監禁脱出大作戦~ぼくらは前期高齢少年団~
一
「えらいかわいい本持ってどないしたんや。孫のプレゼントか」
勝が絵本を抱えて入ってきたのを見て、二人は目を細めた。
同居している彼の娘が、先月出産した。以来、顔をあわせるごとに聞かされる孫自慢に、当初はいっしょに喜んでいた八郎と吉造も、いまや辟易状態。だが、初孫のことでもあり、仕方がないと聞いてやっている。
一方、勝の方は、相手の迷惑顔もまったくお構いなし。今日も駅前の本屋で絵本を買い込み、喫茶ベルサイユでの前期高齢少年団定例集会へとやってきたところである。
「でも、ちょっと早すぎるんとちゃうか。まだ、目もはっきり見えへんやろに」
あきれ顔で八郎が言うと、吉造が反論した。
「いやいや、遅すぎるくらいや。おなかにいるときから母親が読んで聞かせると胎教にエエ」
「脳の発達にも役立つんやで」
なるほど、と八郎も納得した。とすると、こいつらは胎教の失敗作か、二人の顔をまじまじと見つめながら彼はそう考えた。
「で、どんな本? え、浦島太郎か。ちょっと古くさいなあ」
仲間の反応に、勝は口をとがらせた。
「何言うてるねん。日本人は日本の昔話を知らなあかん」
と、口から泡を飛ばした。
「パチモンやアンポンタンではわからん、わが国の伝統文化が学べるんや」
勝はいつになく、しまりのある顔を見せた。
「そうやな、いじめられている弱い者を助けるという、日本人の美徳が描かれてるからなあ」
という吉造の相づちに、勝は首を横に振った。
「違う、違う。ワシはそんなこと言わん。ほとんどの人間て、他人のことなんか考えてくれへん」
「そうか、最近人情が薄うなったから」
「何いうてるんや。人間なんて今も昔も変わらへん」
じゃあ何でやとばかり、二人は彼を見た。
「明治生まれの、八十九で死んだ婆さんがよう言うとった。ものは言うまい、もの言うたために父は長柄の人柱いうてな」
これも彼の口癖だ。超難工事の長柄橋に、犠牲の人柱を立てれば成功すると進言したのがあだとなり、結局、自分が橋の下に埋められてしまったという男の話である。物言えば唇寒し、要は、すべての面にでしゃばるなといいたいのだ。
「八十九歳で死んだばあさんが」
とまた同じ前置きをして、解説を加えた。
「泥棒が入って来ても、ドロボーとか人殺しとか叫んだらあかん、て教えてくれた」
「なんでや。黙っとったら、物とられた揚げ句殺されるかもしれへんやんか」
理屈の合わぬことをいう勝に、吉造は反論した。
「泥棒とか、人殺しとか大声を上げて近所に聞こえたら、みんな電気をパッパッパッと消してしまう。怖いからみんな知らんふりしよる。明治の昔でも、そう言うたんや。最近は人情が薄れたいうのはウソや。昔からひとは不人情なもんや」
いわれれば、そうかもしれない。ナイフや包丁を持った犯人がいるのをわかっていて、助けに飛び込んで来てくれる正義感ある隣人はそう多くないだろう。
「今やったら、110番してくれるんとちがうか」
という問いにも、
「警察が飛んできても、後の祭りや。なんぼ犯人捕まえてくれて死刑になっても、金が返ってこなんだり、自分が殺されてしもうたら、それまで。屁のつっぱりにもならへん」
彼はしれっと答えた。
「ほな、どないするねん。やられっぱなしになるのか」
勝は、にやりと笑った。
「そこがわが国の伝統文化、昔の人はエエ知恵を授けてくれはるんや」
「何や?」
「火事やーっ、て叫ぶねん。みんなあわてて飛び出してくるワ、自分の家が燃えたらいややから。それ見たら、泥棒も人殺しも逃げていくという算段や」
「ふーん」
八郎らは顔を見合わせ、納得したようなしないような中途半端な表情をした。
二
「ヘタに情けをかけて亀を助けたお返しが、白髪のじぃじ変身箱や。たった三年でクソジジイ。ちょっとエエ目しただけで人生終わるなんて、全然計算あわんがな」
勝は、話を元に戻した。
太郎が竜宮城にいたのが三年。二十四、五歳だったとしたら、村に戻ってきたのが普通なら二十七、八歳のはず。それが地上では七百年もたってたんや、と打ち明けられても、そらないでぇ、そんなんやったら先に教えといてくれんかいな、と叫ぶのが人情だろう。
開けていかんもんやったら、くれんでもエエ。それが、命を助けてもろうたお礼かぁ、亀の恩知らず!といいたい。
「で、浦島太郎は何を教えてくれるねん?」
吉造は聞いた。
「深ーい教えがあるんや」
勝は、神妙な顔で答えた。
「若いうち働かんと遊んでばかりおったら、年いって苦労するでという教訓や。タイやヒラメばっかり相手にして浮かれてたらあかん、もっと働けというお伽草子のありがたーい、お教えですワ」
こう言って、うんうんとばかり彼は自身でうなずいた。
「最近は働かんとぶらぶら遊んでばかりいるやつがいっぱいおる。スネをかじった揚げ句、親の死んだんを隠して、年金をもろうてるてな、不埒なヤツまで出てくる始末や。なげかわしい」
と、彼は目にハンカチを当てた。最近逆まつ毛が多くなってすぐクシャつくらしい。
