命に、報いるために⑤
「いた」
頭上でエドガーの声がした。顔を上げると、鉄格子を挟んで息を切らした彼の姿が見える。ずっと走って探していたのだろうか。俺なんか見つけても、意味なんてないのに。
目が合うとエドガーの口元が僅かに綻んだ。しかし、俺の顔を見て眉が動く。視線が動き鉄格子へと向かった。俺から目を逸らした、と言ってもいい。
「いるなら返事しろよな。皆で手分けして探してんだからよ」
言いながら彼は魔具を開く。前方に緑色の術式が浮かび上がり、そして射出。突風が通り抜けた直後、甲高い金属音が耳を刺す。『風爪』により鍵が破壊され地面に落ちていた。格子が鈍い音を立てながらゆっくりと開く。魔具を腰のベルトへと戻し、エドガーは俺を見ないまま話し始める。
「お前がいなくなった後、ユーフェミア王女から連絡が来たんだよ。王城の見取り図と一緒に、お前がいる所の目星とこれからの……」
言葉は不自然な場所で止まった。再びエドガーの瞳が俺に向けられる。違うのは視線の意味。疑問の色が強く浮かんでいた。
「何してんだ、早く立てよ」
急かすように言葉が投げかけられる。エドガーの言っていることは正しい。鍵が壊された今、牢に留まる理由なんてない。しかし立ち上がれなかった。
絶望の重みは目に見えない鎖となって体を縛り付けていた。ただ、気力が削られ心が冷えていく。その感覚だけが確かだった。
動かない俺を不審に思ったのか、エドガーは牢の中へ足を踏み入れる。俺の体が目に入り一瞬動きを止めた。
「もしかして怪我してんのか?」
右腹部から広がる出血の痕にエドガーの声色に不安が帯びる。
「大丈夫なのかよ、それ」
答えない俺に対して、近付き手を伸ばした。俺はその手を振り払う。その動作に痛みが走る。右腹部ではなく、胸に。
俺の突然の拒絶にエドガーは目を見開き立ち尽くしていた。
「……この状況で俺達が出来る事なんてない」
構わず俺は吐き捨てる。エドガーの瞳は不安気に揺れ、俺を凝視している。耳を疑っているような、そんな表情。
「そうだけど、王女が……」
「どうせ帰還命令だって出てるだろ」
エドガーの不安を煽る様に会話を重ねていく。紛れもなく俺が言ったんだ。先程のも、今のも。
「お前、何言ってんだよ」
一歩、エドガーはにじり寄る。表情には動揺が色濃く映し出されていた。
「確かにお前がいない間に帰還命令は出てた。でも、」
強い意志を灯した瞳に軽蔑の色が浮かぶ。
「この状況に何も思わないのか? このまま故郷が消えても良いのか?」
正義感を宿した口調が胸に刺さる。視線を受け止められず顔を背けた。
「良いよ」
俺の口は醜く弧を描く。
「こんな国、どうでもいい」
震える声の中で、これだけは迷いなくはっきりと口から出た。フリットにこの国を憎んでいる事を暴かれ、そして認めてしまった。かつて抱いていた思いはもう燃え尽き、残されたのは拭い去ることのできない虚しさだけだった。
「それに、俺はもう班長でいる資格なんてないよ」
言葉を失うエドガーを前に俺は続ける。
「勝手に行動して、皆に迷惑かけて」
俺はただその場の感情で行動した。フリットを違法者にしたくない、そして死地へ向かわせたくないがために。皆に相談していれば結果は違っただろう。
結局、一年前となにも変わっていなかった。彼らの言う通り部隊長も班長も不相当だったんだ。肝心な時に俺の意識は現場から離れ、皆の混乱を誘う。
手を握り占めると右腹部に痛みが走った。激痛にうめき声にも似た笑い声が漏れる。しまいにはこんな傷まで負って、足手まといでしかない。
