十九時四十八分
遠くで雷鳴が鳴る夕闇時、大江譲二は汗が噴き出すのも構わず、無我夢中で街中を走り抜けていた。
曲がり角を何度か曲がり、閑散とした路地に迷い込んだところで初めて足を止め、後ろを振り返った。彼に万引きを強要させた野球部の角須先輩達も、万引きに気付いて声をかけてきたスーパーの店員も、彼を追いかけてくるものはいなかった。しかし、譲二の手の震えは止まらなかった。
唐突にポケットの中でスマートフォンが振動し、彼は恐怖に慄いた。角須先輩からの着信に違いない。
譲二はスマートフォンを放り捨てたくなる衝動を何とかこらえ、着信を無視して再び駆けだした。
実際、どこを通ってここまでたどり着いたのかまるで覚えてはいなかったが、とにかく譲二は自宅の玄関まで帰ってきた。ふと駐車場に目をやるが車は停まっていない。両親の帰りが遅いのはいつものことだった。
先ほどの光景が譲二の頭をよぎり、不意に身体を震わせた。僕が逃げ出した後、角須先輩たちはどうしたのだろう。スーパーの店員に僕の身元を喋っただろうか。そもそも、僕から生徒手帳を取り上げて、返してほしければ万引きをしてこいと脅してきたのは角須先輩たちなのに……
そこまで考えたところで、譲二は重大な事実を思い出した。
「あっ! 生徒手帳、返して貰ってない!……ど、どうしよう……」
とはいえ、今から引き返す気力もないし角須先輩に連絡するなんてもってのほかだ。途方に暮れる思いを抱えながら、譲二は玄関の鍵を開けた。
靴を脱いでいると、頭上からあわただしく階段を駆け下りてくる音が聞こえてきた。
「お兄ちゃんおかえりー!ねえ、なんで電話出てくれなかったの?コンビニで爆盛り白桃パフェ買ってきてもらおうと思ってたのにー!」
「ただいま、愛理。そ、そうだったのか。でも夕飯前にそんなの食べたらお腹いっぱいになっちゃうんじゃないか?」
「お兄ちゃん帰ってくるの遅いから先に食べちゃったよー!だからデザートに買ってきてもらおうと思ったのに!」
そう言って愛理は唇を尖らせる。普段は小学3年生とは思えないほど大人びているわりに、こういった表情は実に子供らしい。
そうか、先ほどの電話は愛理からだったのか。それなら出てあげればよかったな。しかし、動揺してコンビニに寄る気力はなかったかもしれないが……
「お兄ちゃんもお腹すいたでしょ?ご飯あっためといてあげるから手洗っておいでよ!」
「うん、ありがとう……でも、お腹はあんまりすいてないかもしれないな……」
正直、いまは何も喉を通りそうにないし、とにかく疲れていた。すぐにでもベッドに飛び込みたい気分だ。
「えー、ご飯いらないの?外で食べてきたとか?……あっ!もしかして……」
愛理は振り返って訝しげな視線を向けてきたが、何を勘違いしたのか不意にその大きな瞳を煌めかせた。
「彼女とデートしてきたとか?」
「ば、馬鹿っ!そんなわけないだろ!」
譲二は慌てて否定する。その様子を見て、愛理はクスクスと笑った。
短いやり取りだが、譲二は束の間先程までの出来事を忘れていた。
不意にインターホンが鳴り響き、譲二の感覚は一気に現実に引き戻される。冷や汗がどっと噴き出す。
こんな時間に来客が来るはずない。スーパーの店員か、さては警察?しかし、どうして僕の家の住所が……生徒手帳か。どうしよう、居留守を決め込もうか。幸い車は停まってないし、留守だとしても不自然ではない。
「は~い、どちら様ですか?」
譲二の思考を遮るように、愛理ののんきな声が響く。
「こんばんは~。大江さんのお宅ですよね?譲二くんは帰ってますか~?」
インターホンから聞こえてきたのは聞き覚えのある声色。今、譲二が最も聞きたくない声だった。
愛理に応対させるわけには行かないので、譲二は渋々玄関に向かった。震える手で扉を開きかけた。その瞬間、大きな手が扉の隙間から入り込み、無理やりこじ開けてきた。つんのめりそうになるのを何とか踏みとどまり顔を上げる。
大柄な坊主頭の二人組、角須先輩と同じ野球部の初洲が醜悪な笑みを浮かべて立っていた。
「おいおい譲二、俺たちを置いて先に帰るなんて、随分舐めた真似してくれんじゃねーの」
「す、すみません……」