「日本人は働かなあかん。昼寝しとったら、上からヤシの実が落ちてくるような国とはわけが違う。狭い国土を、朝は朝星夜は夜星、せっせせっせと田を耕やさんと食うていけんのがわしらの国や。いま食うてられるのは、よその国の農家の人が汗水たらして働いてくれてはるからや」
と、トーンを上げ、
「遊びは悪魔の誘い、労働は美徳や」
と、しめくくった。
「ほなら、過労死は何でや」
「高度成長期は、日本人は働きすぎ、もっと余暇を持て、て言うてたやないか」
「おまえは、何で働けへんのや」
「毎日テレビ見てるだけやないか」
二人の反論に、勝はたじたじとしながらも、
「年寄りはエエんや。若いもんは働かなあかん」
と、うそぶいた。
彼だって、つい最近定年になったばかりである。まだまだ仕事ができないわけでもない。話が違うではないか。
人間とは得手勝手のご都合主義。相手の苦労などは見てみぬふり、ひとは不人情なものだという見本である。
八郎はもう付き合うてられんと、話を切り替えた。
「ところで、福富長者という話を知ってるか」
二人は、彼の方を振り向いた。
「どんな話や。やっぱりおとぎ話か?」
「そうや。浦島太郎や一寸法師なんかより、こっちの方がめちゃくちゃおもろい」
吉造らには、初めて聞く話だった。
「むかし昔、あるところに福富の長者というのが住んでおった」
と、八郎は語り始めた。
知る人ぞ知る、というほどのこともない、いわゆるスカトロ話である。
エレガントでセンスのある、わが前期高齢少年団の読者のお耳を少々汚すことになるが、しばらくご辛抱ねがいたい。
あるところに曲屁の達人がいた。つまり、おならでいろんな音や曲を吹き分ける芸である。これを、富貴なお屋敷で披露し、財産をこしらえた。
その隣に貧乏な老夫婦が住んでいた。自分たちもおこぼれにあずかろうと、亭主が長者宅に向かい、教えを請う。そして、曲屁ができるという丸薬を二つもらってくる。
さて、芸をみせるべくこの男、殿様のお屋敷に向かうのだが、途中にわかの腹痛にみまわれる。ここで漏らしては一銭にもならぬと、出口に栓をして我慢するも、邸内に通されたとたん大爆発、あたり一面を汚してしまう。おかげで、さんざん打ちつけられ、血まみれで逃げ帰ってくる。
「それが、けっさくなことに、遠くの方から亭主の帰って来るのを見た女房は、芸のごほうびに真っ赤な衣装と黄色い袴をたまわったものと勘違いしよったんや」
三人は、どっと大笑い。
「エェべべ(着物)をいただいたと早とちりした女房は、それまで着ていた亭主のボロ衣を焼き捨ててしもうて……」
腹を抱えた彼らは、目に涙を浮かべてカウンターをたたき、足を踏み鳴らしての騒ぎよう。
だが、カウンター端のママは、酒呑童子の鬼のような顔つきに変わっていた。
「あかん、客がだれもおらんようになってる」
気づいた八郎は、二人の陰に隠れるようにしてママをのぞき見た。
「あまり汚すぎて、みんな往んでしもうたんや」
「またママに怒られるがな」
吉造、勝も、首をすくめた。
三
「来た、来た、雷が落ちるで」
上目づかいで、近寄ってくるママを見ながら勝は小声でつぶやいた。
「あんたら、客逃がした責任どう取るんや」
ドスのきいた声とともに、ママの顔がアップで迫ってきた。
あかん、この顔だけはやめてほしい、心臓に悪い。はアバター並み3Dのド迫力にうちふるえた。
「せ、責任て、わしら金持ってへんし……」
「お金がなかったら、体で払うてもらおか」
「ええっ、身を売るんか」
「あほか、そんなじいさん、だれが買うか」
「ほんなら、炭坑かタコ部屋へでも行くん?」
「肉体労働できるような年やないやろ」
「ほな、どうするねん」
「ひとつ頼みを聞いてほしいねん」
ママの調子がコロッと変わったのを聞いて、首をすくめ視線を避けていたあとの二人が顔を上げた。
「何や、怒ってたんとちがうんか」
吉造が、恐る恐る口を開いた。
「汚い話が始まる前に、客はみんな帰ったわ。いてるうちに、あんなに騒いだらそのとき怒鳴り上げてるがな」
なるほど、と三人は丸まっていた体を起こし、ほっと安堵のため息をついた。
「体で、て?」
八郎がいぶかしげに聞いた。
「また、働いてほしいねん。でも、こんどは、ちょっとやっかいやで。身の危険があるかもしれんから」
また大げさに、と彼らはママの言葉を心の中であざわらった。だが、それは大きな間違いだった。現実に彼らの身に降りかかったのは、これまで味わったことのない恐怖だったのである。
四
ママの話は、こうだった。
彼女はいま、持ち家のマンションを大規模改修中である。
最後まで残っていた末娘が、先般結婚し家を出て行った。残るは、自分たち夫婦のみ。では、もう改修の必要ないのではないかといわれそうだが、そうでもない。
年をとればとるほど、お互いいろんな面で行き違いが生じてきた。細かいことだが、テレビ番組の好みにしてもそうだ。ママは、健康番組やバラエティーが好み。亭主の正男は野球や時代劇である。