フリットは何で俺を治療したんだ。俺が憎いと言うのなら、何故あのまま殺してくれなかったのか。生きていても絶望に陥るのは分かっているくせに。俺にはもう約束も、理想も、力もない。立ち上がるための意志も、理由もなかった。なのに、
「……なんで、死なせてくれなかったんだよ」
押し殺していた願望がついに言葉となり零れ落ちた。この憎しみを、やり場のない怒りを、虚無感を抱えて生きろと言うのか。俺にはもう、無理だよ。
荒々しく胸ぐらを掴まれ、無抵抗のまま引っ張られた。
「なんだよそれ」
エドガーは冷たく睨みつける。
「まさか死にたいって言ってんのか?」
瞳に宿る怒りは鋭く、それでも揺れていた。無言でエドガーの視線から逃げた。否定も肯定もしない俺に、エドガーはさらに激昂する。
「なんか言えよ! お前はここで無責任に全部投げ出すのか!?」
「……そうだよ。俺にはもう、剣を取る理由もない」
答えると、重い衝撃が左頬を打ち抜く。次の瞬間には熱を帯びた痛みが広がっていた。エドガーの拳が俺を殴っていた。
「理由がないと何もできねぇのかよ」
熱い怒りを滲ませた呼吸を吐き出し、引き寄せる手にさらに力を込める。
「関係ねぇだろ! それでもやるんだよ!」
エドガーはさらに言葉を叩き付けるように吐き出した。
「お前に昨日何があったかなんて知らない! 今まで何に苦しんでたのかも分からない! それでも逃げるなよ!」
微細な振動に視線を向けると、エドガーの手は小さく震えていた。
「自分は今まで人殺しておいて、死にたいなんて言うなよ……!」
掠れた声の奥に潜む悲痛が、言葉と共に耳に届く。それは俺に向けられた刃であり、エドガー自身に刻み込む戒めのようでもあった。
同時に、胸の奥が軋む音を聞いた気がした。胸に留めていた別の傷が再び出血を始め、鈍い痛みが広がっていく。一番色濃く浮かび上がるのはあの、ルークス教国の事件だった。後悔の中、正義の為に彼を討った。彼が大切にしていたものを傷付けると分かった上で、それを選択した。奪った命が重みとなって圧し掛かる。
エドガーの手が静かに俺から離れた。
「俺達は、術師であり続けるしかない」
絞り出した声は小さく、遠くから聞こえる爆撃音と混ざり合う。
「今まで殺してきた事を後悔しないために。間違いだったと思わないために。正しかったと証明し続けるために」
悔恨を噛み殺した表情で、拳を強く握りしめ彼は告げる。
「俺達は術師であり続けるしかねぇんだよ……!」
エドガーの言葉が胸を貫く。それは、言い逃れの出来ない現実を示す言葉でもあった。
ルークス教国での事件よりも前。グラウスに来た時、いや、さらにその前。術師となり、初めて誰かの命を奪った時、誰もが授かる呪い。
エドガーの言う通りだった。全てを投げ出せない程、引き返せない程、この手は血で汚れすぎていた。
俺が生きるのを否定するのは、彼が俺に託した物を否定するのを同じだ。彼の嘘を、それを引き継いだ俺が、逃げるなんて許されない。
戦い続けねばならない理由が、生き延びなければならない約束が、いつの間にか、自覚をしないまま発生していた。
術師であり続け、戦いに身を投じるのは償いであり、そして今まで奪ってきたものに敬意を示すためのもの。俺達の行為には決して目を背けられない責任が伴い、戦いに縛り付ける楔となっていた。
どんな形であれ、それからは逃げることはできない。その重みは、どこへも持って行けない。背負い続けるしかないんだ。
膝を付く自分に、牙を剥くような激痛が襲う。
震える足に力を込め立ち上がる。縺れそうになる足を前に出す。
歩みを進める度に心が叫び声を上げる。
降りかかる現実に目を逸らしたくなる。
死にたいという願いは変わらない。
それでも、行かなければ。
命に、報いるために。