第二章
翌朝、教室に入ると同時に、桐生祐斗はひんやりとした視線を感じた。それがどこから来ているのかを探るまでもなく、正面に座る涼宮紗耶の存在が答えだった。
「おはよう。」
祐斗が軽く声をかけると、紗耶は一瞬だけ視線を上げた。相変わらず感情を読ませない目だったが、小さく頷いて返事をした。
「おはよう。」
それだけの挨拶で、紗耶は再び視線を机上のノートに戻した。その姿はどこか冷たくもあり、他者を寄せ付けない壁のようだった。それでも祐斗は気にせず、自分の席に向かう。
今日のホームルームでは、昨日準備した資料を配布することになっていた。学級委員としての初めての役目に、多少なりとも緊張感があったが、祐斗はそれを表に出さなかった。
「お前ら、本当に静かに作業してたんだな。」
隣の席の友人、田嶋亮が苦笑混じりに声をかけてきた。彼は何かと気さくで、誰とでも話せるタイプだ。祐斗は軽く肩をすくめた。
「別に騒ぐ必要はなかったしな。」
「まあ、涼宮さんが相手なら、そりゃそうかもな。なんか、近寄りがたいオーラがあるっていうか。」
亮がちらりと紗耶の方を見やる。その言葉に祐斗は少しだけ考えたが、何も言わずにノートを開いた。
-ホームルームの開始-
ホームルームが始まり、担任の森崎先生が入ってくると、教室は自然と静まった。祐斗と紗耶はそれぞれ配布物の束を持って前に立つ。
「それじゃあ、学級委員のお二人、資料の配布をお願いします。」
森崎先生の指示を受け、二人はクラスメートたちに資料を配り始めた。紗耶は無駄な動きを一切せず、淡々と作業をこなす。その姿に、祐斗は昨日と同じような効率の良さを感じた。
「ありがとう。」
小声でそう言って資料を受け取る女子の一人が、少しだけ紗耶を気後れしたような目で見つめた。それに対して紗耶は何の感情も浮かべず、ただ次の人に資料を渡すだけだった。
祐斗はその様子を見て、小さく息をついた。紗耶が人を遠ざけてしまうのは、きっとその冷静すぎる態度のせいだろう。だが、彼女自身がそれを気にしているようには見えなかった。
-放課後のミーティング-
その日の放課後、学級委員としての簡単な打ち合わせが行われた。参加者はもちろん、祐斗と紗耶の二人だけだった。
「次の行事について、先生からこれを預かった。」
紗耶が取り出したのは、次週の体育祭に関する資料だった。彼女はその内容を一通り目を通し、祐斗に手渡す。
「どう思う?」
「どうって…まあ、内容は普通だな。特に問題はなさそうだけど。」
祐斗がそう答えると、紗耶は少しだけ首を傾げた。
「普通って、どういう意味?」
彼女の問いに、祐斗は一瞬言葉に詰まった。それは冷たさというよりも、純粋な疑問を感じさせる声だった。
「えっと、つまり…特に改善点もないし、このままでいいんじゃないかってことだよ。」
その説明に紗耶は納得したように頷いたが、どこか考え込むような表情を見せた。そして、静かに言った。
「私たちが関わるなら、ただ普通じゃなく、少しでも良くするべきだと思う。」
その言葉に祐斗は驚き、彼女の顔をじっと見つめた。これまで淡々とした態度しか見せなかった紗耶が、自分の考えをはっきりと口にした瞬間だった。
「そっか…それもそうだな。」
祐斗は苦笑しながら同意した。彼女の言葉には、一理どころか確かな説得力があった。
-帰り道の微妙な距離-
その日もまた、二人は同じ方向へ帰ることになった。夕焼けに染まる道を並んで歩く中、祐斗はふと紗耶に話しかけた。
「さっきの話、ちょっと意外だったよ。」
「何が?」
「君がそんな風に、普通じゃなくて良くしたいって考える人だとは思わなかった。」
その言葉に紗耶は一瞬だけ歩みを止め、祐斗の方を見た。夕日の光がその瞳を柔らかく照らし、ほんの少しだけ感情の色を浮かび上がらせたように見えた。
「そう見える?」
「うん。でも、悪い意味じゃないよ。」
祐斗が少し慌てて付け加えると、紗耶はわずかに微笑んだ。それはほんの一瞬のことだったが、彼の胸に妙な温かさを残した。
「これからも、学級委員として頑張ってみるつもり。だから…あなたも、手を抜かないで。」
「もちろん。」
祐斗は真剣な表情でそう答えた。その返事に満足したのか、紗耶は再び歩き出した。二人の間に漂う微妙な距離は、その一歩一歩で少しずつ縮まっていくようだった。
その先に待つ未来を、まだ誰も知らないまま。