ン人がガン首だけ数を並べた――芸人といいたいところだが、芸がないので、ン人と彼は呼んでいる――バラエティーなど、何の面白みもない。
健康番組も、脳梗塞、悪性腫瘍、心不全、肺炎、肝硬変、糖尿病と同じ病気を、手を変え品を変え、テレビ局を変え、垂れ流しているのを、飽きもせず何度も眺めている。
予防や万一のためなら、一度か二度見たら十分で、ちゃんと実行すればいい。違う医者が出てきても、しゃべることはだいたい似たようなものだ。
胃潰瘍の人間に、アルコール消毒がいいからと、ウオツカと焼酎をカクテルにして、朝昼晩と食前食後服用しろという医者はまずいない。よくあれほど同じような番組を見ていて、気分が悪くならないものだと感心する。
女の方からにしても同じで、わずか六チームしかない中でリーグ優勝だと騒いでいる亭主の気が知れぬ。日本刀を振り回しまくるのなら、草刈りでもしてもらったほうが、よほど役に立つ。
「ビデオがついてるで」と言うママに、「録画してるねん」と亭主が答えると、「何を録ってるんや」と、相手はたたみかける。
何を録画していてもエエやろ、ワシが見るのにと思うが、夫婦の間にあえて波風を立てることもない。「何々や」と返事すると、しまいには「何で、録ってるんや?」とくる。
ほっといてくれ!ビデオを録って、ほかに何するんや、ころもでも付けて、てんぷらに揚げるんか、見る以外どうするねん、と怒鳴りたいのだが、ぐっと我慢して、正男は散歩に出る。狭い家の中で険悪なムードをつくりたくないのだ。
ことほど左様に、お互い相性が悪くなってきた。
そこで、部屋を改造して二人それぞれ別の寝室でやすむことにした。なるべく不必要な接触は避け、残り少ない人生をいさかいなきよう、平穏に生きようという狙いである。
ところが、改修中に住む適当なところがない。喫茶や、亭主の仕事であまり離れたところは困る。結局、短期間でもあり、古い木賃アパートを借りることにした。
そのアパートでトラブルが起こった。
五
戦後間もなくに建てられた木造アパートは、さすがに傷みがひどく、仮の住まいとはいえママもあまり転居に乗り気でなかった。
あちこち探し回ったが、結局、他にいいところがないので、仕方なく移った。 部屋は二間。手前が四畳半、奥が板の間の台所になっている。
亭主は、数週間とはいえ、このような狭いところで相部屋はごめんと、友人宅に居候を決め込んだ。だから、アパートは一人暮らしである。
引っ越して間もなくの夜、トイレに立った彼女は、床の上、台所の柱と壁のすき間から明るい光のもれているのに気づいた。ふだん家の中に見られるより強い照明が使われているようだった。
隣の住人が夜なべ仕事でもしているのかと、そのときは思ったが、翌日も、その翌日も同じ。ある日、たまたますき間をのぞいてみると、昼過ぎだというのに電気がついているように見えた。
隣室は、一日中ほとんど人の気配を感じない。なのに、なぜ明かりをつけているのか。何となく気になって、すき間をほじくり、穴を大きくしてみた。確かに明るいうちも電気がついている。
だいたいこのアパートは、周りが建物で取り囲まれ、日当たりが悪い。だから、室内は昼間でも照明が欠かせないが、これほど強い明かりが必要とは思えない。
指を突っ込んで穴をいじくっているうち、左指にはめられていた指輪の真珠がポロッと外れた。あわててつかまえようと伸ばした手は一瞬遅く、玉はコロコロと穴に吸い込まれていった。
すぐさま隣部屋へ向かい、扉をたたいた。たまたま住人らしき男がいた。
目つきの悪い人物で、うさんくさそうにママを見たが、話を十分に聞くわけでもなく、そんなものは知らんと、けんもほろろ。戸をぴしゃりと閉めてしまい、取りつく島もなかったという。
その指輪は、亭主の母親から贈られたもので、かなり古く、台の金属がいたんでいた。近いうち修理に出そうと思っていた矢先だっただけに、紛失がよけい悔やまれた。
玉自体いいもののうえ、義母の形見分けともいえる思い出の品で、あきらめがつかない。
男の対応からして、その後さがしてくれている可能性もなさそうだ。留守のあいだ勝手に隣部屋へ忍び込むわけにもいかず、弱っているというのが、ママの話だった。
「絶対、まだ隣の台所の隅っこに転がっているはずや。黒真珠で目につきにくいから」
ママは、いかにも残念そうな表情でため息をついた。物欲金欲の強い性格から、その口惜しさは相当のものと見てとれた。
「あいつら、絶対何かやっとるんよ、うしろめたいことを。中を捜させてくれと、なんぼ頼んでも入れてくれへんし、最後は脅すようにして表へ突き出されてん」
ここまで聞いて、彼らも事態の尋常ならぬものを感じた。
アパート、密室、照明、うさんくさい人物というキーワードから、八郎はピンときた。もしかすると――。
「あの男、どうも素人やないみたい。ヘタしたら、ヤバいことになるかもしれんけど、どうやろか」
体で払えという、冗談半分の言葉の意味が現実味をおびてきて、三人は緊張を覚えた。
六
「ひょっとしたら、アレをやっとるんちゃうか」
