「嘘」④*
広い空間にたった一人、エドガーは残る。間借した騎士団の一室、そこは先程の騒動が嘘だったかのように静まり返っていた。
アイクはユーフェミア王女と共に出かけ、マリーは付いて来る事を禁じられたが念のため周囲の見回りを行うと席を外した。昨日の件で消化不良に陥ったマルティナもそれに付き添うと申し出て、万が一を思って医術師であるヴィオラもそれに同行している。
エドガーは椅子に腰かけ、静寂が満ちる部屋に佇む。手には紙の束。昨日マルティナが見つけたアウルム帝国の新技術の資料だった。
何度も読み返したそれにもう一度目を通す。ページを捲る度、眉間に刻まれた皺の深さが増した。字を追う毎に疲労を感じ、エドガーは資料を机に投げ捨てる。軽い頭痛を覚え目頭を揉むが症状は変わらない。昨日の疲れか、心因性のものかは分からなかった。
改善される事は諦め窓に目を向けた。硝子越しに見えるのはどこまでも澄み渡る青空。つい先ほどまで煩い程響いていた抗議活動の声はいつの間にか消えていた。今日は早々に騎士団が鎮圧したのか。それとも、国民達も昨日の竜の出現により活動を控えているのか。どちらにせよ騒音が止むのならありがたい。暴動の声が聞こえたものなら、痛みはさらに増していただろう。
エドガーは短くため息をつき、これまでに思いを馳せる。
フォリシアに来て気が付けば四日経過していた。昨日突然発生した竜を相手にしただけで、他は特に目立った活動をしていない。それなのに何故こんなにも疲れるのか。理由は一つ、この内乱にアウルム帝国が関わっているから。
国土を広げようと、術師協会に勝る影響力を得ようと野望を抱く祖国をエドガーは良く思っていない。寧ろ、愚かな行為であると蔑んでいた。
二年前のエスト戦争のような悲劇をこの地でも起こそうと言うのか。
目を閉じればあの光景が蘇る。火と硝煙、血と臓物の異臭。叫びが、怒声が、嗚咽が、慟哭が、怨嗟の声が今でも耳に残っている。思い返すだけで吐き気が込み上げるあの光景を──、
不意に扉が叩かれ思考を遮られる。こんな時に誰が何の用事なのだろうか。考えつつ「どうぞ」と扉の向こうの人物へ声をかけた。
「失礼します」
扉を開け会釈をする。目に入ったのは短い橙色の頭髪と大きな青い瞳。ノエだった。
彼は後ろ手で静かに扉を閉めた後、部屋を見渡した。人の気配のない静まり返った空間を見て首を傾げる。
「アイクさんは居ますか?」
「今は席を外してる。しばらく帰って来ないぞ」
エドガーは曖昧に答える。王女と出かけている、なんて口が裂けても言う事は出来なかった。エドガーの返答を聞き、ノエは肩を落とす。
「そっか……昨日のお礼を言いたかったんだけど……」
小さく開かれた口から寂寥が零れ落ちた。昨日の礼、とはアイクがノエを庇い、代わりに傷を負った時の事だろうか。
言ってしまえばあんな傷を負うのは日常茶飯事だ。それを気にして態々来るなんて律儀だな、と考えていると、いつの間にかノエの瞳はエドガーに向けられていた。
「あなたは……エドガーさんですね」
「敬称は付けなくて良い。敬語も必要ない。俺に気を使う必要はねーだろ」
言うと、ノエは薄く微笑む。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
柔らかい口調は先程とあまり変わりはない。普段から丁重な話し方なのだろう。
「ノエは昨日の傷、大丈夫なのか?」
「術師協会の人に名前を憶えて貰えるなんて光栄だよ」
彼の名を声に出すと、目尻が少しだけ下がり頬が柔らかく緩む。
確か彼も傷を負っていたはずだ。違法術師の魔法により肩を貫かれたのを後ろから見ていた。
「傷は大丈夫。でも、最後まで相手にした君の方が大変だったんじゃないか?」
「それは、まぁ……」
エドガーは言葉を濁す。ノエもノエで民間人の誘導を行っていた。どちらかの方が、なんて優劣をつける事は出来ない。
しかし、当時エドガーには若干心持に余裕があった。トラブルに巻き込まれる事は慣れている。突然の荒事に対して特に動じず、いつもの事だと思ってしまう自分が少し嫌になった。
「凄いな、君は。その年で術師協会の術師なんだから。昨日も助かったよ」
「別に、仕事だから」
賛辞を少しむず痒く感じ視線を逸らす。対して、ノエの顔に影が落ちた。
「仕事だとしても立派だよ。あと、羨ましい」
「羨ましい?」
言葉を受け、エドガーの眉間に皺が寄る。仕事について言っているのだろうか。過酷な、そして自分自身が望んでいない戦いについてそう言われるのは少々不快感を覚えた。ノエは頷き、言葉の続きを話す。
「だって、アイクさんとああやって肩を並べて戦えるんだから」
そう言う事か、と納得する。ノエはアイクと再会した時大袈裟と言えるほど喜んでいた。それを思い出せば、常に一緒に戦う自分にそのような感情を抱くのは分からなくもない。
「アイクの事、随分慕ってるんだな」
「ああ、憧れだったよ。強くて、優しくて、それでいて自己研鑽を怠らない」
