の首筋を掻きむしり、剥がれ落ちた皮膚が床に黒い染みを作っていく。


彼は俺の存在に気づいていない。ただ、虚空を見つめ、何かに怯えるように呻き続けている。


「……たすけ……て……組織やつら……安定剤を……」


掠れた声。それが彼が放った、最後の人間の言葉だった。


直後、彼の身体がビクンと大きく跳ね、背中の骨が不自然な角度で突き出した。


俺は息を止めた。元SPとして、修羅場も無惨な現場も何度も見てきた。だが、目の前で「人間」という概念が、内側から未知の何かに食い破られ、再構築されていく光景は、俺の理解の範疇を超えていた。


(新種の病原菌……。彼女は、そう言ったな)


彼女が命を懸けて守ろうとしたこのUSBの中身。それは、単なる生物兵器のデータなどではない。人類を、文字通り別の「何か」へと変異させてしまう、悪魔の設計図なのだろうか。彼の最後は、醜悪という表現で収まらないのかもしれない。衣類だけを残し、液状化して跡形もなく消失してしまった。


「止まってくれよ……!」


ふいに、自身の指先が激しく震えていることに気づいた。


恐怖。そうだ、俺は恐怖している。


守れなかった過去に。そして、今目の前で進行している、救いようのない現実の崩壊に。


だが、逃げるわけにはいかない。


俺がここで膝をつき、この真実を闇に葬れば、あの海に消えた彼女の想いも、遥が愛したこの世界さえも、あの無惨な肉塊と同じように、醜く塗りつぶされてしまう。


俺は震える手で、近くの消火器の影に落ちていたタクティカルナイフを拾い上げた。


銃声は敵を呼び寄せる。今の俺には、音を立てずにこの迷宮を抜けるSPとしての「影」の技術が必要だ。


「必ず、やり遂げる。……今度こそ」


耳鳴りが、再び強くなる。


だが今のそれは、俺を責める亡霊の嘆きではなく、死地へ向かう俺を鼓舞する戦闘の警笛のように聞こえた。


俺は影に紛れ、重油の匂いが漂う船底の通信室を目指して、音もなく駆け出した。


船底へ続く非常階段を下りるにつれ、空気の質が明らかに変わった。


上層の客室デッキを支配していた硝煙と香水の混じり合った不快な臭いは消え、代わりに重油の鼻を突く刺激臭と、むせ返るような湿気が肺を圧迫し始める。


足元には、すでに数センチの海水が溜まっていた。一歩踏み出すごとに、冷たい飛沫がズボンの裾を濡らし、チャプ、チャプという軽い音が、無機質な鋼鉄の壁に反響して不気味なリズムを刻む。


「……ハッ、ハッ……」


俺は呼吸を整え、意識を「任務ミッション」のフェーズへと完全に切り替えた。


右手に握ったタクティカルナイフ。そのマットブラックに加工されたブレードは、非常灯の赤い光を一切反射せず、闇を切り取る鋭利な影のように俺の手になじんでいる。


船員用のバックヤードの最深部。通信管理室の前に辿り着いた時、扉のインジケーターは無慈悲な赤色を灯していた。カードキーによる電子ロックだ。俺はナイフの先端を配線ボックスの継ぎ目に滑り込ませ、強引にカバーを抉じ開けた。


赤と青の配線をナイフの刃で同時に傷つけ、一瞬だけ接触させる。


バチッ、と青白い火花が散り、オゾンが焼けたような臭いが鼻を突いた。直後、プシュッという排気音と共に、扉のロックが機械的に開放された。


室内には、無数のサーバーラックが低い駆動音を立て、壁一面に並んだマルチモニターが不気味な青白い光を放っていた。


「誰もいない……か……」


本来なら常駐しているはずの船員たちの姿がないことに、言いようのない不気味さを感じた。だが、今はその理由を考察している暇はない。なすべきことを最優先にしなければ。


俺はメインコンソールに駆け寄り、掌の中で温まっていたUSBを端子へ叩き込むように差し込んだ。キーボードを叩く音だけが正確に、無機質な室内で硬い音を立てる。


「……頼む、つながれ……!」


画面上を、無数のエラーコードとプログレスバーが高速で流れ去っていく。本来なら瞬時に確立されるはずの衛星リンクが、何かに阻まれるようにしてリダイレクトを繰り返している。


「……チッ、回線が絞られてるのか?」


俺は軍事用のバイパス・プロトコルを強引に割り込ませ、暗黒の宇宙へ向けて救難信号にも似たデータパケットを放り投げた。


画面に、回線確立中を示す『ESTABLISHING...(エスタブリッシング)』の文字が点滅する。


一秒が、永遠のように長く感じられた。


スピーカーからは、宇宙の深淵から漏れ出してきたような、空虚で激しい砂嵐の音だけが響いている。俺は息を止め、モニターに映るプログレスバーの最後の一節が埋まるのを凝視した。