喫茶ヴェルサイユからの帰り道、八郎はつぶやいた。
「あれて、何や」
勝の問いに八郎は
「ちょっと耳を貸せ」
と促し、三人は頭を寄せ合った。
大の男三人があたりをうかがい、道端に頭を寄せ合いヒソヒソ話をしている図は、不審グループそのもの、警官が通れば職務質問疑いなしである。
「えっ、いま流行りの、あの」
「そうか、部屋の中で電気つけてというたら、そうやろなあ」
他の二人はうなずいた。
「いずれにしても、現地を見て来んとあかん。あしたでも、ママさんとアパートへ行ってくるワ」
これから立ち向かう作戦の難しさに、リーダーは唇を結んだ。
七
「こっち側の隣か、そのケッタイな部屋は」
「そうやねん。その柱の下にある穴から真珠が入ってしもうたん」
部屋を下見に出かけた八郎に、ママは壁との間の小さなすき間を指し示した。
確かに、今日も隣室から光がもれてきている。こちらの部屋は電灯を消し、カーテンを閉め切っているのでよくわかる。
八郎は、壁に耳を当ててみた。しーんとしていて、物音ひとつしない。
「ウーン、ほんまにおかしいなあ。昼寝でもしてるんかわからんけど、まったく人の気配がせん」
「そうやろ。晩もこんな状態なんや。ときどき男二人が入っていくのを見ることがあるけど、すぐおらんようになりよる。そのくせ部屋の電気だけはついてるんよ」
ママは小声でささやいた。
「隣も同じ間取りか?」
壁ぎわを離れた八郎は、もう一度部屋の中を見回した。
玄関の引き戸を入ると、半畳ほどの靴脱ぎ場がある。その横が押入れと、典型的な木賃アパートの造りになっている。
ただ、二間つづきの、入り口でなく奥が板の間の台所というのが、ちょっと珍しい。
建築当初、外へ張り出した格好で流しが取り付けられていたのを改造し、そのままDKにしたらしい。
シンクの横にガスコンロ、前壁に換気扇がついている。真上にガス検知器が見えた。
「おっ、ガス漏れ警報器か。最近は、こんなボロアパートでも安全管理はしっかりしてるんやなあ」
緑色のパイロットランプを見つめていた八郎は、なぜかひとつ大きくうなずいた。
八
次の日、三人は作業着風のユニホームに身をつつみ、小道具を持ってアパートへやって来た。
八郎が使っている、電流などを測定する器具をバッグからのぞかせ、何か検査機器のように見せかけたものだ。
例の部屋へ着いた彼らは、戸をたたいた。その時間帯に男たちが在宅していることが多いとママから聞いていたのである。
戸車の音をきしらせて、サングラスの若い男が顔を出した。
「浪花ガスの検査員です。ガス警報器のチェックにまいりました」
八郎は、ていねいに身分と来訪の目的を説明した。
男は、あからさまにうっとうしそうな表情を見せた。
「そんなの、聞いてないぞ」
彼は戸を閉めようとした。
「一週間ほど前に、来させていただくことを書いた書類を入れておいたのですが、お読みいただいてなかったんですか」
体を半分差し込んで、八郎は食い下がった。
「知らん、いうたら知らんのや」
声を荒らげるのに気づいたもう一人の男が、奥の台所から姿を見せた。この方も、うさんくさい感じの男だが、少し年長のようだった。
だが、手前の部屋とのふすまを細く開けただけですり抜けて来、奥は見せようとはしない。
「ニイさん、うちはガスを使うてないんや。火の用心が物騒やさかいオール電化にしてるんや。そやから、検査はいらん」
二人目の男は、ドスの利いた声で答えた。
「いや、それでも、検査だけはして帰りませんと、会社から怒られますので、一応入らせていただいて」
男の目が、ギラリと光った。
「きょうは、忙しいんや。またにせぇ、な、わかったな」
有無を言わせず迫ってくる男に、三人はじりじりとあとずさった。その鼻先で戸はぴしゃりと大きな音を立て、閉められてしまった。
九
「あぁ、あかん。この顔つかれるワ」
兄貴分の男は三人が帰ったあと、いっぺんに顔をくずした。
「ワシ、童顔やさかい、ひと脅すのに一苦労や。何とか帰りよったか」
と、つくり顔を元に戻し、両手でほおをなで上げ下ろしした。
「一時はどないなるかと思いましたワ。上がって来られたら、相手は三人やし」
最初の男はサングラスをとると、これまた三流チンピラそのものだった。
「そやけど、楽やないなあ、金もうけは。オレオレ詐欺も最近取締りが厳しうなってもうからんからこれ始めたけど、手間ヒマかかるし」
「電気代もバカにならん」
「省エネのLEDに替えたのに」
男たちはぼやいた。
「そやけど、しゃあない。もう得意先には予約をとってあるし、もうちょっとがんばろ」
年長の男は、つぶやいた。
十
「うん、間違いないな。あれやで」
「ほんまや、明るう電気がついてるのが、ちらっと見えた」
「ときどき生長ぐあいを見に来よるんやな」
「そやけど、確認できんと警察に通報するわけにいかんで」
「なんとか、部屋をのぞく方法を考えんと」
男たちに気づかれぬよう、隣部屋に戻ってきた三人は、作戦会議の練り直しを始めた。