顔を上げたノエの瞳は、一年前に思いを馳せ輝いていた。自分の知らない班長の姿。しかしノエの話から今とあまり変わらないな、と口を綻ばせる。
だからこそエドガーは不可解に思う。彼はフォリシアでもそこそこの地位に就いていた。そしてこんなにも部下から慕われ、親友と呼べる人物もいる。それなのに何故、術師協会に行く事を誰にも言わずこの国を離れたのか。
「アイクは、なんでフォリシアから離れたんだ?」
疑問は率直な言葉となって漏れ出る。穏やかだったノエの表情に険しさが浮かんだ。
「君はアイクさんから理由を聞いてないの?」
「術師協会に推薦されたから、としか聞いてないな」
確か、以前彼はそう話していた。あまりにも表情が暗かったため、何かあるとは思っていたがその時はそれ以上話を広げる事はしなかった。
だが、フォリシアに行く事を異常に拒んでいた事。祖国に帰ってからの様子。そして、一日目。イェルドという人物のアイクに対する言動。そこから推測するのは、
「もしかして、一部から疎まれてて……」
「僕のせいだよ」
最後まで言わせない。そう言わんばかりにノエは力強く言葉を遮った。
「僕のせいだ」
もう一度言う。声は低く、明瞭に響いた。
「ノエの?」
問うと彼は小さく頷く。
「なんで出ていったのがノエのせいになるんだ?」
ノエは目を泳がせる。エドガーの言葉を止め訂正したのは良いが、その続きの、真相に迫る内容を口に出しても良いのか迷っているようだった。エドガーはただ見つめ答えを待っていた。
ノエの表情から憧れが消え、自己嫌悪へと変わる。噛みしめられた口の間から苦鳴にも似た言葉が漏れた。
「……去年、大型の魔獣の討伐任務があったんだ」
「フォリシアらしい任務だな」
感想を呟くとノエは「でしょ?」と力なく笑う。それはまだ平和な頃のフォリシア。国民達の鎮圧ではなく、魔物から人々を守るために戦っていた時代。
「途轍もなく強い魔物だった。昨日の竜以上のね。アイクさんの部隊がそれを担当したんだ」
重く沈んだ声だが、その口調は誇らし気だった。アイクと過ごした日々はノエにとって、代えがたい程眩しいものだったのかもしれない。
「戦闘は順調だった。でも、深手を負った魔物が暴れ狂った時、僕の退避が遅れたんだ」
ノエの拳が強く握りこまれる。
「僕を引っ張って代わりに前に出たアイクさんに魔物の爪が直撃して、それで大怪我を負った。即死じゃなかったのは幸運としか言えない傷だった」
当時を思い出し、ノエの顔が絶望に染まっていく。死を覚悟した瞬間の、自分のせいで誰かが死んでしまうと感じたその恐怖が蘇る。
「それで、指揮を失った部隊は一時的に混乱を来して……。魔物は何とかなったけど、部隊を乱した責任や隊長そしての資質を問われて、それで、その後……」
声が震え、ノエは言葉を詰まらせた。しかし結末を聞かなくても分かる。それ以降はエドガーも知る話だった。痛みを堪える表情に現在まで続く後悔が重なった。
「悪いのはあの人じゃない! 悪意を持ってアイクさんに関わろうとする奴らと、足を引っ張った僕のせいなんだ!」
悲痛な声でノエは訴える。
部下を庇う行為は倫理的には正しい事に聞こえる。だが、指揮を放棄するのは部隊長として致命的な失態である事に変わりはない。僅かながらも従軍経験があるエドガーはそれが意味する事を分かっていた。
「……それで、アイクはいつの間にかフォリシアから居なくなってたのか」
事件以前から続く不当な扱いに、行いに対する批判。悪意と正義がアイクを執拗に責め立てた。そこに差し伸べられた術師協会からの推薦状は彼にとって救いだったのだろう。頑なにフォリシア行きを拒んでいた理由を理解すると同時に、心境を慮り心苦しくなる。
「あの時も、昨日も、助けて貰ったのにお礼も言えないままだよ」
乾いた声が空間に散っていく。虚ろな静けさがその跡を埋めた。一年前も今日も、すれ違い合えないまま。また同じ事を繰り返すのかと、ノエの瞳に恐怖が帯びる。それに対して、エドガーは小さく笑った。
ノエが疑問と共に、何が可笑しいのかと抗議の目を向ける。
「いや、アイクらしいなって」
エドガーはここ一年の彼の事しか分からない。目の前のノエよりアイクと過ごした時間は短く、知らない事の方が多いだろう。しかし、
「あいつも馬鹿じゃない。助けたら自分の身に起こる事と今後の自分への非難も分かってたはずだろ。それでも、助ける以外の選択肢を持たなかった」
これまでの戦いを思い返すように、翠緑の瞳を窓の外へと向けた。脳裏に浮かぶのは辛い記憶ばかり。幾度となく傷付き、生命の危機に瀕してきた。だが、傍らにはいつも彼が居た。
「ここにいた時と、今も何も変わってねーんだなって。真面目で、頑固で」
それ以上言うのは少しむず痒く、変わりに笑って誤魔化す。
いつも彼に助けられていた。故郷を離れた理由が何であれ、本質に変わりはない。変わりがないのなら、過去を知ろうが関係なかった。これまでと同じように接するだけ。
「やっぱり、君が羨ましいよ」
ノエは力なく呟いた。
「僕は、あの人に並べないから」