不意に、ノイズの音程が変わった。


ザザッ、という不快な破裂音の向こう側から、聞き慣れた、しかし今はひどく遠く感じる男の声が、必死に俺の名を呼んだ。


「……真か? 真なのか!」


スピーカーから響いたのは、旧友、後藤健ごとう・たけるの焦燥に満ちた声だった。警察庁の技術部門に籍を置くエリートだが、その裏の顔は、フリーランスとして数々の企業のセキュリティ構築を請け負う凄腕のシステムエンジニアでもある。


「後藤、俺だ。詳細は省くが、今、豪華客船レムナントからデータを転送した。すぐに解析を頼む。……時間は、恐らくもうない」


「レムナント号だと? おい、あの船はいま通信不能になってるはずだ……! 待て、おまえが今こじ開けたこの回線、内部から強力な帯域制限がかけられてる。……なんだ、このプロトコルは? 冗談だろ、軍事レベルの暗号化だ。……ちょっと待て、おれが個人的に組んだ解析クラスタを最大出力で回す……」


解析を待つ間、俺は壁面のマルチモニターに視線を走らせた。


ある画面では、カジノホールのバカラテーブルの上で、女性客が侵入者にインジェクターを押し付けられ、数秒後に黒い粘液を滴らせながら悶絶している。


また、その隣の画面――多数ある居住区の通路を映すカメラでは、肉体が異常に膨張し、もはや人間の服が布切れのように張り付いているだけの「ナニか」が、乗客たちが潜んでいるであろう扉を、一枚ずつ力任せにへし折ろうとしていた。


「……真, 聞こえるか」


長い沈黙の後、後藤の声が、今まで聞いたこともないほど低く、震えて響いた。


「おまえが送ってきたこれ……『レプリカ計画』の核心データ。……ひどい……こんな……。病原菌なんて生易しいもんじゃない。未知のスライム状の宇宙生命体を、細胞レベルで人間に強制融合させ、新たな生命体――『適正者』を創り出すための設計図だ」


「適正者……。あの侵入者たちは、そのための『素体』を探しているのか」


「ああ、だが不可解な点がある。真、ここからはおれの推論だが、よく聴いてくれ。おれが今、裏のルートからこの船のネットワークに逆侵入をかけてわかったことだが……現場で暴れているあの武装集団、あいつらはただの『手駒』に過ぎない。」


「どういうことだ?」


「おれの見立てじゃ、そいつらのさらに上に、裏で糸を引いている真の黒幕――『組織』が存在してる。さっきおまえが苦労してた回線の制限も恐らく、こいつらの仕業だ。船内全てのカメラやセンサーの全データが、現場の連中を飛び越えて、外部の別のホストへリアルタイムで送信されてるんだ。組織の連中はどこか安全な場所で、この惨劇を『特等席』で観賞してる。このネットワーク構成、最初から証拠ごと使い捨てるために最適化されてるんだ」


「現場の兵士を飛び越えて、データが送られているだと……」


「そうだ。だからこそ、現場の連中がここまで躍起になって適正者を探している理由が見えてくる。……これもおれの仮説だ。あいつら自身、すでにその宇宙生命体を投与されてるんじゃないか? 適合できずに変異が始まる恐怖から逃れるために、組織から『適正者を連れてくれば安定剤を与える』という条件を提示されてる……そう考えなきゃ、あんな捨て身の行動は説明がつかない。自分の命を買い戻すために、他人の命を売っているんだ。」


「……」


「だが真、ここからは仮説じゃなく結論だ。おまえが送ってきたデータ、全階層を舐めるように解析した。だが、どこを探しても、『安定剤』なんて代物の製法は、データのどこにも存在しない。」


背筋を氷の刃で撫でられたような寒気が走った。


「つまり、奴らは……」


「ああ。最初から生かして返す気なんてないんだ。組織にとって、武装集団も乗客も、使い捨ての実験材料に過ぎない。奴らにとってこの船は、ただの実験の様子を映し出す『スクリーン』に過ぎないんだ。解析結果を見る限り、人間がこの生命体に適合できる確率は、一割にも満たない……。奴らは最初から、この船の人間を全滅させるつもりなんだよ」