「おい、何しとるねん。きんぴらごぼうをつまみ食いしたらあかんがな。ひとのもんやのに」
「ママさんが、おかずに置いてるのを盗み食いしたら、あーあ、全部食うてまいよった。ほんまにいやしいやつやなぁ、お前は」
八郎と吉造が懸命に作戦を考えているというのに、勝はテーブルの上にあったお菜を一つ、また一つと口に。あっという間に一皿全部をぺろりと平らげてしまった。
だいたいこの男は、口がいやしい。口に入るものなら何でも吸い込んでしまう、広口の強力掃除機みたいな男である。
「しょうがない。あとでママに謝っとくワ。ところで、しりが痛いなあ。座布団ないか、おい、押入れ捜してくれ」
八郎は、勝に命令した。
「よっしゃ」
と、彼は立ち上がりふすまを開けた。
「あかんわ、ないで」
頭を突っ込んで捜している勝を見ていた八郎は、押入れの天井板が少しずれているのに気づいた。
「ん? ちょっと待ってみぃ」
八郎は立ち上がり、上段に上がると、天井板をめくり、頭を屋根裏に突っ込んだ。
安普請と見えて、屋根裏は素通しだった。隣の部屋だけ、天井板のすき間から光が漏れてくる。
「ここから行けるで」
彼は二人を手招きした。天井裏を伝って、隣部屋をのぞこうというのである。
十一
ドアに耳をつけ隣の動きをうかがっていたリーダーの八郎は、男たちが出て行く足音を確かめると、振り向いた。
「ワシと勝だけで行ってくるから、吉ちゃんは何かあったときのために、待機していてくれ。緊急のときは、呼ぶさかい」
八郎は部屋にあった懐中電灯を手に、吉造に指示した。
「OK、わかった。気ィつけてや。建物が古いよってに」
吉造が気づかった。
「よっしゃ、勝、行こ」
「うん」
小柄で身の軽い勝が、まず先に立った。
押入れの上段にあがった彼は、天井裏へよじ登った。続いた八郎は、彼のしりを押し上げた。
かび臭い天井裏は薄暗かった。くもの巣をはらいのけ、梁づたいの移動だけに、すぐ先の光のもれる部屋の上まで簡単に到達できない。
「そっち、そっちの屋根の垂木をつかんで、そうそう。足は右の梁にかけて……、あかん、あかん。左やない、右や」
後ろから指示をしながら、八郎は仲間のあとを追った。
「静かに行けよ。もしあいつら帰ってきよって、ばれたらヤバいよってに」
「うん、わかった」
低い天井裏の空間をはうようにして移動し、例の部屋の真上に達しかけたときだった。前をよく見ていなかった勝は、すぐ目の前の束柱にしたたか額を打ちつけた。
反動で彼の体は後ろへはじかれた。たまたま、後方にいた八郎が梁から次の梁へと移りかけていたのがわざわいした。 前進する八郎の頭と、勝のしりが思いきり衝突するというハプニングとなった。
賢明なる諸君には、次の事態がご想像いただけるだろう。
皿いっぱいのきんぴらごぼうを平らげた男の腹部では、ちょうどいい具合に発酵し、体外気化寸前の状態だった。そこへ非常事態が発生したのである。
危ない!っと、勝は下腹に力を入れた。途端、第一弾が八郎の鼻面めがけて発せられた。ショックで、彼はバランスを失い、片足が天井板を踏み抜いた。
ふだん沈着冷静なリーダーとはいえ、思いもかけぬ危機に出くわせば、あわてるのも無理はない。とっさに、仲間の足をつかんだ。このため、二人はもんどりうって台所の板の間へ落下した。
ばりばり、どしーん。
隣で待っていた吉造は、大音響に青ざめた。
十二
「あいたたたた、うーん」
「だははははは~」
二人は、いやというほど床に体を打ちつけ、しばらく声も出なかった。幸い大けがはなかったようだったが、八郎は足をくじいて立ち上がることができなかった。
「大丈夫か?」
天井にあいた穴から、吉造の心配げな顔がのぞいた。
「うん、何とか大丈夫やけど、八ちゃんの足が」
勝は腰をさすりさすり立ち上がったが、八郎は苦しげな表情で、ただうめくだけだった。
シンクを足場に下りてきた吉造は、リーダーの足を調べていて、
「これでは、歩けんなあ」
と、ため息をもらした。
しばらくして落ち着いた三人は、周囲を見回した。
予想通りである。プランターで植物が水耕栽培されていた。すらりと伸びた茎に、手のひら形の葉は周囲がノコギリ状になっている。独特の青臭さが鼻をついた。
大麻である。室内栽培をするため、照明をずっとつけているのだ。
「思うた通りやったな」
吉造が口を開いた。
「うん」
顔をしかめながら、八郎はうなずいた。
「そやから、ワシらを入れよらんかったんや」
勝の痛みは、大分治まったようだった。
「何や、やっぱりガスコンロがあるやないか。オール電化やてウソつきやがって」
「ちゃんと鍋も乗って」
「ほんまや、警報器もちゃんと動いてるし」
しばらくあたりを眺めていた彼らだったが、はっと我に返り、
「そうや、早う逃げんとあかん。やつらが帰ってきたら厄介やで」
と、吉造が促した。
「そや、そや」
三人はあわてて脱出にとりかかった。
流し台につかまり、立ち上がった勝は腰をさすりさすり戸口へ向かった。八郎は、吉造の肩を借りて一歩ずつ足を引きずりながらあとに続いた。
