愚者と深緑の森
白い壁と明るい照明。周囲には僅かに薬品の匂いが漂い、なんとなく緊張感を抱く。外とは隔たれたこの独特な空気がそんな思いに至らせるのか。
無機質な診察室で俺と白衣を着たオリヴィアは向かい合って座っていた。横には机が置かれ、資料や書類が積まれている。
「採血結果、バイタル、心肺機能に異常なし」
オリヴィアは手に持つ紙を眺めながら呟く。
「今回も特に異常はないみたいだね」
「ありがとう、良かったよ」
彼女の言葉に安堵の息をつく。特に体の調子が悪いと感じる事はなかったが、数字として証明されると安心する。
オリヴィアは紙を差し出すが俺は首を振る。貰っても再び読む事はないだろう。無言の返答に彼女はそのまま検査結果を足元のゴミ箱に捨てた。
「前衛は怪我が多くて大変だねえ」
「治るから大丈夫だよ」
「そういうもの?」
俺の回答が腑に落ちないのかオリヴィアは首を傾げる。実際そういうものだ。
怪我をするのが仕事、とは言わないが傷付くのを恐れてはいられない。致命傷以外は無視。体が動くのなら問題はない。それに、優秀な医術師達のおかげで怪我ならその場ですぐ直る。
「まあ、皆が生きて帰ってきてくれれば良いよ」
そう言ってオリヴィアは眉を下げ困ったように微笑んだ。戦場に出ない彼女にとって帰りを待つというのはもどかしさを覚えるのだろうか。
しかし、こうして彼女を見ると賭博にのめり込み教会を追放された者とは思えない。今、目の前にいるのは優しき医療者だ。
「そういえば、ちょっと聞きたいんだけど……」
「何かあるのか?」
答えると周りを見渡し、周囲に人の気配がない事を確認する。姿勢を低くし、俺に顔を近付けた。
「アイク、今月余裕ある?」
「何のだ?」
声を潜めるオリヴィアに嫌な予感がするも、とりあえず聞いておく。
彼女は唇を引き結び、一瞬躊躇う様な表情となる。しばしの沈黙。その後、決意を固めたのか口を開く。
「えっと、その、お金の……ね?」
予感的中。そして、先程まで彼女に抱いていた印象を撤回する。
「そんな呆れた顔しないでよー! 絶対当たると思ったんだもの!」
「何回目だよ、それ」
相も変わらず、彼女の賭博依存は無残に負けようが痛い目に遭おうが治らない。生活が困窮するまで賭ける度胸は尊敬する。こうなりたいと思わないが。彼女の元上司も教会で問題を起こす前に追放して正解だっただろう。
呆れる俺の前でオリヴィアは大きなため息をついた。
「もう頼めるのはアイクしかいないよ……。こんな事話したらリーナには怒られるしスヴェンには笑われるだろうし……」
弱々しく呟き頭を垂れる。少し可哀想になってきた。
「仕方ないな……」
言葉を聞き、オリヴィアは勢いよく顔を上げ俺の手を握る。
「ありがとう! 倍にして返すからね!」
瞳を輝かせ彼女は言う。まだ貸すとは言っていないが。「期待しないでおくよ」と言うと、彼女は小さく笑う。絶対懲りてないな。
こう言う同情は良くないと分かってはいるが、ついつい手を貸してしまう。オリヴィアが先程並べた人物達にこれが知られたら俺も一緒に呆れられるのだろう。
杞憂と共にオリヴィアから手を離す。
「この後仕事だから終わったらな」
「これから?」
オリヴィアは壁に掛けられた時計に青い瞳を向けた。二本の針が示すのは九時三十分。
「今日は出発まで少し時間が空いたから検査結果を聞きに来ただけだよ」
情報を補足すると「そうなんだ」と納得する。
「執行部はいつも忙しそうだね」
「どこの部署も同じだろ」
苦笑いで返すとオリヴィアも笑って同意を示した。
「そういえばさ、アイクなんかあった?」
「何か気になるのか?」
うん、と肯定しオリヴィアは俺を見て言葉を続ける。