全滅。その言葉が脳裏で冷たく反響した。適合率一割未満という数字は、裏を返せば九割以上の人類が「液状化した肉塊」へと成り果てることを意味している。もしこの生命体がこの船を飛び出し、世界中にバラ撒かれるようなことがあれば、それは文明の終焉どころではない。人類という種そのものが、この地上から消滅しかねないという究極の危機だ。今、俺が握っているこの小さなUSBメモリが、人類存亡の鍵を握る最後の一片となる。


「真、そのデータを完全に外部へ公開するには、ブリッジへ行け。そこにあるメインコンソールをおれの端末と直結させろ。そうすれば、おれがこのデータを世界中にバラ撒いてやる」


「わかった。……ブリッジだな」


「真、待て! 組織は適合者を見つけた瞬間に『回収チーム』を送り込むはずだ。……死ぬなよ。おれたちがまた、あの汚い居酒屋でビールを煽るまではな!」


通信が途切れた。


俺は天井の隅で静かに赤く光る監視カメラのレンズを見据え、中指を立ててから部屋を飛び出した。


目指すは最上階、ブリッジ。


だが、その道中で俺は、この船に残された「最後の希望」と対峙することになる。最短ルートの階段はすでに崩落し、火の手が上がっている。迂回するには、五階のメインバンケットホール(披露宴会場)を突っ切るしかなかった。


重厚なマホガニーの扉の隙間から、獣のような低い唸り声と、必死に誰かを庇おうとする男の掠れた声が漏れ聞こえてくる。


「……させる、か……! ……指一本……触れさせない……っ。……彼女だけは」


扉を蹴破った俺の視界に飛び込んできたのは、無惨に荒らされた会場の隅、震える新婦を背中に隠し、折れた椅子を武器に構える新郎の姿だった。純白のドレスに身を包んだ新婦は死人のように顔色が白く、激しく咳き込んでいる。その細い手には、使い古された吸入器が握られていた。


新郎は彼女が病気がちであることを知り、それを承知で共に歩むことを誓ったのだろう。折れた椅子を握りしめるその手は、止めることのできない恐怖で激しく震えていた。それでも、彼は一歩も引かない。


その姿が、病床で最期まで俺の手を握り、「生きて」と微笑んだ遥の姿と、残酷なほどに重なった。


「下がっていろ。そこからは俺の仕事だ」


俺の声に、新郎は一瞬だけ振り返った。その瞳には涙が溜まっていたが、絶望に負けない強い光があった。


「……頼みます。彼女を、彼女だけは……ぼくが、もっと強ければよかったのに……!」


その叫びが、かつての俺が抱えていた、喉を焼くような無力感と重なった。あの時、俺も彼と同じように、自分の弱さを呪いながら彼女の手を握りしめていた。


「……適正者かもしれないんだ。渡せ」


対峙するのは、皮膚がどす黒く変異した武装兵たち。数名が理性を失った獣のように四つん這いで獲物を狙い、中央の一人が銀色のインジェクターを掲げている。さらに背後では、一際巨大に膨れ上がった肉塊のような男が、棍棒のような腕を振り回して立ち塞がっていた。


俺の胸の奥で、かつて遥を救えなかった無力感からくる衝動が一転。猛烈までの激しい怒りへと変化し、俺の四肢に灼熱の奔流を流し込んだ。


「断る! その二人の時間は、貴様らのようなゴミに汚させていいものじゃない」


俺は一気に地を蹴った。左右から挟み込むように飛びかかってきた二人の武装兵に対し、俺はナイフを振るいながら銃弾を放つ。一人をナイフで一閃し、もう一人を銃弾で足止めする刹那、視界の端で中央の男が動くのが見えた。


男は俺との交戦を他の二人に任せ、その隙に新郎へと襲いかかっていた。新郎は必死に腕を伸ばして抗うが、変異した男の剛腕に無造作に振り払われ、床に転がされる。


男の瞳には理性の欠片もなく、ただ「検体に投与せよ」という呪いのような命令だけが焼き付いているような行動を見せる。無防備になった新婦の喉元に向け、銀色のインジェクターが、死神の鎌のように振り下ろされようとしていた。


「――させるかッ!」


目の前の敵を排除した勢いのまま、手近な円卓にあったディナーナイフを掴み、迷わず放り投げた。鋭い風切り音と共に、ナイフが男の手首を深く貫く。


「ギ、ギャァァァッ!!」


男の手から零れ落ちたインジェクターが、床の上で乾いた音を立てて転がった。投与されていないことに、俺は安堵した。この清らかな命は、まだ地獄に染まっていない。


俺はナイフを投げた隙を突かせず、たじろぐ男の懐へ踏み込んだ。顎を掌底で跳ね上げ、意識が飛ぶ間もなく、その腹部へ強烈な前蹴りを叩き込む。吹き飛んだ男は後方の壁に激突し、首が不自然な方向に折れ曲がったまま動かなくなった。