「あ、開かへん」
勝が大声を上げた。
「ええっ」
二人の顔がこわばった。
戸が動かないのである。内側の掛け金は外れている。なのに、ドアはびくともしない。
「そうや、この部屋、カギがつぶれてたんや」
八郎が叫んだ。
「古うなってカギが壊れたんで、南京錠をつけてるて、ママが話しとった。そやから、中からは開かんのや」
そのとき突然、ガチャガチャと外で錠を外す音がした。彼らの顔から血の気が引いた。
十三
「だれや、お前らぁ」
「どこから入ったんじゃ」
戸を開け、入ってきた男たちはがなり声を上げた。
引き揚げたと思った彼らは、スーパーの袋を提げているところをみると、食料の買い出しに行っていたらしい。
「おい、戸を閉めろ」
兄貴分の男が指示した。もう一人は、廊下をうかがったあと、ぴしゃりと扉を閉めた。
男たちは、三人をにらみつけながら、じりじりと詰め寄った。そして、奥の台所まで追い戻されると、座り込むよう命令された。
「お前ら、さっきガス会社の者やというて来たやつらやな。何のために忍び込んだんや」
「サツにしては間抜け面すぎるし、コソ泥か。そんな人の道を外れるようなことをしてエエんか」
自分たちのことを棚に上げ、彼らは口汚くののしった。
黙っている侵入者たちを見ると、男らは
「まあエエ。どっちにしても、このまま放すわけにはいかん。当分、ここで待っとけ」
と、虜にした男たちを荒々しく蹴飛ばした。哀れな彼らはうめき声を上げた。
二人組はロープを持ってくると、八郎らの手足をしばりつけ、口を粘着テープでふさいだ。
作業が終わると、手前の四畳半との間のふすまを、ぴしゃりと閉めた。
「どうしまんねん、あいつら」
「うーん、ちょっと考えてるんや」
「このまま放すわけには、いきまへんやろ」
「当たり前や。けど、三人いっぺんに処分するとなると、ちょっと厄介やからなあ」
三人は、恐怖で目を見開いた。のどがからからになり、あぶら汗がわきの下から流れるのが感じられた。勝は半泣きだった。
身の危険があるかもと言ったママの言葉が、このときになって思い出された。オーバーなと笑ったことが悔やまれる。あのとき断っておけば――、八郎は天をあおいだ。ガス警報器の緑色ランプが冷たく光った。
「とにかく、親分に相談しよ。それからや」
しばらく考え込んでいた男は、立ち上がった。
「おい、ちょっとあいつら見張っとけ。絶対逃がすなよ。事務所へ行ってくるから」
そう言い残し、兄貴分は出て行った。
十四
三人に真珠の捜索を頼んだものの、気になったママは早めに店をしまい、仮住まいのアパートへ帰った。
部屋は真っ暗だった。電気をつけ、靴脱ぎを見ると、彼らの履物が残っている。開きっ放しになった押入から、ずれた天井板が見えた。
段に上がって首を突っ込んだが、真っ暗で何も見えない。残った隣室の男が、あり合わせの板で間仕切りまで作り、彼らの落ちた穴を修復していた。
はだしで彼らが帰ったはずはない。念のため、八郎の自宅に連絡をとってみたが、昼過ぎに出かけたまま戻っていないという。
胸に黒い雲がわき上がってきた。隣部屋の問題で、何か事件に巻き込まれたのに違いない。
もはや一般市民の手に負える話ではない。もしかすると、三人の身そのものの危険さえも考えられる事態になったのである。こうなれば、警察の手を借りる以外方法はない。
以前、客同士のけんかで、きてもらったのがきっかけとなり、ときどき店に顔を出す警官がいる。彼に連絡を取った。
ちょうど当直で交番におり、すぐ駆けつけてきてくれた。
「でも、それだけで家宅捜索はでけへんなあ」
彼は、口をへの字にむすんだ。
うさんくさい男たちを調べていた人間が、数時間行方不明になっただけでは捜索に入れない。しっかりした証拠によって裁判所が出した令状がないと無理なのである。むやみやたらに踏み込んで、何もなければ人権問題でえらいことになる。
「そない言うたって、調べようがないもん。ほなら、どうしたらええん?」
ママは、顔に似合わぬ甘えた声で警官にすり寄った。
彼は、ぞくぞくっと、さぶいぼが立った。
さぶいぼとは、鳥肌のことである。寒疣と書く。関西では、鳥肌より恐怖感が強い場合に使われる。
「ま、まあ、ほかにも手はあるよってに」
と、おまわりさんは後ずさった。
近所に空き巣が多いので、各戸を巡回指導中だと言って訪問するのである。
「もし監禁してるのなら、見張りのだれかがいてるはずや」
「うん、ウチもそう思うて、壁に耳を当てて探ってみたら、なんとなく人の気配がするんや」
「そうやろ」
警官はうなずいたが、
「しかし」
と、ただし書きがついた。
「そんなやつらは、普通に呼んでみても、居留守を使いよる。絶対に出てきよらん」
なるほど、とママもうなずいた。
「そこでや。ちょっと、コショウないか?」
「あるけど、何するのん」
「それと、持ち帰り寿司なんかについてくる魚型のしょうゆ入れ、空いてるのがあったら欲しいんや」
奇妙な注文にママは戸惑いながらも、用意した。
