第一章
放課後の校舎には、まだいくらかの喧騒が残っていた。部活動へ向かう生徒たちの足音と笑い声が、廊下を行き交うたびに響き渡る。その中で、桐生祐斗と涼宮紗耶の二人は静かに教室に残っていた。
学級委員としての初仕事、それは明日のホームルームで使う資料の準備だった。祐斗は机に散らばるプリントを手際よく整え、紗耶が黙々とその確認をしていく。お互いに言葉少なに作業を進めるその姿は、まるで呼吸が合った二人組のようだった。
「ここ、誤字がある。」
紗耶がそう指摘すると、祐斗は素早く手元のプリントを見直した。
「ああ、確かに。直しておく。」
短いやりとりが交わされるだけで、再び静けさが戻る。この無駄のないやり取りは、二人にとって居心地が悪いものではなかった。
「君、こういう作業に慣れてるのか?」
ふと、祐斗が静かな声で問いかけた。紗耶は手を止め、少しだけ首を傾けた。
「どうして?」
「いや、すごく手際がいいから。こういう役割って中学でもやってたのかなと思って。」
紗耶は少し考えるように視線を落とし、それから短く答えた。
「特にやっていない。ただ、効率よく進めるのが好きなだけ。」
その言葉に、祐斗は小さく頷いた。それ以上の追及をせず、また作業に戻る。これが彼らの距離感だった。
-静かに広がる隙間-
教室の時計が午後五時を指す頃、ようやく作業が一段落した。完成した資料をまとめながら、祐斗は小さく息をついた。
「終わったな。」
「うん。」
紗耶もまた資料をカバンにしまいながら、短く答えた。その横顔は相変わらず感情を表に出すことがなく、何を考えているのか全く読めなかった。
「学級委員って、思ったより面倒な仕事だな。」
祐斗がぼそりと漏らすと、紗耶は一瞬だけ視線を彼に向けた。
「そう思うなら、辞退すればよかったのに。」
その一言に、祐斗は少し驚いたように目を見開いた。しかしすぐに苦笑し、肩をすくめる。
「そうだな。でも、指名された以上はやるしかないだろう。」
その言葉に紗耶は何も答えず、ただ祐斗の顔を見つめるだけだった。その視線にどこか鋭さを感じたが、彼女の真意を知る術はない。
「…君は、なんで断らなかったんだ?」
逆に祐斗がそう尋ねると、紗耶はわずかに眉を寄せた。そして、少し考えるように言葉を選びながら答える。
「別に。やりたくないわけじゃなかったから。」
それ以上の説明はなく、会話は途切れた。だが、その短いやりとりの中にも、どこか二人の間に流れる微妙な空気が漂っていた。
-微かな変化-
帰り道、校門を出てそれぞれの方向へと歩き出す二人。普段なら別々に帰るはずだったが、その日は珍しく、祐斗が紗耶と同じ方向に向かうことになった。
「家、そっちなんだな。」
「偶然だけど。」
祐斗が軽く言うと、紗耶はそれ以上反応を示さなかった。淡々と歩くその背中を見て、祐斗は何気なく口を開いた。
「君って、本当に感情を出さないよな。」
その言葉に紗耶は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。その瞳には一瞬だけ、微かな戸惑いが浮かんだように見えた。
「そう見える?」
「まあ、悪い意味じゃないけどな。俺も似たようなものだから。」
祐斗が苦笑を浮かべると、紗耶は短く「ふーん」とだけ答え、再び歩き出した。その横顔にはわずかに緩んだ表情が浮かんでいた。
これが、二人の距離を縮める最初の小さな一歩だった。