残る異形のうち、一人が触手化した腕を振るう。俺は背後の二人を庇いながら、会場の重厚な円卓を力任せに蹴り倒し、盾にした。蹴り倒した際の激しい衝撃が足に響くが、俺は地を踏み締め、一歩も引かない。


はるか……」


無意識にその名が口を突いた。あの時、俺はSPとして他人の命は守れても、最愛の女に巣くう病魔から守れなかった。神にどれほど祈っても、彼女の時間は止まってしまった。


だが、今、目の前にあるこの「絆」だけは、何があっても守りたい。俺が守れなかったあの日の続きを、この二人には生きてほしい。


四つん這いで飛びかかってきた最後の一人を、俺は円卓を蹴った勢いのまま迎え撃った。ナイフを逆手に取り、喉元を横一文字に深く切り裂く。噴き出す黒い体液を浴びながら、力尽きる前にその側頭部へ銃弾を叩き込んだ。


だが、息つく暇もなく、最後に残った肥大化した肉塊のような男が、異形に膨れ上がった腕を振り上げ、俺たちを圧殺しようと迫る。銃の残弾は心許ない。この巨体を一撃で沈めるには、通常の火力では足りなかった。


ふと、新郎が必死に抱え込んでいたカバンの脇に、数本の銀色のシリンダーが転がっているのが目に留まった。緊急時用の小型酸素ボンベだ。恐らくあれは、体調の悪い彼女のために新郎が万全の準備をしていたものだろう。


俺はそのうちの一本を素早く掴み取ると、怪物の大きく開かれた口内を目掛けて全力で放り投げた。


「使わせてもらうぞ」


その言葉に、新郎は一瞬だけ俺を直視し、決然と無言で頷いた。その瞳には、自分の備えが彼女を救う力になるなら、という覚悟が宿っていた。


滞空するシリンダーを、俺のハンドガンが正確に射抜く。銃弾が金属の殻を貫き、圧縮された酸素が一気に解放された。


「――伏せろッ!!」


直後、轟音と共に酸素が爆発的に燃焼し、激しい衝撃波が披露宴会場を揺らした。怪物は内側から引き裂かれるように炎に包まれ、断末魔すら上げられずに黒い焦げカスとなって崩れ落ちた。


煙が立ち込める中、俺は新郎に歩み寄った。彼は膝をつきながらも、ドレスの裾を握りしめ、新婦の青白い頬を震える手で撫でていた。


「……よかった……本当によかった……」


「……ごめんなさい……わたしのせいで、こんな……」


新婦の瞳からこぼれ落ちた一筋の涙が、新郎の血に汚れた手の甲に落ちる。新郎はそれを拭うこともせず、彼女を安心させるように力強く微笑んだ。


「大丈夫。これからも、きっと切り抜けていけるさ。一緒なら」


その光景を、俺は痛みを伴うほどの愛おしさで見つめた。もし、あの時。遥の病が、銃や暴力で解決できるものだったなら。俺もこうして彼女に未来を語り、守り抜けたのだろうか。


「彼女を連れて行けるか」


「……はい。ぼくが、彼女を支えます」


新郎は折れそうな膝を叱咤し、新婦を背負い上げた。その背中は小さかったが、どんな盾よりも頑強に見えた。


「わかった。その手を離すな。……俺が、出口まで道を作る」


俺は二人の歩みを促しながら、炎の隙間に目を凝らした。戦闘の際に床へ転がった、あの銀色のインジェクター。組織の正体を暴くため、あれだけは何としても回収しなければならない証拠だ。


だが、先ほどの酸素爆発の熱波が、会場内の装飾やアルコール類に一気に燃え移っていた。


「――くそっ」


証拠が転がっているはずの場所は、すでに紅蓮の炎と黒煙に飲み込まれ、床ごと熱に歪んでいる。手を伸ばそうにも、崩落した天井の一部が道を塞ぎ、猛烈な熱気が俺の肌を焼いた。


証拠を回収する猶予はない。今、優先すべきは「過去の証拠」ではなく、寄り添い合う二人が紡ぐはずの未来だ。


俺は苦渋の決断で火の海に背を向けると、新郎新婦を庇いながら、唯一炎が回っていない非常口へと走り出した。披露宴会場を飲み込んだ紅蓮の炎が、背後で重い音を立てて爆ぜた。


 俺は二人の背中を押し、熱気が渦巻く大広間から、管理用のサービス通路へと滑り込んだ。


 自動閉鎖された防火扉が、ガツンと重い衝撃音を立てて地獄を遮断する。直後、耳の奥を支配したのは、爆音の残響と、自分たちの荒い呼吸音、そして浸水が進む船底から這い上がってくる不気味な軋み音だけだった。