「コショウのふたを外して、あ、そうそう。それをプラスチックの魚型につめてほしいんや。そう、それくらいでええワ。あんまり多過ぎても、トラブルの原因やし」
言われたとおり、コショウの詰まった醤油入れを差し出した。それを手に彼は廊下に出、隣室へ向かった。
十五
コンコン。警官は戸をたたいた。だが、開く気配はない。
耳をそばだて、彼は内部の様子をうかがった。物音はしないものの、確かに人の気配がする。
こんな場合、部屋の真ん中に突っ立って、考え込む人間はいない。だいたい玄関まで出てきて、戸に耳を近づけ、だれが呼んでいるかうかがうのが常である。
「警察です。おられますか」
声をかけてみた。
やはり返事がない。しかし、相手は板戸一枚へだてた至近距離で、息をひそめているはずである。
オンボロアパートの引き戸である。建て付けが悪いうえ、古くなって柱やかもいが傾き、あちこちすき間だらけになっている。
ころあいを見計らった警官は、手にしたコショウ入りのしょうゆ入れを戸の上部のすき間に差しこみ、ぐっと押さえた。
「ハックション!」
一呼吸おいて、大きなくしゃみが聞こえた。上から落ちてきたコショウが鼻に入ったようだ。計略成功である。
「あ、おられますね。ちょっとここを開けていただけませんか。お話があってまいりました」
中では、二人が小声でもめていた。
「あほ、大事なとこでくしゃみなんかしやがって。おるのがバレてしもうたやないか」
「そんなん言うても、なんでか急に鼻がむずがゆうなって。風邪ひいたんかなあ。でも、黙っとったら、帰りよりまへんか」
「ドあほ、おるのがわかってて出えへんかったら、怪しまれるやないか」
「あ、そうか」
「お前ひとりで何とか追っ払え。ワシは、奥の部屋であいつらが騒がんように見張ってるから」
一方は、偉そうに命令した。
「わかりました」
と、扉に向かいかけた弟分を、兄貴分が呼び戻した。
「ワシ、アレルギー性で大麻とか強いにおいに弱いから、早う追い返せよ。閉め切った部屋に長いことおられへんからなぁ。わかったな」
男は、念を押し、部屋の間を仕切るふすまを閉めた。
「へえ」
もう一人はうなずき、戸のかけがねを外した。
「ごくろうさまです。どんなご用でしょうか」
男は慇懃に頭を下げた。
警官はそれとなく室内をうかがいながら、あいさつを交わした。
「実は、最近空き巣や強盗が頻発しまして、防犯連絡のためまいりました。いやあ、昼間もうかがったのですが、留守にしておられるお宅が多く、まことに失礼ながら夜分遅くながらお訪ねしたしだいです」
話しながら、警官は防犯パンフレットを差し出した。
この陽気に、部屋を閉め切っているのがおかしい。それに、男がちらちらと奥の部屋を気にするのも、隠し物のある証拠である。
といって、まさか上がっていって中を改めるわけにはいかない。こうなれば、なんとか話を長引かせて、できるだけ相手から聞き出すほかはない。
「ついでといっては何ですが、ご家族は」
彼は、ゆっくりとカバンから調査票を取り出し、質問を始めた。
十六
三人は背中合わせで手首をつながれ、円形に座らされていた。
表の部屋のやりとりを耳にした八郎らはうめき声を上げようとしたが、男は出刃包丁を彼らの鼻先に突き付け、じっとにらみつけていた。みんな黙るよりほかなかった。
玄関先では、調査が続いている。
「お仕事は?」
「自由業です」
「自由業って?」
「あはは、毎日ぶらぶらしてまんねん」
「仕事しないで?」
「えぇ」
「それは、自由業じゃありません」
「ええっ、何もせずに自由にしてんのをいうのんと違うんでっか」
「それは無職というんですワ」
「英語で?」
「英語じゃありません、日本語ですよ」
「あ、さよか」
こいつちょっと頭がおかしいんとちゃうかと、警官は思ったが、ちょうどいい。時間稼ぎができるかもしれない、と喜んだ。
「ご家族は?」
「ご家族とは?」
家族もわからんのんかいな、いちいち説明したらんとあかん。難儀なやっちゃ。警官は、ため息をついた。
「ほら、身内、血のつながりのある」
「ああ、そうでっか。そしたら、北海道の網走に叔父がひとり」
「いやいや、そんな遠くの親戚と違います。いっしょに住んでる家族ですワ」
「三年前までは一緒に住んでましてん」
「いいや、昔の話はいりません。関係ありませんから」
「そんな、関係ないことおまへん。この叔父には、オヤジが盲腸になったとき、えらい世話になって」
「いや、あなたには大変な恩人でしょうが、調査には必要ないっていうことですので。つまり、いま一緒に住んでるのは?」
「ああ、そうだっか。それを早う言うてもろうたら、何も北海道の叔父まで出さんでもよかったのに。この根性悪」
「いや、別に根性が悪いわけではありませんけど。それで、だれと一緒に?」
「猫が一匹。いまちょっと外出してまっけど。メスでポリ子っていいまんねん。網走の施設に入れられた、いや入った叔父が名づけ親でんねんけど、あんまり伸ばして呼ばんようにて。ポ……」
