透明な迷子と、月明かりのシェルター
深夜、ひっそり現れる小さな食堂――水槽食堂。
壁一面の水槽には、あなたの心の色を映す魚たちが泳いでいます。
トラ猫のマスターがそっと差し出す一杯と、静かな光が、今日のあなたに寄り添います。
どうぞ、肩の力を抜いて、一皿だけ、心を休めてください。
塾の帰り道、わざと遠回りをして歩いていました。
深夜零時過ぎ。制服のブレザーが夜風に冷やされて、少しだけ重たく感じます。
今日は、学校のみんなとカラオケに行きました。
楽しかったんです。本当に。お腹がよじれるくらい笑ったし、話題にもついていけたし、写真もいっぱい撮った。
でも、ふとした瞬間――みんなが盛り上がっている曲の合間や、トイレの鏡で自分の顔を見た瞬間に、急に足元が冷たくなるような感覚に襲われたのです。
(私、ここにいていいのかな)
(みんなといるのに、どうしてこんなに遠くに感じるんだろう)
その感覚を引きずったまま、私は路地裏の『水槽』というお店に迷い込みました。
カランコロン。
お店の中は、深い海の底のような静けさに満ちていました。
「にゃあ(いらっしゃい)」
トラ猫のマスターが、琥珀色の瞳で私を見つめ、無言でカウンターの席を勧めてくれました。
私は重たいスクールバッグを置き、ため息をつきながら壁一面に広がる水槽を見上げました。
「……変な魚」
私の目の前を、一匹の奇妙な魚が泳いでいました。
その魚は、体全体が透き通っていて、輪郭がぼやけています。
そして、周りにはカラフルで騒がしいネオンカラーの魚たちが群れをなして泳いでいます。
透明な魚は、ネオンの魚たちに近づこうと必死にヒレを動かします。
近づくと、その魚の体は相手の色――赤や黄色に染まります。でも、無理をしているのか、動きがぎこちなく、苦しそうにパクパクと口を開けています。
かといって、群れから離れてポツンと一人になると、今度は自分の色が消えてしまいそうで、不安そうに震えているのです。
『あれは、カメレオン・フィッシュだね』
マスターの声が、頭の中に響きました。
『周りに合わせすぎて、自分の色がわからなくなってしまった魚だ』
「……私だ」
私は唇を噛みました。
一人でいる時は、静かで楽だけど、「このままでいいのかな」という虚しさが襲ってくる。
誰かといる時は、楽しいけれど、相手の色に染まるのに必死で、息が詰まりそうになる。
「私、わがままなんです。寂しいのも嫌だけど、疲れるのも嫌で。みんなの中にいる時、ふっと感じる『置いてけぼり感』が、一人で部屋にいる時よりずっと辛くて……」
水槽の中の透明な魚は、群れの中で溺れているように見えました。
『わがままなんかじゃないよ。それは、感性が繊細なだけだ』
マスターは、湯気の立つ背の高いグラスを差し出してくれました。
『夜明けのグラデーション・ラテ』
下の方は深い群青色のバタフライピー・ティー、上の方は真っ白なフォームミルク。二つの層が、混ざりそうで混ざらない、綺麗な層を作っています。
『混ざらなくていいんだよ』
マスターは、水槽の隅にある、大きな岩の隙間を指差しました。
『見てごらん。あそこに、隠れ家がある』
透明な魚は、ネオン色の群れから離れ、その岩陰のシェルターに滑り込みました。
そこは狭くて暗い場所ですが、魚はそこでジッとしています。
すると、不思議なことが起こりました。
一人で岩陰に入ったその魚の体から、ポウッ……と、淡い月明かりのような光が灯り始めたのです。
誰の色でもない、その魚自身の、静かで優しい乳白色の光です。
『一人は充電の時間。誰かといるのは放電の時間』
マスターは優しく語りかけます。
『君は今、放電しきってしまったんだね。誰かと一緒にいて寂しくなるのは、君の心の電池が「もう充電が必要だよ」と合図を出しているからだ。そんな時は、無理に笑わなくていい。心のシェルターに潜り込んで、自分の光を取り戻す時間なんだよ』
私はラテを一口飲みました。
ハーブの香りとミルクの甘みが、冷え切った体に染み渡ります。
混ざり合わない二つの層が、口の中で初めて溶け合って、優しい味になりました。
水槽の中で、月色に光る魚は、とても穏やかに見えました。
群れを遠くから眺めながら、自分の光で周りを照らしています。
(そっか。離れても、消えてしまうわけじゃないんだ)
一人になって、自分の色を取り戻す。
そうしてまた元気が溜まったら、あのカラフルな群れの中へ遊びに行けばいい。
行ったり来たりで、いいんだ。
「……今日は、もう帰って寝ます」
飲み干したグラスを置くと、体から余計な力が抜けていました。
矛盾していてもいい。それが今の私なんだと、すとんと胸に落ちた気がします。
「ニャア(またおいで)」
マスターに見送られ、店を出ました。
深夜の空気はまだ冷たいけれど、見上げた月は、あの魚と同じように優しく輝いていました。
今日はもう、スマホの通知は見ないで眠ろう。
私だけのシェルターである布団に潜り込んで、私だけの色を取り戻すために。
ゆらゆら、コポポ。ゆらゆら、コポポ。
それでは、おやすみなさい。
よい夢を。
おやすみなさい。
明日も、あなたがあなたでいられますように。
イブ前日23日の夜21時、また開店予定です(予約投稿)。気に入って下さった方がいましたら、また来週ぜひご来店下さい