 膝をつき、肩を寄せ合って震える二人。そのタキシードは煤で汚れ、新婦の白いドレスの裾は無残に焼け焦げていた。


 俺は彼らの名前を尋ねることもせず、通路の先にある非常階段へと視線を走らせた。


 豪華な絨毯やシャンデリアといった虚飾は消え、そこにあるのは剥き出しの配管と冷たい鋼鉄の壁だけだ。この無機質な空間に、喉元をカミソリで撫でられるような、鋭利な殺気が満ち始めている。


「……来ている」


 俺は腰のホルスターからハンドガンを抜き、残弾を確認した。


 非常階段へと続く重い扉の向こう側から、規則正しい、だが血の通わない軍靴の音が響いてくる。それは、最初に遭遇したあの理性を失って暴れていた侵入者たちの足音とは根本的に違っていた。今迫っているのは、高度に訓練された回収チームだ。


 非常階段の扉を蹴り開け、踊り場へと踏み込んだ瞬間、階下から四人の男たちが現れた。艶消しの黒い装備に身を包んだ、組織の回収班だ。


「元SPの桐生か。乗客名簿にあった死に損ないが、余計な正義感で命を捨てるな」


 リーダー格の男が、暗視ゴーグルの奥から俺を射貫くように見据えた。銃口は正確に俺の左胸――託されたUSBメモリが収められた内ポケットを捉えている。


「あの女から受け取ったデータを渡せ。そうすれば、お前の命だけは助けてやってもいい」


 彼は階下に転がっている、先程まで暴れていた変異した兵士の死骸を一瞥し、吐き捨てるように言葉を継いだ。


「安定剤の投与という希望さえ与えておけば、出来損ない共でも死に物狂いで働くと思ったんだがな。所詮は使い捨てのサンプル、期待するだけ無駄らしい。まあ、我々の目的はあくまでUSBの回収のみ。上層部の悪趣味なお遊びの後始末には、全くイヤになる」


 男の言葉が、俺の脳の芯を熱く灼いた。


 死んでいった者たちの絶望。あの彼女が命を賭して守ろうとした真実。安定剤という餌で踊らされ、最後には出来損ないと切り捨てられた者たち。それを「お遊び」と切り捨て、仲間さえも嘲笑うその傲慢さ。


「……お遊び、だと?」


 俺の喉の奥から、自分でも驚くほど低く、地這うような怒りが漏れた。


「他人の人生を、命を……踏みにじって、お遊びで済ませるつもりか。お前らには、地獄ですら生温い」


「感情で動くから人間は非効率なのだ。交渉決裂だな。――壊すなよ、胸ポケット以外を狙え」


 リーダーの冷徹な命令と共に、銃声が階段室に反響した。


「伏せろッ!」


 俺は二人の背中を突き飛ばして踊り場の角へ避難させ、自身は手すりを越えて一段下の踊り場へと飛び降りた。空中でハンドガンを二射。先頭の男の肩を弾くが、奴らは即座に散開して俺を包囲する。


「う、うあああかっ!」


 階段の上で、逃げ場を失った新郎が、手近にあった消火器を階下へ向けて投げ落とした。不格好に回転しながら落ちてくる赤色の筒。俺はその軌跡を見逃さなかった。空中で銃口を固定し、トリガーを引く。


 銃弾が消火器のバルブを粉砕し、高圧の消火剤が一気に噴出した。階段室は一瞬にして白い粉煙に包まれ、敵の視界を完全に遮断する。


「……チッ、小細工を!」


 煙の中から強引に突っ込んできた一人に対し、俺は銃身を捨て、ナイフを抜き放った。視界ゼロの乱戦。敵の放ったナイフを受け流し、その勢いのまま相手の喉元へ刃を滑り込ませた。


「一人……!」


 俺は煙の中から二人のもとへ駆け寄り、その手を引いて上階へと走り出した。


 どこへ向かっているのかも分からず、ただ必死に俺に縋って走る二人の荒い呼吸が背後に迫る。


 仲間を失ってもなお、背後からは機械的に追跡を再開する軍靴の音が響いていた。


 彼らの狙いは、俺の命ではなく、この胸にある彼女の遺志だ。


 奪い返されてたまるか。たとえこの船が火の海に沈もうとも、これだけは、世界へ解き放ってやりたい。無残に散った彼女の最期の祈りを成就させてやりたい。


 非常階段を駆け上がった先、ブリッジへと続く展望プロムナードは、かつての華やかさが嘘のような死の静寂に包まれていた。


 浸水による船体の傾斜はさらに増し、豪華なクリスタルの壁が自重に耐えかねて悲鳴を上げている。足元には、避難しきれなかった乗客たちの無惨な遺留品が散乱し、天井から漏れ出した海水が、高価な絨毯をじくじくと汚していた。