普段ならこのやりとりに三人も噴き出すところだが、いまは命がかかっているので、笑うどころではない。
台所に閉じこもっている男の方も焦り出した。この様子では警官相手に、あいつが何を言い出すかわからない。
特に、彼はアレルギー体質である。先ほどから鼻がむずがゆく、目がくしゃくしゃするのを我慢していた。
一方、玄関の方も硬直状態となっていた。
まともな人間なら、いくらでも調査を長引かせることはできるが、質問の意味さえまともに理解できない相手では対処のしようがない。とうとう警官も黙り込んでしまい、引き揚げざるをえないような状況に追い込まれかけていた。
わずかな望みを託していた八郎らは、この様子にがっくりと肩を落とした。
十七
自分たちの運命は決まった。観念した八郎は天井を仰いだ。ガス警報器の緑色ランプがうるんだ。
とたん、その表情に輝きが戻った。唇をキッと結び、うなずいた彼はメンバーを振り向いた。そして、目で合図を送った。
うなだれていた二人は首を上げ、彼の視線を追った。天井の警報器を示しているが、それが何を意味するのか、すぐには理解できなかった。
次に、八郎はおじぎをするように頭を下げた。見張りの男は、落胆して頭を抱え込んだと思ったらしい。何も文句は言わなかった。
すると、八郎は何を思ったか、今度はしりを高く持ち上げた。仲間たちは、みけんにシワを寄せ、首をかしげた。何を言いたいのだろうか。
だが、リーダーの目の動きと、臀部をゆすりゆすり上げ下げするのを見て、その意図がやっとわかった。
にやりと笑みを取り戻した二人は、同じように頭を下げて臀部を高く持ち上げ、スタンバイした。
男にわからぬよう表の警官たちに合図を送る。となると、この方法しかない。
そう、音無しの構え放屁大作戦である。
一尺より一寸だけ短い屁というのがある。一尺とは十寸、尺貫法でいう三〇・三センチだ。
だから、クスン(九寸)である。この程度なら、音無しの構え生みの親、大菩薩峠の机竜之助でも許してくれるだろう。八郎の十八番である。
次の吉造は、もわもわ型。まったくの無音ではないのに、相手に放屁と気づかせないという究極の一発芸である。
最後の勝は、一番高度な技術を持っている。一気に大量のガスを放出できる。それだけに、少々危険を伴う。無音だが、最後にぷちぷちぷちと、畳の上を蚤がはぜているような音が、かすかに鳴る。
いよいよ作戦決行である。リーダーが合図を送った。
クスン。
団員たちが、これに続いた。
もわもわ、……ぷちぷち。
クスン、もわもわもわ、………ぷちぷちぷち。
クスン、もわもわもわもわ、…………ぷちぷちぷちぷちびちッ。
と、突然ピピピピピピー!と、けたたましい警報音が鳴り響いた。
彼らの発した大量のガスが徐々に上昇し、天井につけてあった警報器の反応を呼んだのである。
玄関を出かけていた警官も、弟分もびっくりした。あわてて、隣部屋からママもかけつけて来た。
アパートの住人らも首を出した。
「なんや、なんや」
「ガスが漏れてるんちゃうか」
「どこや、どこの部屋や」
口々につぶやきながら、みな男たちの部屋に寄ってきた。
と、そのとき、台所と四畳半を仕切っていたふすまが突然メリメリメリッと音を立て、倒れてきた。
植物の青臭いにおいと三人分の体内ガスが入り混じり、アレルギー体質の男が立ち上がったとたん、めまいを起こしたのが原因だった。
警官のほか、アパートの住人が集まって入り口に鈴なりになったところへ、ふすまごと倒れ込んできたものだから、大麻草の室内栽培も、三人の不法監禁も、衆人環視のもとにさらけだされてしまった。
表で待機していた警官も飛び込んで来て、アパート中が大騒動になった。
十八
部屋の隅から、ママの失くした黒真珠が見つかった。
ほっと一息、騒ぎのおさまった後、窓を開け換気扇を回していたママが首をかしげた。
「いつまでたっても、ニオイが取れへん。おかしいなあ」
古新聞でバタバタあおぎながら、空気の入れ替えをしていたママに、吉造は言いにくそうに答えた。
「あのなあ……、勝ががんばり過ぎたんや。どないかして、警報器を鳴らそうと、思いきりきばったんが悪かったみたいで」
当の勝は、しゃがみこんだままバツの悪そうな表情で上目遣いに皆を見ていた。
「こんなアパートに風呂場は、ないわなあ?」
困り果てた八郎が尋ねた。
「そんなもんあるかいな」
そう、答えたママだったが、
「あ、そうや。裏に井戸があるわ。まだ使えるで」
と、大声を上げた。
八郎と吉造は、大麻栽培犯人を逮捕してパトカーまで護送するさい使われた、ブルーシートのお余りでまわりを隠すようにして階段を下り、彼を井戸端へと連れて行った。
「ひわぁ~ははははぁ~」
しばらくして、夜空をつんざくような金切り声が、部屋を片付けるママの耳に響いてきた。
「気温はぬくうても、井戸水は冷たいからなあ」
勝の姿を想像して、彼女は首をすくめた。
(おわり)
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