「お前ふざけんなよ。とりあえず罰金な。ほら早く金持ってこい」
「ば、罰金!?そ、そんな……」
譲二が言い淀んでいると角須先輩は譲二の襟首を掴んでぐっと引き寄せて凄んだ。
「逆らう気か?自分の立場分かってんの?おまえんちの住所、さっきの店員にばらしてやっても……」
「こんばんは!お兄ちゃんのお友達ですか?いつもお兄ちゃんがお世話になっています!」
角須先輩の脅し文句は愛理の場違いな明るい挨拶により打ち消された。
「あ、愛理!なんで出てきたんだ!中に入ってろって!」
「なんだ、妹か?チッ……おいガキ、お前の兄ちゃんなー、店で泥棒したんだよ。だから俺らがお仕置きしてるわけ…………あっそうだ」
角須先輩の顔に陰湿な笑みが広がる。
「お前が代わりに俺らの言うこと聞くっていうならお兄ちゃんを許してやってもいいぜ?」
「なっ!ま、待ってください!愛理は関係な……」
「うるせえ!お前は黙ってろ!……ほら、どうするんだ?」
「お兄ちゃんが泥棒?……ふふっ、そんなわけないじゃん」
愛理は不思議そうな顔で角須の四角い顔を見上げていたが、不意にクスクス笑い出し、角須は思わず後ずさりした。
「だって、お兄ちゃんは今日7時間授業でずっと勉強してたんだから、寄り道する時間なんかなかったでしょ?」
「7時間授業?何言ってんだ、今日は午前中4時間午後2時間の6時間授業……」
「え?4+2は7でしょう?」
「……は?」
愛理が真顔でそんなことをいうものだから、場の空気は一瞬凍り付いた。しかし、角須は次の瞬間プッと噴き出してゲラゲラ笑い出した。
「お前の妹、頭おかしいんじゃねえか?見た目は全然似てないが、おつむの出来はそっくりみたいだな! あーあ、話になんねーわ。おい、譲二、やっぱりお前が金持ってこい。ほら早くしろよ、生徒手帳、返してほしくねーのか?」
角須が生徒手帳を譲二に見せつけるようにぶらぶらと揺らした。譲二は思わず身体を震わせたが、角須の思惑と異なり、その隣で妹の方が大きな反応を示した。
「あっ、そうだ!お兄ちゃん、今日生徒手帳忘れていったでしょ!机に置きっぱなしだったよ、はいこれ」
愛理はどこからか角須が持っている手帳と全く同じものを取り出して彼女の兄に手渡した。
譲二は狐につままれたような思いで手帳を開いたが、それは正真正銘譲二のものだった。
「それじゃあ、角須先輩が持っているのは……?」
角須は慌てて手帳を開いて中身に目を通し始めた。小さな目で穴が空くほど手帳を見つめていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。その顔はコピー用紙のように真っ白だ。
角須の視線が揺れ、愛理と目が合った。愛理は少女らしい笑みを浮かべる。譲二は何も気付かずただ急変した角須を訝しげに見ていた。
「ちょっと、どうしたんすか角須先輩?」
固まったまま動かない角須を見かねて、初洲が声を掛けた。
「……帰ろう」
「えっ!?」
「帰ろう……いや、スーパーに自首しに行かなきゃ」
「自首!?何言ってんすか!万引きしたのは譲二でしょう!」
「いや……万引きしたのは俺だし、4+2は7なんだ……いこう……」
「ちょっと!本当にどうしたんすか!待ってくださいって!」
角須は初洲の声など聞こえない様子で踵を返しそのまま何かに憑りつかれたかのようにふらふらと歩き出し、初洲も彼の後をついていく。
譲二は何がなんだか分からないまま立ち尽くしていた。だが、不思議と角須に絡まれることはもう無くなると、奇妙な確信があった。
「お兄ちゃんの友だち、ちょっと変わってるね……そうだ、せっかく外に出たんだし、白桃パフェ、買ってきてよ!その間にご飯の準備しておいてあげるから!」
愛理がそう言って譲二の背中を叩いた。
「あ、ああ……そうだな、ちょっと行ってくるよ」
譲二は我に返ると、にっこりと笑ってから街灯に照らされた夜道をコンビニに向かって歩き出した。久しぶりに笑えた気がした。
愛理は軽い足取りでコンビニへと向かって行く譲二の背中を見つめながら微笑を浮かべた。
「……お兄ちゃんのことは、なんでもお見通しなんだから……♡」




