三節 灯りなきノクターン*
夕暮れの光が差し込む部屋に女性の嗚咽が沈んでいく。明かりの消えた空間で、彼女は机に顔を伏せていた。背中は小刻みに揺れ、顔を伝う涙が木の天板に滲む。
「ママ……」
母親の傍らに立つ少女が呟く。彼女の顔半分を覆う白布と乱雑に巻かれた包帯。そこには赤黒い染みが滲み、乾いた血の匂いが微かに漂う。袖口から覗く腕には擦り傷と打撲痕が残っていた。
少女の呼びかけに対し女性は何も答えない。ただ、涙を零すのみ。
あの日、少女の前に投げ込まれたのは爆発物だった。二人はギャングの抗争に巻き込まれたのだ。砂埃の中、即座に気が付いた父親は少女を庇いその衝撃を全身で受ける事となる。簡易魔具と言えどもその威力は確かなもの。結果として彼は帰らぬ人となった。
少女は幼いながらもそれを理解していた。自分のせいで父親が亡くなった事を。
「ママ、ごめんなさい……」
震える声で贖罪を述べる。同時に少女の瞳が潤み、目の端から涙が零れ落ちた。取溜なく流れる涙が頬を濡らし落ちていく。しかし、母親から返答はない。聞こえるのは咽び泣く声のみ。それでも、少女は続けた。
「あたしのせいで、パパが」
言葉の途中、母親が突如立ち上がる。勢いで背後の椅子が転がり、床に乾いた音が跳ねた。彼女は感情のままに手を振り上げ、鋭い音が少女の頬で爆ぜる。
「そうよ! あんたのせいで!」
母親が少女へ叫ぶ。突然の怒声と暴力に少女は呆然と立ち尽くしていた。
「あんたが! 出かけたいなんて言うから!」
母親から発せられる事実が刃となって少女の胸を抉る。その痛みがぼやけていた意識を現実へと引き戻した。少女の瞳が再び揺れ唇が震えた。喉から漏れたかすれ声は後悔と絶望を帯びる。
そう、全部自分のせい。分かっている。自分がプレゼントを買いに行きたいと連れ出さなければ、こんなことにはならなかった。分かっていた。自分が父親を殺し、母親をこんなにも悲しませていると。
けれども、どうすることもできない。泣いても、謝っても、過去が変わるとこはないと少女は理解していた。
押し殺した泣き声を上げる少女を見て、母親も現実に思考を貫かれた。膝を付き我が子を抱きしめる。
「ごめんねティナ……叩いてごめんなさい……」
懺悔の声。彼女も母親である以前に一人の人間。突然の別離に感情を制御することができないのだ。二人の慟哭が日の落ちた部屋を満たしていく。
***
亀裂の入った壁と朽ちかけた扉が並ぶ。少女がその中の一つ、端から三番目の戸を押すと仄かに香辛料の香りが鼻を掠めた。
「おかえり」
家に入るとまず、母親の声が聞こえる。入ってすぐ、正面には台所。そこに彼女はいた。調理中のため手を離すことはできないが、顔だけ向け少女に微笑んだ。
二人はあの後、住んでいた家を売り払い小さな集合住宅へと身を移していた。設備は古いが生活ができない程ではない。思い出の詰まる家を手放すのは勿論憚られた。しかし、二人で生きていくには必要な選択だった。
少女は手縫いの手提げ鞄を置き母親の隣へ並ぶ。
「何かお手伝いする?」
「良いわよ、宿題があるでしょ」
母親の言葉に少女は顔を顰めた。
「あとでやるもん」
「そんなんじゃ魔法使いになれないわよ?」
少女を諫めると、彼女の唇が引き結ばれる。眉を寄せた後、生返事と共に口元が解かれた。
床に置いた鞄を再び手に戻すと部屋の奥へ向かう。渋々と、嫌気を隠すことなく椅子に座り鞄から紙を取り出した。端が折れ、所々曲がった用紙を広げると、睨み付ける様に設問と向き合う。
母親は少女が始めたことを確認すると口元に柔らかな笑みを浮かべた。そして、火を止めエプロンを脱ぐ。
「じゃあママ、仕事に行ってくるから」
声をかけると、玄関に用意していた鞄を手に取った。少女は壁掛け時計に目を向けた後、筆記用具を握る手に僅かに力が入る。時計の針は、これから訪れる冷たい夜の時間を告げていた。少女の胸に、何か欠けていくような空洞が生まれる。
「いってらっしゃい」
しかし、感情を押し殺しながら少女は笑った。引き留める訳にはいかないと分かっているから。母親は「夜は外に出ちゃだめよ」と念を押し戸を開けた。夕暮れの空の元、母親の姿が消えていく。
一人きりの部屋、芽生えるのは孤独感。薄暗くなっていく部屋が、その冷たさを増長する。早く朝になれと、そう願うのがこの時間の日課となってしまった。
夜に働きに出かけ、早朝家に戻ってくる。それが母親の仕事だった。少女は彼女が何の仕事をしているのかは分からない。けれども、自分のために身を削っていることは理解している。だからこそ寂しさを母親に訴えることはしなかった。
静寂の積もる部屋で、少女の溜息が孤独に重なった。隙間の空いた心に芽生えるのは、早く大人になりたいと言う願い。
大人になって働くことができれば、母親に楽をさせることができるのに。魔法使いになって悪い奴らを捕まえることができれば、父親のような犠牲を出さずに済むのに。
脳裏に過るのはたまに町で見かける光景。勇ましく魔法を操り、軽やかに町を駆け回る彼らの姿。それは憧れとして眼に焼き付き、胸を焦がし続けていた。
「よし」
少女は呟き机に向かう。少女は資格を取った姿を想像し笑顔を浮かべた。自分が魔法使いになることができたら、きっと母親も喜んでくれるだろう。そして次は自分が母親を、近しい人を守るのだと胸に刻み込む。きっとそれが、亡くなった父親に報いる方法なのだろう。
勉強を終え、夕食を摂ると少女は言付通り眠りにつく。様々な思考を巡らせながら瞳を閉じた。目が覚める頃にはきっと母親も帰ってくるのだから。
しかしその日以降、母親が帰宅することはなかった。