 背後で新郎が、意識が遠のきかける新婦を必死に支えながら、震える息を吐き出している。


 俺は彼らの名前を尋ねることはしなかった。名前を知り、彼らを一人の人間として深く認識してしまえば、俺の中に眠る何かが揺らぐのを分かっていたからだ。彼らにとって、俺の背中だけが唯一の道標であり、それ以外はすべて死に直結する闇だ。


 突然、前方の影から三人の男たちが現れた。回収チームの別働隊だ。


「逃がすな。データの回収を最優先せよ」


 通信機越しのような無機質な声が響く。奴らは着地と同時に、無駄のない動作でサブマシンガンを掃射した。


 跳ね返る弾丸が、高級な装飾品を粉々に砕き散らす。俺は大理石の柱の陰に二人を力任せに押し込み、自身は床を滑るようにして応戦した。


 一発は敵の防弾ヘルメットを弾き、視界を奪う。その隙に距離を詰める。滑りやすい床の上で、俺は長年の実戦で叩き込まれた技術を全開にした。


「死ねッ!」


 ナイフを突き出してきた男の手首を掴み、その関節を逆に折り曲げる。絶叫が上がる前に、男の顎を下から掌底で突き上げ、脳を揺らして沈めた。


 残る二人が銃口を向け直す。だが、そこへ予期せぬ衝撃が走った。


「うおおおおおおっ!」


 新郎が、床に転がっていた重厚な真鍮製の置物を抱え、捨て身の体当たりで敵の一人に突っ込んだのだ。


「くるな……くるなあああ!」


 無謀な一撃。だが、その執念がプロの動きを一瞬だけ停滞させた。俺はその隙を逃さず、残弾すべてを最後の男の胸部に叩き込んだ。


 静寂が戻る。荒い息をつき、恐怖で目を見開いたままの新郎を尻目に、俺は周囲を警戒した。


 耳の奥に押し込んだ極小のインカムがノイズを拾う。事件が起き、後藤と最初の通信を終えた直後、迷いなく装着したものだ。その向こうから響く友の切迫した声が、俺の意識を戦場へと引き戻した。


『……桐生! 間に合わねえぞ。システムの向こう側に誰かやばい奴がいやがる! どこのどいつか知らねえが、最終ロックをかけようとしてやがるんだ。そうなれば外部からの介入は一切不可能だ。物理的にUSBを直接ブリッジのメインスロットに叩き込まねえ限り、データの拡散はできねえ。残り時間は……長くて五分だ!』


「……十分だ。すぐに行く」


 俺は二人の腕を掴み、強引に立たせた。彼らは俺がどこを目指しているのか、この先で何が待ち受けているのかも知らされていない。ただ、俺の冷徹な背中だけを信じて、死に物狂いで付いてくる。


 突き当たりのエレベーターホールは既に崩落し、火柱が吹き上がっていた。俺たちは非常用の外タラップをよじ登り、嵐の吹き荒れる外部デッキへと躍り出た。


 叩きつける雨が体温を奪い、荒れ狂う波が船体を揺らす。足元が大きく傾く中、視界の先、要塞のようにそびえ立つブリッジの影が見えた。


 あそこが、俺たちの、そしてこの隠蔽された歴史の終着点だ。 重厚な耐火扉を蹴破り、中へ飛び込む。


 そこは船の脳核――ブリッジだった。赤く点滅する警告灯が、血のような色で室内を染めている。正面の巨大な窓の向こうには、嵐の夜の海が広がっていた。


 コンソールの中央には、あの回収チームのリーダーらしき人物が、平然と通信機を手に立っていた。後藤がインカム越しに警告していた「やばい奴」の正体が、目の前のこの男であることを確信する。


「……五分だ。予定よりわずかに早いが、誤差の範囲だな」


 男は俺の銃口を気にする様子もなく、背後のモニターを指し示した。そこには、赤く点滅する不吉な文字列が浮かんでいた。


『船体自爆シーケンス:スタンバイ』


 俺は思わず息を呑み、画面と男を交互に睨みつけた。


「……自爆だと? 正気か。この船にはまだ数千の人間が残っているんだぞ! 何を考えていやがる!」


 俺の怒声に、リーダーは表情ひとつ変えず、冷酷な言葉を返した。


「驚くことか? 最初に侵入させた非適応者共は、我々が主要区画へ爆薬を設置するための単なる露払いに過ぎん。奴らは素体を探し当てる間もなく、無様に全滅した。上層部の真の目的は、この極限状態の中で生き残る真の適応者を見つけ出すことにあった。だが、奴らは予想通りタイムオーバーだ。余興なのさ、すべては。奴らを侵入させた時点で、この船の崩壊は決定事項だったのだからな」