「ここ最近、以前に比べて怪我が多い。この間から……ルークスでの長期任務から帰って来たあたりくらいからかな」
その指摘に一瞬心臓が強く脈打った。あの事件を思い出して胸に痛みが走る。無理矢理笑顔を作りオリヴィアを見た。
「気のせいじゃないか?」
「それなら話してないよ」
はぐらかそうとするとそう断言される。確かな根拠の元、彼女は話していた。普段は頼りない事の方が多いのに、こういう時は鋭い。
「それに、顔に出やすいんだから誤魔化し切れてないよ」
追撃の言葉に無駄だと分かり諦める。否定すればさらに追及されるだろう。上げた口角をため息で解き、大腿の上で握った拳を見た。
「大したことじゃない。そのうち解決することだから」
「そう? まあ、無理には聞かないけどさ」
瞳に疑問の色を残しながらも会話をここで打ち切る。オリヴィアも無理には踏み込んではこない。お互い信頼関係に傷を付けたくはないのだろう。
しかし俺に問題があるのは明白だ。
あの一件から渦巻く感情が刃を鈍らせていた。首を刎ねた感覚が、後悔が、重りとなって手に残る。
それと同時に抱くこの思いが何なのか、どうしていきたいのか自分でも分からない。時間が解決していくと思ったが、消化する方法が分からずいつまでもこうして胸の内に渦巻いていた。
本当は分かっている。
俺はただ、分からないふりをしているだけだ。それが仕事にも影響を及ぼしている事に罪悪感を覚え、顔を背け彼女の視線から逃げる。
そして、目を向けた先で勢いよく扉が開いた。
「こんにちは! オリヴィアさんいますか!」
部屋と扉の境界には小柄な女性が立つ。水色の長い髪を頭の片側で結んだ特徴的な髪型、執行部四班のネルだ。
「あ、アイクさんも居たんですね。突然入っちゃって申し訳ないです」
「少し話してただけだから気にしなくて良いよ」
言いながらオリヴィアを見ると、今度は彼女が目を逸らす。
「ネルも検査を受けてたのか?」
「はい!」
元気の良い返事。スヴェンが度々自分の班員達の事を問題だらけと話しているが、目の前の彼女はそうには見えない。ネルとはなかなか行き会わずあまり話した事はないが、その僅かな時間でも礼儀正しいという印象を抱いていた。
疑問に思っていると、オリヴィアは机からファイルを手に取り何枚かページを捲る。
「ネルのは……これだね」
一枚紙を抜きネルへ差し出した。
「問題ないみたい」
「いつもありがとうございます!」
簡潔に結果を伝えるとネルは笑顔で紙を受け取る。数行確認すると紙を折り右手に持った。一連の行動を見ていると、視線に気が付いたのか俺を見る。
「そういえば、アイクさん。お話があるんですが……」
「ん?」
口を開くも、迷ったのか閉じ、しかしまた開く。
「前々から言おうと思っていたんですが、」
その瞬間、ネルの左手首に付けた通信用魔具からけたたましい通知音が鳴り響いた。ネルの体が跳ね、言葉を中断する。
「すいません、呼び出しです! この話はまた今度!」
魔具を操作し音を消すと、身を翻し部屋から走って出ていった。部屋には静寂が訪れ、残された俺達は顔を見合わせる。
「何だったんだ」
「話があったみたいだけど?」
「何のことか分からないな……」
言いかけた言葉が何だったのか気にならない訳ではない。しかし、彼女とは接点が薄いため続く言葉の想像がつかなかった。知らないうちに何かしていたのか、自分の行動を振り返っても思い当たることはない。
考えていても仕方がないので席を立つ。
「じゃあ、そろそろ俺も行くよ」
「まぁ、なんというか。気を付けてね」
オリヴィアは憂慮の目を向けつつ手を振った。手を振り返し部屋から出る。
扉を閉め深呼吸。切り替えよう。
先程言われた怪我が多いという指摘を気に留め歩みを進める。次の仕事先、深緑の森へ向かって。