 リーダーは冷笑を浮かべ、さらに言葉を重ねる。


「この船にいた数千の命は、データの信憑性を高めるための試薬に過ぎない。証拠ごとすべてを無に帰す。それがこのミッションの真の終着点だ。お前らが守ろうとしているその二人も、あの荒れ狂う海へ消えた女も、すべては新時代の秩序を築くためのただの消耗品だ。今頃は冷たい海の藻屑、ただのゴミと変わらん」


 リーダーの言葉が、俺の奥底で紅蓮に煮えたぎったマグマのような殺意に変わった。


 命を試薬と呼び、あの女の覚悟を海の藻屑と切り捨てるその傲慢さ。背後で震えている二人の存在さえも、奴にとっては数式の一部に過ぎないのだ。


「……無駄かどうかは、俺が決める」


 俺の喉の奥から、自分でも驚くほど冷徹で、鋭利な声が漏れた。右手に握ったタクティカルナイフのグリップを、指が千切れるほどの力で握り締める。


「お前らがどんな秩序を夢見ていようと、俺には関係ない。だが、踏みにじられた命の重みだけは……無残に散って逝った人々のためにも、ここで決着を付けてやる」


「……死に急ぐか。いいだろう、データごと地獄へ埋めてやる」


 リーダーが顎で合図を送ると同時に、左右の影から三人の部下たちが一斉に飛び出してきた。


「四肢を砕け。息の根を止めるのはその後だ」


 無慈悲な銃弾が狭いブリッジ内に反響する。俺は二人を通信機室の遮蔽物へ突き飛ばすと、自身は中央の羅針盤を盾に滑り込んだ。


「後藤、回線を開けろ! 物理回線に強制接続する!」


『やってる! だが、さっきのやばい奴が張ったファイアウォールが硬すぎる……! まるで俺の動きを先読みしてやがるみたいだ! 桐生、メインコンピューターに直接USBを差し込んで、システムの制御権をこっちに無理やり引っぺがしてくれ! 頼む、それしかねえ!』


 俺は嵐のような銃火の中へ、あえて自ら身を投じた。


 一人がサブマシンガンを掃射しながら距離を詰めてくる。俺はカウンター気味に一発を男の膝に叩き込み、姿勢を崩したところへ肉薄した。背後から迫る二人目の銃撃が、俺の左肩を抉る。


 熱い。だが、止まれない。


 膝をついた一人目を肉壁にして二人目の射線を遮り、その隙に三人の真ん中へと突っ込んだ。


「邪魔だッ!」


 ナイフを逆手に取り、一人目の喉元を切り裂き、返す刀で二人目の手首を叩き切る。激痛に怯んだ三人目の顔面に、俺は空になったハンドガンを力任せに叩きつけた。


 視界が血の飛沫で赤く染まる。床に倒れ伏す部下たちの呻き声を踏みつけ、俺はついに、コンソールの前に立つリーダーと正対した。


 リーダーは眉ひとつ動かさず、自身のジャケットを脱ぎ捨ててナイフを抜いた。


「……そこまでして、死にたいか」


「……お前を地獄へ叩き落とすまでは、死ねないんでな」


 リーダーの突きが、俺の頬を薄く切り裂く。正確無比な動き。俺の脇腹、太もも、逃げ場を奪うように鋭い刃が肉を削っていく。


 だが、痛みを感じる暇はなかった。脳裏には、あの廊下で託された、あの指先の凍えるような冷たさが焼き付いている。名も知らぬ俺に、すべてを託したあの覚悟を、忘れることなどできない。


「うおおおおお!」


 俺は防御を捨て、全身の体重を乗せたタックルでリーダーの懐へ飛び込んだ。


 もつれ合いながら、俺たちはコンソールの上で殴り合った。肉が裂け、骨が軋む感触が拳を通じて伝わってくる。


「……正義漢の……死に損ないが……!」


 リーダーが俺の左腕を深く切り裂いた。だが、俺はその痛みを利用して、溢れ出る血で滑る奴の手首を強引に固定し、空いた右拳に全霊の怒りを込め、その歪んだ冷笑が張り付いた顔面へ叩き込んだ。


 沈黙。


 鼻梁が砕ける鈍い音と共に、リーダーの身体が後方へと崩れ落ちた。


 床に転がった奴を足蹴にして退け、俺は震える指先で、メインスロットへUSBを叩き込んだ。


「……後藤、今だ!」


『了解……プログラム、強制書き換え!……全世界、配信開始ィッ!』


 モニターの進捗バーが、猛烈な勢いで伸びていく。


 十パーセント、五十パーセント、九十パーセント……。


 その瞬間、船底から巨大な衝撃が突き上げた。自爆装置の第一段階が作動したらしい。ブリッジの窓ガラスが衝撃波で粉々に砕け、嵐の暴風雨が室内に吹き込んできた。


【データ送信完了】


 モニターに、白く輝く文字が浮かび上がった。


 成就した。


 無残に散った彼女の、最期の祈りが。


「脱出するぞ!」


 俺は二人の手を引き、爆炎が迫る通路を駆け抜けた。外部デッキに出ると、一艘の救助艇が吊るされている。二人を中に押し込み、自身も飛び乗ると、レバーを力任せに引いた。


 救助艇が海面へ落下するのと同時に、船は巨大な火柱を上げて夜の海へと没していった。


 波の音だけが響いていた。


 先ほどまで脳を刺していたあの金属的な耳鳴りは、今は落ち着いている。だが、それは消えたわけではない。これまでの激戦で負った後遺症は、これからも静寂が訪れるたびに、鋭い残響となって俺の脳を揺さぶり続けるだろう。それが、あの悪夢のような一夜が現実であったことを証明する、終身の刻印となった。


 救助艇の隅では、真が地獄の底から引き揚げた新郎と新婦が、互いの体温を確かめ合うように身を寄せ合って眠っている。組織が適応者という幻想を追い求め、無関係な人々を余興のように殺戮する中で、この二人だけは、俺が繋いだ希望の細い糸を離さなかった。


 余談だが、沈みゆく船が消えた海面では、救いきれなかった数千の命が眠っている。後藤が手配した公的な救助隊によって、わずかな生存者が発見されたという無線を最後に通信は途絶えた。静まり返った海面に浮かぶ瓦礫の山が、払われた犠牲のあまりの大きさを物語っていた。


血と海水に濡れた身体を船べりに預け、最後の一本の煙草を口にくわえた。火は点かないが、それでよかった。


「やり遂げたよ」


爆発の衝撃で各所にガタがきている救助艇だったが、無理やり叩き起こしたエンジンは、不格好な唸り声を上げながらも力強くスクリューを回している。


 数多の犠牲を背負い、繋ぎ止めたこの二人の明日を運んで、俺達の乗る船は新しい光が差し込む陸地へと静かに舵を切った。


 同じ頃。その現場から数キロ離れた、人気のない入り江。


 一人の女性が、波打ち際に立っていた。


 彼女の腕には、かつて銃弾がかすめた跡が、薄い傷跡となって残っている。


 彼女は水平線の彼方に昇る朝日を見つめていた。


 彼女の名前は、最後まで真に明かされることはなかった。彼女は組織の実験によって生み出された適合者の一人であり、同時に組織を壊滅させるために動いていた反逆者でもあった。


 彼女が、あの日、パニックの中で真を選んだのは、単なる偶然ではなく必然だった。


 彼女は旅客船のデータベースを事前にハッキングし、乗客全員の身元を把握していた。その中で、組織の監視網から完全に外れている一般人でありながら、任務を遂行できるだけの潜在的な能力を持つ者を探していたのだ。


 元SP。過去の失敗により表舞台から消えた男、真。


 彼女は、彼の瞳の中に宿る死に場所を求めるような深い欠落を見抜いていた。自分と同じ、過去に縛られた人間。だからこそ、命を懸けてでも誰かのための使命を果たすはずだと。


「……ごめんなさい。あなたを利用させてもらったわ」


 彼女は風に吹かれながら、独り言を呟いた。


 彼女が彼にUSBを託したのは、打算だった。自身が囮となり、追っ手を引きつける間に、組織がマークしていない無害な一般人である彼にデータを持ち出させる。それが最も確実なリークの方法だと判断したのだ。


 彼女は胸元に手を当て、深く呼吸をした。


 組織の支配から解き放たれ、自分もまたレプリカではない一人の人間として、これからの人生を歩み始める。


 ふと、彼女は砂浜に落ちていた貝殻を拾い上げ、海へと投げ入れた。


 その軌跡は、あの日彼女が海へ飛び込んだ時と同じように、一瞬の銀光を放って水面に消えた。


 ――もう、誰の身代わりでもない。


 彼女は一度だけ救助艇が向かったであろう方角を振り返ると、濡れた髪をかき上げ、力強い足取りで歩き出した。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